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◇◆◇アジアの舞踊、おりふしの想い 『舞踊文化E.T.C』掲載より◇◆◇
私が評議員を務める一般財団法人黛民族舞踊文化財団の機関誌『舞踊文化E.T.C』(初回のみ『民族舞踊文化』)にアジアの舞踊機関等への視察を通しての随想を寄稿しています。
黛民族舞踊文化財団は、「我が国の民族舞踊を舞台芸術として確立し、その普及向上を図るとともに国際文化交流を目的として、昭和61年3月文部大臣から設立を許可された法人」で、創設者の故・黛節子先生は大変情熱的で実行力のある芸術家でいらっしゃいました。黛先生の舞踊への熱き想いを偲びつつ・・・。

◆アジアの舞踊、おりふしの想い~カンボジア・王宮の舞姫への追憶~
 私が2008年12月にカンボジアへ訪問したことは以前にも話をしてきたが(『民族舞踊文化』№21・『舞踊文化E.T.C』№19)、今回は、なぜ私がカンボジアの宮廷舞踊に関心を抱いたのか、視察当時のカンボジアの舞踊状況は如何か、また宮廷舞踊の踊り手を母に持たれたオム・ユヴァンナー教授(Prof. Om Yuvanna)の昔話を交え、カンボジアへの想いを綴りたい。
 日本ではカンボジアの芸術情報が極めて少ないため、この訪問にあたり、当時ユネスコ・プノンペン事務所長でいらした神内照夫氏とカンボジア古典舞踊家の山中ひとみさんのお二方に並々ならぬご尽力とご教示を賜ったことに感謝と御礼を申し上げる。

・古典舞踊記録プロジェクトのこと-『アジアセンターニュース』№16(2000年11月発行)
 私がカンボジアの宮廷舞踊の動向に関心を抱いたのは今から一昔も前のこと。国際交流基金アジアセンターの機関誌に報告されたロバート・ターンブル氏による「カンボジアの古典舞踊記録プロジェクト」を読んでのことだった。概略は、
  
「クメール・ルージュ政権下にアンコール王朝文化が一挙に破壊され、1981年の舞台芸術の調査結果で「舞踊家のわずか10パーセントしか生き残っていないという事実に直面した」という事態が明らかになった。その後、ロックフェラー財団の助成を受けたニューヨークのアジアン・カルチュラル・カウンシルが「長老による指導プログラム」を実施し、年老いた舞踊家たちから口伝えの奥義を披露してもらった。が、成果を記録する記述方法に統一と正確さを欠いていたため、複雑な作業を要する調査と記録に重点を置いたプロジェクトが国際交流基金アジアセンターの助成で17ヵ月以上にわたって実現され、王宮の古典舞踊のレパートリーである65作品のうち約半分が1997年までに蘇った。」

というものだが、折しも、新聞紙上で日本画の巨匠・平山郁夫氏がカンボジアのアンコールワット遺跡の保護・救済活動に取り組んでいるという記事を目にし、片や気付かぬうちに失われてしまう無形のものの儚さに私はつい無念さを覚えたのだった・・・。
 そういう想いがようやく叶って、NANAプロジェクトで2008年にはカンボジア訪問に漕ぎ着けたわけである。

・「アジアの国の人たちが今何を求めているのか」-神内照夫氏からの御助言
 神内照夫氏とは2004年6月にタイのバンコクで開催されたユネスコ/アッパン人形劇フェスティバル&シンポジウム(UNESCO/APPAN Festival and Symposium of Puppetry)で初めてお会いした。その時に神内氏から「アジアの国の人たちが今何を求めているのかを知り、その手助けをしてあげることが大事だ」という意見を伺ったのが、私がアジアに向き合う姿勢のその後の方向付けとなった。私流に解釈すれば“私たちの考えや手法を押しつけてはいけない”ということで、とかく先進国の人間には忘れがちな姿勢を戒めたものと私は受け止めた。その一言が印象的だったため、NANAプロジェクトでカンボジアを視察先に決めた際、神内氏にまずご相談し、そのなかで次のような情報を戴いた。

「カンボジアの伝統芸術を保護・継承する目的で人間国宝制度設立プロジェクトを2年前から行なっており、ユネスコ韓国基金を通じてカンボジアの文化芸術省を支援している。
カンボジアは驚くほどのスピードで経済発展をしているが、まだ長年の国内紛争の影響が残っており、特に芸術家・文化人にとっては良い環境ではない。
そうして神内氏のご紹介で文化芸術省を訪問し、文化芸術大臣のウック・ソチャット氏(Mr.Ouk Socheat)に古典舞踊記録プロジェクトについて伺った際、「これまでに少しずつ整備してやっている。1つは調査して、2つめは無くならないように守る、3つめはアレンジする。」「次世代を担う子どもたちに、本にしたり、ビデオに収めていくなどして、今まであった文化が無くならないようにして発展させていきたい。」という方針を伺うことができた。」

・圧政時代を生き延びた古典舞踊家の一人-オム・ユヴァンナー教授の聞き書き
 王立プノンペン芸術大学付属芸術学校古典舞踊科を日本人として初めて卒業し、現在カンボジア古典舞踊家として活躍されている山中ひとみさんのご紹介で、彼女の恩師のオム・ユヴァンナー教授宅を訪問し、山中さんへの個人レッスンの様子を再現していただいた後、カンボジア舞踊が王宮で伝承されていた頃についてインタビューをした。往昔、王宮で舞踊が行われていた頃の思い出を、次のように語られた。

「王宮のチャンチャヤー(CHANCHHAYA:月見台)や、ポーチャニー(PHOCHANY:迎賓館)で踊りを稽古したり、披露したりしていた。昔、母(宮廷舞踊の踊り手)が踊りの稽古をしていた時は王宮内に住んでいたが、私は王宮の中に住まず外から通った。
子どもの頃、年取った先生に習ったが、母がちょこちょこ覗き見て厳しく教えられた。肩を下げるとか、顎を上げる、とか皮が剥けるほど厳しい稽古で、腰の上下運動を2~3時間もやらされたり、「夜叉の足」(丸茂注:箱立ちになり片足を上げ下げする)を朝から夕方までやらされたことをよく覚えている。
1953年独立後は先生と踊り子、その家族を含めを含め300人ぐらいがいた。猿役の先生は男性で男子の生徒は少なかった。」

文化芸術省を訪問させていただいた折、ソチャット大臣が「カンボジアの芸能がユネスコの無形文化遺産に登録された時、一緒に居合わせたが、神内さんが自国のことのように喜んで下さった。神内さんにはいつまでもカンボジアにいていただきたい」とおっしゃっていた。カンボジアの宮廷舞踊がユネスコから2003年に、スバエク・トム(影絵芝居)が2008年に「人類の口承及び無形遺産の傑作」として宣言された蔭には、民族の壁を越えて一人の日本人の存在があったことを忘れてはならない。神内氏は、2010年11月にユネスコを定年退職され、現在はカンボジア政府の顧問官に就任されていらっしゃるそうだ。アジアで出会った素晴らしい日本人の一人である。
(『舞踊文化E.T.C』№21、黛民族舞踊文化財団、平成24年4月27日)


◇アジアの舞踊、おりふしの想い~韓国・国楽院&ソウル大学校~
 私の海外渡航の経験は遅い年齢であった。その初めが既にお話したが、1998年9月の韓国ソウルで開催された国立国楽院主催東洋音楽国際会議に招聘を受けてのことである。以来、ソウルへは10回を越えて訪問や招聘を受け、また主な伝統舞踊家や音楽学研究者を日本へお招きして今日に至っている。ことに国楽院は私の訪韓直後の9月末、当時の金大中大統領が国賓として日本を訪問された際に三宅坂・国立劇場で記念公演を行ったほどの韓国の伝統音楽・舞踊の国家機関である。今回は国楽院とその国際会議でご一緒だったソウル大学校の李愛珠教授について、各々の国際会議を通しての想い出を綴ってみよう。

・東洋舞踊の舞踊精神と近代伝統舞踊の父・韓成俊-国楽院主催東洋音楽国際会議
                     [1998年9月2-3日、於:国楽院牛耳堂]
 第3回東洋音楽国際会議のテーマは「東洋舞踊の舞踊精神」であった。かつて国楽院がヨーロッパ公演をした時の記者会見で「動かないのにどうしてそれが舞踊なのか」という質問を受けたのが動機で、東洋の舞踊はその自然な身体の動きや静止した中に精神的な拠り所を求めるということを確認するために本テーマが設定されたらしい。私はもちろん、「日本舞踊の舞踊精神-"道"と"遊び"と"祝い"-」の演題で発表した。
 ところで、この国際会議の招聘状に「韓成俊に敬意を表し、政府公認の文化形態に基づいて国際会議を開催する」という旨があり、会議当日は氏に関する冊子も配布された。一体、韓成俊(ハン・ソンジュン)とはどういう人なのだろうか。その「韓成俊の舞踊に関する韓国舞踊の精神」について発表したのが李愛珠教授であった。李先生は韓成俊(1874-1941)の娘・韓英淑(1925-1989)に舞踊の薫陶を受け、師に続き四十代で僧舞の人間文化財に指定された韓国舞踊の名手。彼女によれば、韓成俊は日本の植民地時代に創氏改名を拒否し民族意識を貫き、極貧の中で生命力と生活の動きに基づく創作によって韓国の伝統舞踊に近代性・未来性を備えることを目指したという。その発表の際に僅かではあるが、彼女が上半身だけを動かせて見せたサルプリ舞の実演は"恨(ハン)"という韓民族の心が見事に凝縮されていたようであった。
 さて、私の論評は国楽院芸術監督で鶴蓮花台合設舞で人間文化財に指定されている李興九氏であった。氏は私の論文から日韓の伝統舞踊の根底に流れている精神があまりにも韓国と類似点の多いのに驚いたというが、実際、私が日本舞踊の映像を紹介すると今度はそれ以上に様式の違いに驚かれていたことが懐かしく思い起こされる(日帝時代の終焉後、日韓は文化交流が断絶し日本舞踊についての公式な発表はこの時が初めてのようだった)。
 このように、人と人とのつながり、アジアの舞踊の心や形、そして組織や現状等、この会議で得たものは計り知れない。その後も、金大中大統領の訪日に伴って来日された国楽院の韓明熙院長には私の勤務する日本大学芸術学部で特別講義「韓国の伝統舞踊と音楽」をお願いできたのも幸いであったし、2001年9月、教科書問題で日韓の交流が冷え切った最中に本学では国楽院より特別な許可が下り楽器と衣裳の借用ができた。そして、滞りなく「韓の国 楽・歌・舞の流れ展」を開催し、美しい宮中舞踊の衣裳と日本初として正楽の楽器や韓成俊の功績を紹介することができた。今振り返ると、伝統舞踊や音楽を通して培ってきた隣国・韓国との篤い友情の証にほかならない。

・李愛珠教授とトンジャ・ナンジトゥ女史-ソウル大学校主催東北アジア舞踊国際学術会議                  [2009年11月12日、於:ソウル大学校閨章閣]
 国楽院の国際会議で初めてお会いした時、李愛珠先生には、言わば反日だからこそ韓国舞踊の魂が宿っているのだ、と私は直感した。そして、この素晴らしい舞踊家・李愛珠とお近づきいただけるか少し不安であったが、会食の折に日本人の私に細やかな気配りをして下さり、すぐ仲良しになった。
 その1年半後、私が半年間、韓国芸術綜合学校舞踊院で教鞭を執った折、2度程お目にかかったが、そうこうするうちに遂に2002年7月に東京で再会。日本女子体育大学で彼女を招聘し「日・韓 舞踊教育シンポジウム」を開催する計画があり、当時舞踊学会会長でいらした若松美黄先生のお取り計らいで李先生のご縁により私も参加することになった。当日、私との再会に驚きと喜びを示された李先生の姿が思い出される。
 李先生とは十年近く、このような淡々とした交際であったが、一昨年春に突然、彼女から国際会議の招聘を受けた。東北アジアの舞踊の共通点と相違点に関するテーマで私に日本舞踊について発表していただけないかという話であった。そこで私は、日本舞踊の概論として概念・起源・歴史・継承形態・技法・身体表現・動作解析について発表してきた。
 李先生、実は舞踊家としては天下一品だが、実務能力には長けているとは言えないようで、国際会議当日は学生たちのイベントと重なっており、会議の準備はてんやわんや、学生たちも会議を中座するなど嵐のような一日であった。でも、学生たちのイベントでの舞踊指導を遅くに終えて、ホテルで待機している私たちに食事をもてなして下さるなど滞在中に精一杯の真心で接して下さった。その国際会議で私と一緒に招聘を受けた方が八十歳のモンゴル国立文化芸術大学教授のトンジャ・ナンジトゥ女史。NANAプロジェクトが計測した日韓の伝統舞踊のモーション・データに大きな関心を示され、モンゴルにもモーションキャプチャを用いた動作解析を啓発でき、有意義な交流となった。

 この4月、私は再び、国楽院の開院60周年記念学術会議として開かれる「古楽譜・古舞譜国際会議」に出席することになっている。果たして、またどのような出会いが待っているか・・・。心躍らせて、今発表の準備に取り組んでいる。
 1998年の国際会議以降、向こうで知遇を得た多くの韓国の友人や若者が交渉(通訳)で私の訪韓を今も支えて下さっている。いっぽうでまた、そこで出会ったアジア各国の方々ともつながりができ、アジアの伝統舞踊を通して一つの輪になっていることを実感する。
(『舞踊文化E.T.C』№20、黛民族舞踊文化財団、平成23年6月3日)


◆アジアの舞踊、おりふしの想い~カンボジア&マレーシア~
 前回では私とアジアの舞踊との出会いと文部科学省オープン・リサーチ・センター整備事業の選定を受けた日本大学芸術学部NANAプロジェクトの舞踊教育機関の視察について紹介した。NANAプロジェクトは今年3月をもって終了したのだが、最後に訪問した国はマレーシアであった。プロジェクトの5年間で訪問したアジアの国は5ヶ国。いま振り返ってみると、カンボジアとかマレーシアの芸術を取り巻く環境や実態は日本ではあまり知られていない。そこで今回は、カンボジアとマレーシアを訪問した折の雑感を綴ろう。

・「水で稲を刈るのはたいへんだが稲がないよりましだ」-カンボジア王立プノンペン芸術大学付属芸術学校
 2008年12月25日午前、解放記念日(1月7日)に開催される独立30周年記念式典のための練習を見学した。場所は私が宿泊していたプノンペンのホテル近くのピーポワ劇場。式典に出演する古典舞踊の学生は言わば二軍ともいうべきメンバー。シェムリアップのアンコール遺跡ではアプサラダンス・ショーが観光名物で、それに出演する選抜メンバーが一軍である。その日の練習は大勢の輪踊りで中心にサーカスの学生、前列に古典舞踊の学生、外輪には民俗舞踊の学生、男子はイーケー劇やバサック劇などの学生を集めている。
 練習に立ち会っていたパオ・ティアン(Mr.Por Teang)芸術学校長に学校の概要についてお伺いしたところ、学科は舞踊(古典舞踊・民俗舞踊・カオル)、演劇(イーケー劇・バサック劇・現代劇)、音楽(古典音楽・現代音楽・アヤイ・チャペイ)、サーカス、造形芸術に分かれていて、生徒数は約1,180人で学生寮はなく自宅から通ってくるという。
 その日の午後は車で30分ほどデコボコ道を走ってバンサヤーにある芸術学校を訪ねた。ここもプノンペン市内だが、まったく無味乾燥な地に私が失望したのは前号で報告した通り。授業は午前が実技で午後は座学のはずだが、その日はクリスマスのため学生もまばらで授業はほとんど行われていない。案内役のバサック劇の先生は「外国では芸術家はお金持ちがやるがカンボジアでは貧しい人がやる。先生は教えたくとも給料が安く車のガソリン代がないから学校に来られない」等々、実際に抱える問題の多くを熱心に語ってくれた。
 前日、文化芸術省を訪問した際に「水で稲を刈るのはたいへんだが稲がないよりましだ」とフン・セン首相の言葉を教えていただいた。その言葉には、「どんなにたいへんであっても次世代を担う子どもたちに指導者が一生懸命がんばっていかねばならない。今まであった文化を無くさないようにして発展させていきたい」という意味があるそうだ。

・「伝統を持ちつつも前へ進む」-マレーシア国立芸術文化遺産大学
 国際交流基金の「文化人招へい」プログラムで来日されたマレーシア国立芸術文化遺産大学(ASWARA)のモハメド・ガウス・ビン・ナスルディン学長(Prof.Mohamed Ghouse Bin Nasuruddin)が昨年7月に日大芸術学部で特別講義をされ、NANAプロジェクトとも意見交換をしたことから、今年3月2日にASWARAを訪問した。
 ASWARAは現在ヘリテッジの教育課程がなく、学生たちの創作活動を中心に舞踊、演劇、音楽、映像、クリエイティブ・ライティング、造形の6学部がある。こちらのキャッチフレーズはカンボジアのような切実さはなく、「伝統を持ちつつも前へ進む」。「温故知新」と相通じる精神がみられるが、欧米化された日本では伝統文化という特定の分野でこそ重んじられる言葉が、マレーシアでは国立の芸術大学の教育方針であることに日本の文化的な差を感ぜざるを得ない。親日で知られるマレーシアなので、クリエイティブ・ライティングの中では歌舞伎や近松などの日本の古典を扱っているという。
 見学は舞踊の授業を主に企画され、民族舞踊の授業ではリズミカルなマレーの民族音楽に合わせて歩き方の練習をしていた。これはイナン・ダンスと呼ばれる宮廷の召使いの踊りでノリが早い。コンテンポラリー・ダンスでは、ドイツ政府が設立した国際文化交流機関であるゲーテ・インスティチュートから派遣されたドイツ人の先生による授業(イメージ創作)、インド伝統舞踊の先生による授業(伝統を現代にどのように活かすか)、香港の演劇学校卒業の若い先生による授業(側転の練習)の3つを見学。コンテンポラリーの受講生は伝統的な舞踊より人数が多いのは日本もマレーシアも若者の事情は同じようだ。
 その後、マヨンという宮廷舞踊と大衆マレー音楽を鑑賞しながら、用意された昼食を戴いた。マヨンは男役も女性が演じ、道化役だけ男性が演じる。最初は儀式の挨拶から始まり、物語は大体、旅で王子様に出会うという内容で道化によってその状況が説明されるというもの。

 偶然にもASWARAに日大大学院博士課程に在籍していたマレーシアの留学生が専任として着任していた。彼女はマヨンと狂言との共通性を研究し実践に移したいという抱負を語ってくれた。
 まだまだ知られていないアジアの舞踊・・・、日本へ来て勉強をした留学生やアジアへ留学した日本の若者たちによって、何れアジアの舞踊、いや音楽も演劇もそれらの全容がつまびらかになるのはそう先のことではなかろうと予測したマレーシアの旅であった。
(『舞踊文化E.T.C』№19、黛民族舞踊文化財団、平成22年5月12日)


◇アジアに花咲く“舞踊”の教育システム
 私とアジアの舞踊との出会いは1998年に韓国国立国楽院が主催した国際シンポジウムに参加し、日本舞踊の精神について発表したことに始まる。この出会いは私には衝撃的で、アジアの舞踊に共通する精神性を認識したばかりでなく、お互いの交流を深める絶好の機会となった。
 その後、私は2000年度前半を勤務先の海外派遣研究員としてソウルで過ごし、その間韓国芸術綜合学校の舞踊院で教鞭を執る傍ら、韓国内の主な舞踊教育機関の視察を行い、アジアの舞踊教育への関心を募らせた。今日の私のアジアの舞踊に関する基本的な考えはこれらの経験が拠り所になっている。
 そして今、私はNANAプロジェクトを立ち上げ研究活動を続けている。このNANAとは日本大学の「NU Art」と日本舞踊とアジアの舞踊の「Nichibu & Asian dance」の頭文字。2005年度に文部科学省オープン・リサーチ・センター整備事業の選定を受け、研究テーマは日本舞踊の教育システム(Education & Training)の基盤研究に置くが、国際化の今日に合わせアジアを視野に入れている。
 ここでは、NANAプロジェクトの視察で実際にこの目で見てきた、アジアの教育システムの側面について一部を紹介したい。

・伝承危惧の芸能を教育の中に-台湾戯曲専科学校
 台湾戯曲専科学校は京劇科・綜芸舞蹈(雑伎)科・伝統音楽科・歌仔戯科・劇場芸術科・客家戯科に分かれているが、中でも民間の芸人が高齢化のため技芸の伝承が危機にある客家戯(客家民族に伝わる茶摘みの情景を題材にした伝統芸能。茶摘み歌にレパートリーも多くある。)を正規の教育に組み入れた客家戯科の設置に私は注目している。日本でも今後、学校教育に日本の伝統舞踊を取り入れて振興や継承を図っていかねばならない方法を考えることが必要になるかもしれないが、客家戯に対する台湾の施策はアジアで見つけたその好例となろう。[2005年5月視察]

・指導者と舞台人に分けられた教育-中国戯曲学院
 中国戯曲学院は表演系・導演(演出)系・音楽・戯文系・舞美系の各学科他から成っている。その中の表演系は京劇の指導者を目指す学生と俳優を目指す学生とにクラスを分けている。とりわけ俳優を目指す学生の授業は「秋江」の花旦役とか「戦金山」の武旦役とか演目ごとにクラスがあり、1クラスは選び抜かれた3名だけ。男女とも容姿が端麗で技術も優秀だが、最終的には1名に絞られる。日本舞踊でも師匠になるための教育や舞踊家になるための教育など目的に見合った指導法が好ましいと私も思うのだが、卒業後に舞台人として活躍できる点では中国は日本より一歩進んでいよう。[2006年9月視察]

・王立と民間との舞踊教育の違い-王立プノンペン芸術学校とクメール芸術アカデミー
 7,8年前にカンボジアの古典舞踊の復興に日本が積極的に関わっているという記事を読んでからカンボジアの舞踊に関心を抱いていたところ、ようやく昨年、視察が実現した。王立プノンペン芸術大学付属学校は舞踊・演劇・音楽・サーカスなど10の学科に分かれている。10年程前までは王宮の近くにあったが、現在は6㎞離れただけの僻地にも等しい悪条件の地に移転していた。報道で報じられるカンボジアそのものの貧しさ・・・・・。王立の学校が舞踊を育む環境とは言えないのとは対照的に、クメール芸術アカデミーというNGOでは宮廷舞踊の優雅さを失わない舞踊教育が実践されていた。[2008年12月]

 さて今年1月末、NANAプロジェクトでは日韓シンポジウム「舞踊の教育システム:伝統の再編-活用-浸透」を開催した。9年前、私がソウル滞在の折に視察した慶煕大学校の金末愛教授、韓国芸術綜合学校伝統芸術院の梁性玉教授を招聘した。奇遇にも、黛節子先生が1988年に訪韓された折に面会された慶煕大学校の金白峰先生(現・名誉教授)の後継者が金末愛さん、韓国舞踊協会理事長の姜善泳先生(現・人間文化財)の後継者が梁性玉さんである。
 一体、私をアジアに駆り立てるものはどこからくるのだろうか? 私は20歳の頃に黛先生の舞踊への探求心に憧れ、琉球舞踊や民俗舞踊をお教えいただいたことがある。きっと黛先生の舞踊にかける情熱が私とアジアの舞踊との邂逅を導いて下さったのかもしれない。
(『民族舞踊文化』№21、黛民族舞踊文化財団、平成21年5月11日)
<舞台紹介>
□■□日本舞踊[STAGE REVIEW]『日本照明家協会雑誌』掲載より□■□
バレエを鈴木晶氏(法政大学教授)、コンテンポラリー・ダンスを貫成人氏(専修大学教授)、演劇を西堂行人氏(近畿大学教授)、日本舞踊を私が持ち回りで担当しているシリーズが[STAGE REVIEW]です。本ページでは日本舞踊の名舞台を紹介いたします。なお、文中の敬称はすべて省略、#印は唄ガッコになります。
ここに舞台写真を除く本文の転載をご許可下さった日本照明家協会に御礼申し上げます。

□舞台に向き合う一途さ 芸道の「守」を学ぶ:松緑・典幸・安寿子
 昨秋から暮れにかけ、歌舞伎と日本舞踊に若手と新人の三人の活躍がみられた。そのうちの尾上松緑と花柳典幸は、かつて筆者が本誌で取り上げた二人の一年後でもある。
 最近、歌舞伎俳優・尾上松緑の健闘ぶりが好評である。歌舞伎舞踊に絞って述べるが、「吉野山」の佐藤忠信実ハ源九郎狐と「茨木」の伯母真柴実ハ茨木童子の真摯に取り組む姿勢に好感度と将来への期待が高まっている。松緑は日本舞踊藤間流の家元・藤間勘右衞門でもあるから、振付師はその点を心して振を移したに違いない(振付=「吉野山」藤間紋寿郎、「茨木」四世花柳壽輔)。丁寧な教え方が舞台に反映され、細心の注意が払われた舞台の成果へとつながった。たとえば、「茨木」について児玉竜一氏が「動きと台詞に求められる抑制が、とかく流れがちな演技を引き締め」(朝日新聞評、12月15日夕刊)とあるのは、壽輔が演じる「茨木」の演技で際立った特徴を示してもいる。
 「道行初音旅 吉野山」(吉例顔見世大歌舞伎、11月6日昼の部所見、新橋演舞場)は七世尾上梅幸十七回忌・二世尾上松緑二十三回忌追善として上演された。静御前は七代目梅幸を祖父に持つ尾上菊之助。静御前の扮装は打ち掛けの赤姫で品良く美しく、忠信は車鬢に大きな源氏車の縫いがある江戸褄の着付。忠信の扮装には隈を取らず茄子紺の着付になる(九代目市川)団十郎型もあるが、松緑家では曾祖父の七世松本幸四郎から、九代目の弟子ではあったが、似合わないこともあって必ず隈を取ったというし、また祖父の二代目松緑も通しでは団十郎型ではやらなかったという(『松緑芸話』)。恋人ではないので横から入らなければいけない#女雛男雛」の並び方、切り株(鎧・鼓を載せ義経に見立てる)と忠信と静が正三角形(舞台の間口により、底辺の長い二等辺三角形になる)を描く#沖の石」辺りの座る位置、#思いぞ出ずる」で目をつむり#壇の浦」で目を開ける八島の合戦の物語など型をしっかりと受け継ぎ、時代物として骨格の堅固さがあった。
 新古演劇十種の内「茨木」(十二月歌舞伎公演、12月17日昼の部所見、日生劇場)は七世松本幸四郎襲名百年の記念であった。一昨年の「勘右衞門の会」での「綱館」の上演が良い経験になったのであろう。本来は曾祖父・七代目幸四郎より綱役の家系だが、今回は渡辺源次綱には同じく曾孫になる市川海老蔵が扮し、松緑は真柴を演じた(七代目も真柴を演じている。なお、有名な綱が口を開けて虚空を睨む幕切れの見得は七代目が考案)。わざと老けこませない足の運びや腰の屈め方がかえってよく、#ためつすがめつ~面色変り」では迫力をみせ、後シテが豪快であったのはさすが。
 もう一人の花柳典幸は「花柳典幸の会」(11月8日、国立劇場小劇場)で「綾の鼓」と「一人の乱」を熱演した。「綾の鼓」(福地信世作詞、四世杵屋佐吉作曲、二代花柳壽輔振付、田中良美術)は二世壽輔(壽應)の代表作で、その格調と洗練さは今日に厳しく継承されている。菊作りの、しかも足に障害のある男が美しい女御に恋心を募らせ、鳴らぬ鼓に成らぬ恋を掛け、綾布を張った鼓を夢中に打ち続けながら池の底に沈んでいくという悲劇を、典幸は初役で、気を引き締めて演じた。舞台上手の桂の枝が徐々に上がり、照明が波のシルエットで水底になるという手法が昭和初期の斬新さを伝えている。
 「一人の乱」(海津勝一郎作、杵屋巳太郎作曲、堅田喜三久作調、二世花柳壽楽振付)は祖父・二世壽楽の代表作。7、8年程前に今回と同じく兄・三世寿楽(当時・錦之輔)が源頼義役で自身が安倍ノ宗任役を勤め、今回は二度目になるが、いっそうの舞台成果を挙げていた。平安中期、東北で反乱を起こした俘囚(古代律令国家に服属した蝦夷)の安倍一族の宗任と朝廷から追討を命じられた鎮守府将軍の頼義。二人の信頼、宗任の故郷に対する想い、逆賊として一人矢に討たれ死んでゆく宗任、その心の変化をきめ細やかに描いた素通り。酒宴の連れ舞から#あれは北上衣川」から目をつむり、#何と美し ただ尊けれ」で故郷への想いが最高潮に達し、宗任が頼義に白刃を突きつけるまでの展開は宗任の心中をよく描写し、説得力のある演技であった。期せずしてか、今回は2作ともマイノリティーを扱った題材だったのは、日本舞踊に打ち込む自らの立場と心境が孤高を求めているのかもしれない。指導にあたった四世壽輔がプログラムに述べているように、「何れは舞踊界での特異な逸材」としての期待に応えて欲しい。
 新人として、国立劇場開場四十五周年記念の「舞の会-京阪の座敷舞-」(11月25日、国立劇場小劇場)に昨春大学を卒業したばかりの井上安寿子が初登場し、舞の会に清新の気を吹き込んだ。「八島」をダイナミックに舞ったのは、曾祖母・四世八千代(愛子)の「長刀八島」、母・八千代の「長刀八島」にみる微動だにしない動きを着実に継承している証で、京舞井上流の後継としての成長を楽しみにしたい。言うなれば、大ぶりな舞は、以前復元された映像で見た三世八千代の舞ぶりを髣髴させるものがあって、また頼もしい。
 三人はいずれも歌舞伎、日本舞踊、京舞の名門の生まれ。伝統芸能には「守・破・離」という言葉があり、いまだ三人とも師や先人、流派の型や技を確実に正しく身につける段階にある。しかしながら、この三人に共通して言えることは、名門という環境に甘えず、厳しい芸の修業に打ち込む精神がみられることであろう。
(『日本照明家協会雑誌』№500、平成24年2月1日)

■扇藏・箕乃助、墨雪・菊之丞、寿楽 素踊でつなぐ、それぞれの継承の形
 年間を通じ9月から11月にかけ、日本舞踊のリサイタルや公演は集中する。10月から文化庁芸術祭が開幕するのでそういう気運も相俟ってのことかもしれない。今年は少し若返りが図られ、久しぶりに活気づく秋を迎えた。それらに先駆け、世代の異なる3公演に注目した。キーワードは「継承」と「素踊」。3公演ともその発信の源を尋ねると、踊りの神様<六代目尾上菊五郎>にたどり着くのだから、それは偶然なのか必然なのか・・・。
 まず「尾上流四代家元継承 三代目尾上菊之丞 襲名披露舞踊会」(8月29~31日、国立劇場大劇場)。尾上流はまさに<六代目>が戦後に創流した流派。初代家元は<六代目>で二代家元が初代菊之丞。初代が急逝し、二代目を継いだ三代目がこの度「墨雪」と名を改め、子息・青楓が「三代目菊之丞」を名乗り四代家元を継承した。現・宗家は七代目菊五郎。その襲名披露が8月末、盛大に開催された。一門のほか歌舞伎俳優、東京新橋・京都先斗町の芸妓らによって全5公演50演目が上演され、当主の墨雪と青楓改め三代目菊之丞は5公演ごとに出演、三代目の姉・紫も3演目に華を添えた。
 高雅な流風に新鮮な感覚を盛り込んだ名振付で知られる初代の作品や武将の生き様を素踊りで創作する二代目、さらに二代目の路線を舞踊劇という形式で試みる三代目。今回の襲名公演では三代目の意欲作「梅雨将軍信長」に初演と同じく父がつきあい、再演したのが印象的。新しい継承の儀式の一片であった(初演は本稿で取り上げた)。ほかに「四季三葉草」(二世藤間勘祖振付)では翁に藤間勘右衞門、千歳に藤間勘十郎、三番叟に三代目の三人揃い踏みが見事。ちなみに二世勘祖(前名 六世勘十郎)も昭和の名振付師で<六代目>から「舞踊家は素踊りで」と言い渡され、生涯素踊りで通した。三世勘祖と墨雪の「漁樵問答」(二世勘祖振付)、菊五郎と菊之丞の「松の翁」(初代菊之丞振付)は三日間の掉尾を飾るにふさわしい豪奢な素踊りであった。ほかに墨雪の「三成」(再演)、初代菊之丞が復活した「二人椀久」(松山=尾上菊之助、椀久=菊之丞)、<六代目>が洗練した「船弁慶」を素踊りで菊之丞が人気歌舞伎俳優と共演(弁慶=市川染五郎、義経=尾上右近、舟長=市川亀治郎ら)したのも豪華(全公演 北寄﨑嵩照明、一部 朝倉摂美術)。 続いて「西川扇藏リサイタル」(9月13日、国立劇場大劇場)。日本舞踊界の重鎮、西川流十世宗家西川扇藏(重要無形文化財保持者)の24回目のリサイタルである。スタートは昭和33年、平成3年からの「素の会」を合わせると都合35回にものぼる。西川流は宝暦期から名を著す江戸歌舞伎の振付の名家。「扇藏」名義は代々実力者が継承し、世阿弥の「家、々にあらず。次ぐをもて家とす」(『風姿花伝』)を今日に死守する。母・九世宗家の夭逝で満七歳で十世を襲名したので戦後には六世勘十郎の指導を受けてきた。そのような家柄からも古典派で西川流には二世から五世振付の傑作が伝承されるいっぽう、青年期より新作を発表し、文化庁芸術祭では「重盛屏風」で初受賞(連続4回受賞)、「七騎落」では芸術選奨の栄誉に浴した。
 昨年の「素の会」で箕乃助に「重盛屏風」を伝えたのに引き続き、本年は「七騎落」(海津勝一郎作、杵屋五三吉作曲)。初演から扇藏の土肥次郎實平、箕乃助(当時 均)の遠平で上演を重ねてきた名作。今回は實平に箕乃助、その子遠平に新・菊之丞。以心伝心で父の想いや芸の奥義をどのように受け止めてきたか。興味を湧かせた一番であった。
 次の演目は「空蝉-佐渡の世阿弥-」(生田盛作、五世鶴澤燕三作曲)。世阿弥の不遇の晩年、孤独に耐える心境を素踊りで描いた秀作。「七騎落」(昭和59年初演)が“動”の素踊りとするならば、「空蝉」(昭和62年初演)は“静”の素踊り--、歴史的人物の心象を思想的に追究してきた扇藏は求道者の威厳に満ちていた。白枠のパネルが幕開きの黒系色から#都を後に」で青系色(日本海か)に変わる仕掛の美術、変型の銀屏風が開いてオブジェ(洞窟か)となり後向きに屈んだ世阿弥が登場する演出も斬新(二演目とも有賀二郎美術、五明隆夫照明)。長女・祐子は一門の女性陣を率いて「旅」で序幕を飾った。
 三つめは「花柳寿楽舞踊會」(9月28日、国立劇場小劇場)。「寿楽」名義は花柳流初代家元花柳壽輔の俳名に始まり、現・寿楽の祖父が二代目壽楽を継承、当代は三代目。二代家元壽應(前名 二世壽輔)は<六代目>のもとで俳優修業し、壽楽もまた<六代目>の日本俳優学校に学んだという、<六代目>との関係は深い。
 さて、「夢殿」(佐佐木信綱作詞、四世杵屋佐吉作曲)は上演前から関心をもたらせた。「夢殿」自体、壽應の名品だが、これまで筆者が観ることのできたのは三世壽輔の、平たく言えば女性版「夢殿」で幕開きが尼寺・中宮寺の如意輪観音の姿に始まるもの。「夢殿」は昭和6年の花柳舞踊研究会で発表され、戦後に錦城斎典山(壽應の岳父、寿楽の曾祖父)の追善舞踊会で一人立ちの素踊りとして再演、今回が男性版「夢殿」の蘇演になる(四世壽輔補綴)。安座して瞑想する聖徳太子の姿に始まる演出とは聞いているが、夢殿の甍や飛天等の描写にも壽應の語る「舞踊の純粋性」(「夢殿のこと」 『二世花柳壽輔』所収)が活かされていたことが衝撃で、昭和初期に新しい舞踊の方向性を模索した壽應の情熱が伝わってきた。寿楽が「夢殿」を忠実に再現したことは、自らの初演において先人の創造の精神を重んじる姿勢として評価したい。ほかに初世壽輔振付「奴道成寺」。
 紙数がないので言い尽くすことは難しいが、たとえばバレエなどの世界とは異なり、同じクラシックでも日本舞踊は“道”の精神に導かれて歩む舞台芸術だということ。他の分野に憧れて興行性を狙った、安易な妥協はかえって“道”の妨げになるのではないか・・・。筆者は日本舞踊の良き舞台を観る度、つくづく思うのである。
(『日本照明家協会雑誌』№497、平成23年11月1日)

□壽輔 傘寿の会「我が舞の道」の豪華絢爛さ 紋寿郎 卒寿の「木賊刈」にみる無心の境地
 今春、日本舞踊初の大掛かりなエンターテインメントとしての公演が行われた。「花柳流四世宗家家元花柳壽輔 傘寿の会 我が舞の道」(3月31日、東京国際フォーラム ホールA)である。振付は壽輔自身、演出に「ベルサイユのばら」「風と共に去りぬ」で有名な宝塚歌劇団特別顧問の植田紳爾を迎え、美術に朝倉摂、照明に沢田祐二など各界の錚々たるスタッフ。当日は5000人もの観客で会場は埋め尽くされ、公演タイトルで象徴されるように一人の人生の縮図が一夜の夢幻(ゆめまぼろし)となって再現された。
 とはいうものの、未曾有の大震災に見舞われた直後であって復興支援チャリティ公演として開催されたが、「本日の公演を中止すべきか否か慎重に考えました結果、かかる時にこそひとときの夢のある舞台をご覧頂き力付けたいと云う事が、舞台に関わる人間の使命かと存じます。」(配布の挨拶状より抜粋)と・・・、主催者の心中を察するに余りあるものがある。それは本公演に限らず、多くの舞台関係者が直面した最大の心の痛みとなった。
 序幕は「祝典交響曲 鶴亀」(山田耕筰作曲、湯浅卓雄指揮)。幕が開くと、総勢100名を超える東京藝術大学出身の女子東音会とオーケストラの壮観たるバックにハッと息を呑む。長唄交響曲は今日でも瑞々しく、壽輔の王、そして二人の孫による鶴と亀(花柳ツル・芳次郎)に若手男性群舞が加わり、未来を寿ぐかの如く晴れやかであった。続く、「ザ・カブキ」(モーリス・ベジャール振付、黛敏郎作曲)は討入と本懐の場面を抜粋して上演。本作は東京バレエ団(佐々木忠次総監督)のレパートリーで、初演に際し壽輔にとっては振付に携わった芳次郎時代の思い出のあるもの。祈りと切腹の最期のシーンは折しも鎮魂と受け止めた。「耳無し芳一」も幕開きの林英哲の太鼓の響きが韓国伝統舞踊の僧舞(スンム)の太鼓が奏でる鼓動に通じ、舞台中央に琵琶を抱えた芳一(壽輔)が静かに座す。坂東玉三郎扮する平家の女人はオーラの輝きを放ち、幻想的な舞台となった。ガラリと気分を変え、「お座敷灯篭」では新橋・浅草・神楽坂の芸者衆50名が三浦布美子の唄、本條秀太郎の三味線で俗曲のお座敷舞踊を粋に披露。最後に坂田藤十郎念願の軍歌メドレーの再演は、藤十郎自らが士気高らかに扇子を振った。図らずもかな、前半の番組は“鎮魂の祈り”と“復興の生命力”とに重なり、それが多くの観客の心に届いたに違いない。
 後半の「傘寿春秋」(ダットミュージックオーケストラ演奏)では、宝塚歌劇団の名曲と花馬車カブキ・東宝歌舞伎の長谷川一夫お気に入りのレパートリーをメドレー形式で10曲披露。総合司会は鳳蘭。淡島千景・朝丘雪路らのタカラジェンヌのOG・現役20数名と、壽輔と共に東宝歌舞伎で活躍した林与一や長谷川稀世が出演。野村四郎の謡による壽輔らの「飛翔無限」で始まり、「さくら」「藤娘」「かむろ」(稀世・ツル)「あやめ」(淡島・壽輔)「波しぶき」(女性群舞)「花芒」(林・朝丘)「石橋」(花柳基・芳次郎)、そして二人合わせて160歳の「深川」マンボ(藤十郎・壽輔)で息の合ったところをみせ、最後に全員でフィナーレ。胸躍るショウタイムは和の魅力が満載であった。
 5月には、今年卒寿を迎える藤間紋寿郎が大勢の一門を率いて「第三十六回 藤紋会公演」(5月5日、国立劇場大劇場)を開催した。三世家元の藤間勘右衞門(七世松本幸四郎)から四世(二世尾上松緑)、五世(初世尾上辰之助)、六世(現・尾上松緑)の四代にわたって“をどりの道”に勤しみ、今は大師匠という名に恥じない日本舞踊界の長老である。その矍鑠たるや、昔の名人気質の踊り手や舞い手に相通じる精神的な強さを持ち合わせているのであろう。90歳の「木賊刈」(杉昌郎構成、藤間紋寿郎振付、長倉稠美術、五明隆夫照明)は無の境地に至り、多くの人にとって心の琴線に触れた舞台となった。
 長唄の「木賊刈」と言えば、二世花柳壽輔(壽應)が花柳舞踊研究会第7回公演(昭和2年5月、朝日講堂)で昔の変化舞踊をリメークし、「二人椀久」と同じように音楽的にも洗練されている。近年は二世花柳壽楽が晩年に好んで踊り、その名演も知られている。今回の「木賊刈」は、かつて紋寿郎自身が振りを付け、四世勘右衞門(二世松緑)によって上演されたものの蘇演になるという。花柳流の「木賊刈」とはまた異なった、藤間流の行き方にも興味を覚えた。平たく言えば、柔の「木賊刈」に対する剛の「木賊刈」である。
 もともと「木賊刈」は能の「木賊」に拠る。筋そのものは謡曲から離れ、長唄では信濃の山で木賊を刈る老翁の心境を描くものとなり、秋の夜の静けさから爺と婆の昔話を懐古し、再び現実に戻って終わるという展開。東音宮田哲男の唄につれ、紋寿郎は本行の格調を崩さず複雑な老境を自然体でみせ、長唄と踊りが自ずから解け合っていった(三味線は今藤政太郎)。舞台下手奥から木賊を分け出た翁は途中で月を仰ぐ。その月への想いは、月を友とする翁の心を投影し、#浮世語りとなりにけり」の段切へと持続する。「木賊刈」自体、平凡な日々の営みに真の幸せがあるという人間普遍の心理を描いた名曲で、かくも長き人生を過ごしてきたのだなあ、という実感が説得力を持って伝わってきた。
 プログラムに「今回は 私の振付作品を中心に番組を組み 日本舞踊の楽しさをご覧いただけます様こころがけました」とある通り、「木賊刈」のあと京都祇園東の芸妓・舞妓によるはんなりとした「京の彩り」を配し、また桐竹勘十郎の文楽人形と娘・藤間紋との共演による「千鳥」(織田紘二補綴・演出、鶴澤燕三作曲)、藤間紋一郎の「瓢箪」(月原千都子作詞、四世清元梅吉作曲)をはじめとする一門が師匠の長寿を暖かく見守った。
(『日本照明家協会雑誌』№493、平成23年7月1日)

■真っ赤な情熱がほとばしる「橘芳慧の会」 燻した金の芸境を迎えた「藤間藤太郎の会」
 実力といい、気力といい、今や日本舞踊を牽引する女性舞踊家のうちの2人、藤間藤太郎と橘芳慧のリサイタルが昨秋開催された。2人のリサイタルは自分自身の世界観を打ち出していることで印象に残った。おかしな現象だが、まず何と言っても2人のプログラムの色彩がそれぞれの個性を象徴していた。プログラムというのは観客に鑑賞の手助けをするには欠かせないものであり、舞踊家のセンスさえも窺うことのできる代物。ここ数年、芳慧の会のプログラムには赤系が基調にあしらわれ、藤太郎の会には必ず金箔や金色が施されていた。今回はプログラム全体の色が、芳慧の会は真っ赤、藤太郎の会は燻しの金という究極の色づかいが目を惹き、それぞれ気迫に満ちた舞台を展開した。
 「橘芳慧の会」(11月19日、国立劇場小劇場)の真っ赤は芳慧の日本舞踊へのほとばしる情熱をまるで表しているかのようだ。今回は「都風流」(橘裕代振付、中嶋八郎美術、沢田祐二照明)、「鳥刺し」(橘抱舟振付)、「七福神」(中嶋八郎美術、沢田祐二照明)の三演目を上演。当日筆者は所用のため、流儀の橘五香の一つに制定されている「都風流」は見られず、「鳥刺し」から見る。
 「鳥刺し」は、以前、国立劇場の素踊りの会(平成13年3月)にて初見。#シタリ心太ではなけれども」で踊り手自身がところてん突きで突き出された心太になるというユニークな振りに圧倒された。芳慧の父・初代宗家橘抱舟の振付はリアルな表現と戯画的なタッチでわかりやすく楽しめるもの。それに、定評のある芳慧の抜群の技術と的確な表現力が加わった舞台となった。狙いをつけて鳥を捕ろうとする#ためつすがめつ」の緊張感から#鳥はどこかえ随徳寺」の落胆ぶり、#酒の酔い」から#四条五条の夕涼み」の美酒に酔った風情から、その後の#芸妓太鼓」の世話の表現への切り替えなどメリハリの効いた一番であった。
 「鳥刺し」が父、「都風流」が母(二代目宗家橘裕代)の振付であったので、「七福神」は芳慧自身の構成となろうか、通常は一人立ちで踊る演目を今回は門弟5人と踊った(橘寿法・美穂・芳裕・幸慧・慧蓉)。8分程という短い曲をどのように群舞仕立てにするのか、幕が開くまで興味を抱かせたが、ノリの速さを活かした群舞が溌剌とした流儀の中堅・若手の良さを引き出していた。幕開きは正面に囃子が並び、芯に芳慧が座し、背後に門弟五人が弓なりに座す。古典の振りを基本に芳慧が踊り、#三年足立ち給わねば」で全員が踊り出すというように交互に踊りを掛け渡していく面白さを味わった。#水無月半ばは」辺りで全員が移動しながら祇園祭の山鉾を表していたのが圧巻。
 「藤間藤太郎の会」(11月28日、国立劇場小劇場)の燻した金色はこれまでの藤太郎の光輝と豊潤さの演技が燻しの芸境に差し掛かったことを暗示させた。演目は「江戸風流」(藤間藤太郎振付、後藤芳世美術、五明隆夫照明)、「金谷丹前」(藤間藤太郎振付、後藤芳世美術、五明隆夫照明)、「時雨西行」(後藤芳世美術、五明隆夫照明)の三番。
 中でも「金谷丹前」が意表をついた演出であった。大体は遊女のもとに通う丹前風の武士の扮装で踊るのを、今回は遊女での扮装で通い詰める男につれなくする遊女の心と姿を描いた。おぼろ月夜に桜がハラハラと散る風情で幕が開き、#散るを惜しまぬ」で正面へ出て桜の枝に短冊を付ける。吉原仲之町と『源氏物語』とではまるで時代も背景も違うが、朧月夜の君を髣髴とさせる女の艶やかな色香が漂う。勝山風の鬘、紫鹿子の着付に紫と白の市松模様の返し、臙脂の前結びの帯も華やかだ。#思うていりゃこそ」のクドキ風の件をたっぷりと踊り、十五夜の月を出して#しゃならしゃならと」で一幅の絵のように極って終った。
 「時雨西行」の江口の君では、鬘はげんこつ、金の箔置きの返しに白地に孔雀の羽根の着付、黒の前帯に小豆色に金箔の紅葉の紗掛け。男心をくすぐる吉原の遊女とはまた違った、一途さと神々しさを持つ江口の遊女らしさの扮装。西行法師は尾上菊之丞。後半、#見れば不思議や」でセリ下げになり、#現じ給い」と掛けを脱いで普賢菩薩となってセリ上がる。遊女と菩薩の演じ分けにセリを効果的に使い、スペクタクル性に富んだ演出であった。
 今回の企画にみる、吉原の遊女と江口の遊女の対比にみる女人像の描出と、遊女と菩薩の演じ分けに仕掛けたスペクタクル性は、いずれも藤太郎の会の魅力とも言えよう。以前の「河を渡る女」でみせた飛鳥川と日高川をテーマに母物と娘物の二部作の上演、前回の「葛の葉」でみせた子別れの段と道行の段の壮観さは記憶に新しい。藤間流の大師匠藤間麗樹の母のもとで古典舞踊の道を歩んできた藤太郎ならではの舞台である。
 さて、日本舞踊が低調だと言われて久しい。その傾向は筆者が斯界に身を置いてから、毎年言われ続けているように思う。ことに平成10年、武原はん、吾妻徳穂、藤間藤子という日本舞踊を代表する女性舞踊家が1年に3人とも世を去ったのは大きな出来事であった。3人とも個性豊かで日本舞踊において自分の世界を追究し、それぞれが雪、花、月の季節に身罷ったのも象徴的であった。それから12年余、時代や社会は変わろうとも日本舞踊の伝統は未来へと息づいて欲しいと願うばかりである。
(『日本照明家協会雑誌』№489、平成23年3月1日)

□江戸文化の真髄、「東京発・伝統WA感動」                   
 一昨年より、東京都と公益財団法人東京都歴史文化財団は東京からの文化の創造発信を強化する取り組みとして「東京文化発信プロジェクト」を立ち上げた。今年は3年目にあたる。世界の主要都市と競い合える芸術文化の創造発信FESTIVAL、芸術文化を通じた子供たちの育成KIDS、東京における多様な地域の文化拠点の形成ARTPOINTの3つの柱からなるうち、FESTIVALの中の「東京発・伝統WA感動」を取り上げる。
 そもそも筆者と「東京発・伝統WA感動」との出会いは今年が初めてではない。昨年は、芸術文化振興会(国立劇場)との共催「東都八景四季賑」を観た。四季折々の江戸の名所を日本舞踊の演目を配して廻るという企画であった。猿若町市村座の春は「七福神」に始まり、王子飛鳥山の「丁稚」、夏は浅草の「三社祭」、深川の「水売」、秋は神田の「神田祭」、吉原の「俄獅子」、冬は本郷の「櫓のお七」、また来る春で隅田川の「乗合船」。出演者も充実して楽しい舞台であった。ほかに邦楽コンサート、落語、民俗芸能があり、どれも価格を抑えた質のよい公演の提供が好評であったのは後から知った。
 そこで、今年はいくつかの企画のうち、「芸の真髄シリーズ 清元延寿太夫 清元梅吉「清元」~清き流れ ひと元に~」(8月24日、国立劇場大劇場)、「能と邦楽 隅田の四季」(8月31日、東京芸術劇場中ホール)、「俚奏楽」(9月4日、国立劇場大劇場)を観た。
 「清元延寿太夫 清元梅吉「清元」~清き流れ ひと元に~」はNHKエンタープライズ芸の真髄制作委員会が主催する芸の真髄シリーズ第四回。江戸の邦楽清元節は文化11年(1814)に誕生し、江戸の粋な文化を支えてきた。大正末期、二つの流派に分かれ、今日に及んでいる。この企画は、88年間途絶えていた両派の交流を復活させた画期的な公演としてマスメディアからも関心が寄せられた。序幕は総勢54名の演奏陣による「四季三葉草」。4段に組まれた雛壇は壮観そのもので、長年の歳月の隔たりを感じさせない息のあった演奏が繰り広げられた。次の清元の名曲「隅田川」は謡曲「隅田川」をもとにした高尚な曲風で知られる。今回の演奏では途中、山台の毛氈を引抜き、屏風を中割にし、上からパネルを下ろして暗雲立ちこめる照明に変わる工夫が素浄瑠璃の舞台に劇的な感動を促した。最後は、片岡仁左衛門の「お祭り」で華やかに盛り上げて、粋な清元の世界で締め括った。
 清元ファンが大勢客席を占めていた前公演にくらべ、「能と邦楽 隅田の四季」は中高年層の都民が集い、賑わった公演であった。第一部は邦楽で長唄「風流船揃」、端唄集「大川情歌」、邦楽組曲「川-KAWA」(織田紘二作詞、萩岡松韻音楽監修他)。新作の「川-KAWA」が丁寧な作曲とともに背景も楽しめた。「花吹雪・花見舟」「夕立・両国の」「虫すだく・秋の夜は」「雪が降る・雪の晨」「あけぼの」をテーマに春夏秋冬の江戸の風情を音で描いていく。ヒュルヒュルと三味線の撥の技巧に合わせ花火が上がると「玉屋!」の掛け声。遊び心の演出は現代人と邦楽との距離を短くするであろう。第二部は観世流の能「隅田川」(シテ 梅若玄祥)がたっぷりと上演された。
 「俚奏楽」では、創始者本條秀太郎の曲を盛りだくさんに集めた。中でも舞踊「女人角田~たゆとふ~」(織田紘二構成、橘芳慧振付、高木どうみょう照明)が女人らの悲哀を隅田川に洗い流すかのごとく、清涼感さえ感じさせた新作であった。第一景は「明治一代女」のお梅、第二景は「隅田川」の班女の前、第三景は「籠釣瓶花街酔醒」の八ツ橋、第四景は「三人吉三廓初買」のお嬢吉三を、ワキ役を絡め、五人の女性舞踊家(尾上紫、橘芳慧、花柳貴代人、藤間恵都子、水木佑歌)が踊り分けていく。また、市川亀治郎が「瀬音」と題して「残る月影~松風~」(猿若清方作詞)「露のいのち」(秋元松代作詞)を女方と立役の舞踊を上品で風雅に踊り(共に尾上青楓振付、高田新司美術、高木どうみょう照明)、最後は花柳寿南海が「春の宵夢」(目代清作詞、長倉稠美術、花柳寿南海振付)を軽妙洒脱に踊って幕を閉じた(以上、本條秀太郎作曲)。
 「東京文化発信プロジェクト」は今年もまた10月に、東京大茶会を浜離宮恩賜庭園で開催した。外人客が着物姿の女性をカメラに写してほくそ笑んでいる様子があちらこちらで見られた。筆者も大茶会で秋の半日を過ごし、隅田川に走る水上バスを利用し、日の出桟橋へと帰途についた。思いがけなく「乗合船」に乗り合わせることができた!と、このプロジェクトの企画で今日に息づく江戸の文化を偲ぶよすがを得た。
(『日本照明家協会雑誌』№485、平成22年11月1日)

■独創性ゆたかな日本舞踊、多彩な創作:寿南海・茂香・菊之丞etc.
 今季の日本舞踊公演は、久々にベテランから新人までが独創的な創作を立て続けて発表した。ながい冬ごもりから、ようやく春めき、新緑の季節になり、万緑の夏を予感させた。日本舞踊本来の創造精神が戻ってきたことが好ましい。
 花柳寿南海振付「いつくしま」(5月29日、国立大劇場)は、日本人好みの源平の合戦をテーマにした国立劇場主催公演「舞踊 源平絵巻」の序幕を飾った。清盛役の橘芳慧を芯に各流の中堅・若手女流舞踊家十名による素踊り群舞は日本舞踊創作の一つの醍醐味を呈した。計算され尽くした群舞構成と踊り手たちの統制のとれた迫力は圧巻で、瀬戸内の波、神主や船の数々、夜の百八灯籠、戦いの様子等々を表し、齢八十五となる寿南海の創作意欲はいまだ枯れることのないことをあらしめた。近年の素踊り群舞の秀作であろう。
 寿南海と並称される花柳流の創作舞踊家の一人、花柳茂香は「ひとり花」(えんの会、6月16日、国立小劇場)を純度の高い作品に仕上げた。鳥の子屏風をループ状に飾り二曲に折った金屏風半双の前に立ち、茂香は野の果ての桜となる。香取仙之助の原詩をもとに、繚乱と咲きにおうさま、燦然と輝く陽に染まるさま、鴉の翼で夕焼け空に花びらの散るさま、寂寞のなかで錦繍の謡をうたうさまを、静謐さとダイナミズムとの対比で茂香調を堅持した(鶴澤清治作曲・演奏、碇山喬康美術、高木どうみょう照明)。
 えんの会の花柳あらた・西川祐子・花柳かなで振付「三様 その(二)」は囃子とのインプロビゼーションによる作品。三人の細緻な演出と無機質な表情や動きが独特の世界を構築しつつある。が、もう少し三人の心を通わせる風情があってもよいのではないか。いずれにしても、茂香の“芸術を創る”という孤高の精神を継承し、三人の調和による独自の世界が築かれることを期待したい。
 中堅では、花柳園喜輔の構成・振付による「天地に・・・」(拓の会別会、6月5日、国立小劇場)が、オーソドックスな手法の中にも個性が光り、整然とした活力ある創作群舞となった。黒紋付・袴による六名の若手男性舞踊家が大黒幕を背景に無音から始まり藤舎呂船作曲の囃子を音楽に、宇宙の中の地球、人の誕生、人間社会の平和と戦争、自然の征服と破壊を描き、人類と自然との共生を願って終わるという展開(北寄﨑嵩照明)。ただテーマを鑑み、惜しまれる点は男性舞踊家で統一したことと、囃子方の男女による編成が創造面に活かされなかったこと。演出面を整理し、さらなる練り上げを望みたい。
 西﨑峰の「雪月花 黄泉道行」(西﨑流創作舞踊公演、6月13日、国立小劇場)も独特な世界観を表出していた。初演(平成15年)の演出を変え、今回は諸国行脚の僧(花柳寿楽)が出会った不思議な道行を物語るという設定。先行の能の手法に則った行き方を踏襲したことで夢幻性を明確に打ち出した。若い男(峰)と老女(吾妻徳彌)の亡霊の道行で始まる。僧が里人に問うと、紗幕が上がり、しだれ桜の椀久もどきの回想シーンとなる。二十歳で死んだ男が四十年後に恋しい女を迎えに来て黄泉の国へと二人で旅立つという話。舞台上手・下手のセリを効果的に使い、雪の降りしきる中、終盤に盆を回して仏教思想の輪廻を暗示させた(有賀二郎美術、北寄﨑嵩照明)。袋付の町人姿の峰は美しく、また徳彌の老女役に工夫がみられ、ことに四十年の歳月を数歩の歩みで見事に表し得たのは「赤猪子」の演技を髣髴させた。峰が自ら構成・振付に意欲を見せる姿勢を見守りたい。
 33回を迎えた尾上菊之丞の冬夏会(6月19日、国立小劇場)は<音>をテーマにした企画(松野潤装置、北寄﨑嵩照明)。谷川俊太郎の詩をもとに振り付けた「みみをすます」は七つのユニット様のオブジェの前で基本的には菊之丞が具象的、二人の女性(尾上紫・尾上京)が抽象的に運ぶ。足で歩くという人間の行為の様態を音のレベルで表現し、#きのこ雲」で異様なグリーンのライトと静けさでクライマックスに達すると菊之丞の想いが託され、やがて平穏な世界を取り戻した小川のせせらぎで静かに終わるという展開。自らの思想を追究し、かつての宮沢賢治作「梟祈願」に続く創作路線として完成させた。
 「舟と琴」は『古事記』にある仁徳天皇と枯野という舟の話がもと。秀逸な作曲(今藤政太郎)に魂からの波動を琴の音に響かせるという意図の振付。菊之丞と尾上青楓の連れ舞は波長が合い、青楓が琴を奏でる振りのあと三味線と箏の合奏となったところは響き渡る琴の音の満ち足りた気分を醸した。初演(平成15年)は菊之丞・青楓・京の三人立であった。今回の二人立では、物語上、主従の関係、音楽との関わりという点で先頃発表された青楓の「梅雨将軍信長」と同工異曲の感がなくもない。一人はミューズのような女性であってもよかったのでは、と思う。
 今季は舞踊創作に長年活動してきた舞踊家による創作によい作品が揃った。“新しいものを創る”ということは容易いことではない。創作とは「芸術を独創的につくり出すこと」。それをかけがえのない人生の目標として歩み、新たな世界を切り開いていく姿勢は舞台の成果に反映される。これからあとに続く、創作に挑む舞踊家たち。ぜひそうあって欲しい。
(『日本照明家協会雑誌』№481、平成22年7月1日)

□伝統と現代との地平線、輝く三人のホープ:勘右衞門・典幸・青楓
 低調気味といわれる日本舞踊界だが、昨年は二人のホープの活躍に光るものがあった。一人は藤間勘右衞門、もう一人は花柳典幸。勘右衞門は日本舞踊協会花柳壽應賞を、典幸は文化庁芸術祭新人賞をそれぞれ受賞するという評価が舞台成果の優秀さを表している。実際二人の舞台には、対照的な個性だが、大らかさと行儀の良さ、それに加えて天性の花があった。どれも伝統ある日本舞踊には大事なことだが、三拍子の揃うことは滅多にない。
 藤間勘右衞門は歌舞伎俳優尾上松緑の藤間流家元としての名跡であるから、その存在感は圧倒的だ。今回は勘右衞門が長年心待ちにしてきた、祖父の代表作「達陀」を流儀の男性舞踊家らの総指揮をとって見事に上演した(第四回勘右衞門の会、7月25~26日、於:国立劇場大劇場、25日所見)。昭和42年2月、歌舞伎座で藤間勘齋振付(二代目尾上松緑)で初演され、勘齋自身が名僧集慶を演じた。「達陀」とは東大寺二月堂修二会の二七日の法会の終幕を飾る火の行。二月堂を背景にした登廊から回廊へと舞台はスペクタクルに転換し(守屋多々志美術監督)、常燈に新しく点火する大役の堂童子、忘我の境地で宝号を唱える練行衆、松明を抱え先導する童子ら総勢50人余りが五体投地の礼拝、「南無観、南無観」の唱和、過去帳読上げなど春を告げるお水取りの様子を舞踊化。青衣の女人役の吾妻徳彌が極寒の北の局に薄紅の色香を添えた。ほかに新古演劇十種「茨木」の原典でもある長唄「綱館」を藤間紋寿郎の教示を得て素踊りで演じ、芸格の大きさをも印象づけた。早世した父五世藤間勘右衞門から大藤間の統率者となった勘右衞門の、現代に生きる家元としての心意気が舞台の成果へつながった。
 花柳典幸は、昨年、兄錦之輔が三世花柳寿楽を襲名したため、兄弟二人の勉強会であったのを今回初めて一人のリサイタルを開くことになった(花柳典幸の会、11月3日、於:国立劇場小劇場)。「幻椀久」は現家元の花柳壽輔が五世花柳芳次郎時代に振り付けて初演したもの。今回は墨絵の松を描いた紗幕七、八枚を舞台一面に垂らし、立体感のある抒情的な舞台を呈していた(朝倉摂美術)。暗転のなか波音を効かせて幕が開き、後向きに佇んだ椀久のシルエットを映し、虚ろな趣で紗幕から出る。その美しさは凛々しくもあり切なくもある。「ヤヤ松じゃ、松じゃ」で幻の太夫を連れてきて#君は花かや」辺りで賑やかさが増し、#そも我ながらあさましや」で掛けをかぶって太夫の面影を抱いて寝る。そして、#どれが露やら涙やら」のあと徐々に狂わしくなり、物狂いは最高潮に達する。現代的な美術と演出とが典幸の芸風によく溶け合っていた。「静と知盛」は、花柳流ではほとんど上演されることのない演目だそうだが、花柳流らしい繊細で巧緻な演技で静と知盛を踊り分けた。芸の修練の結果、近年、技量をあげ、華やかさが増してきたのは多くの人が認めるところ。日本舞踊界のホープとして、ますます輝いて欲しい一人。
 さて、続いて今年はもう一人のホープ、尾上青楓の活躍でスタートを切った(第3回「尾上青楓」日本舞踊公演、1月14日、於:国立劇場小劇場)。二作とも青楓が日本舞踊の作品として創ることを強く望んだ題材で、義太夫「清経」は能「清経」を元に、舞踊劇の「梅雨将軍信長」は新田次郎の小説を原作とする。ともに武将物というのは父尾上菊之丞の創作路線に沿ったもの。
 「梅雨将軍信長」は一部セリフで運ぶという試みと計算された構成が現代的であった。信長役は菊之丞、青楓は桶狭間の戦いで信長を勝利を収めさせた平手左京亮を演じた。家来衆のなかでは尾上菊一郎が老将の味わいがあってよい。黒一色の舞台、前半は梅雨のさなかの城郭の一角。かの有名な「人間わずか五十年」の言葉のあと物見窓から洩れる月光が信長を効果的に照らした(北寄﨑嵩照明)。途中、鼓を打って大気の流れを知ろうとする左京亮と信長の出会いを劇的に描く。後半は豪雨の桶狭間の戦い。正面に垂らした紗幕に不穏な空模様を映し出す。尾上流男性舞踊家と舞踊集団菊の会の群舞が圧巻で大太鼓と締太鼓がけたたましくもなく土砂降りの様子を効果的に盛り上げていた(高橋嘉市音響・効果)。次回は大劇場での再演をぜひ望む。
 いっぽう「清経」では青楓は悲壮感の漂う清経の霊を演じ、北の方に歌舞伎俳優尾上菊之助を迎えて能取物としての品格を備えた新作になった。
 昨年9月、典幸と青楓は国立劇場主催公演「東都八景四季賑」で人気曲「三社祭」を競演した(9月19日、於:国立劇場大劇場)。しかも六代目尾上菊五郎の振りを移しての上演であった。考えてみれば、典幸の祖父二世花柳壽楽は六代目が校長を務める日本俳優学校に学び、青楓の尾上流は六代目が門弟尾上琴次郎に初世尾上菊之丞を名乗らせて創流。そして、勘右衞門の祖父二代目尾上松緑は七代目松本幸四郎の三男だったが六代目の門弟となり後に父から藤間流の家元を継いだ。不世出の名優と言われる六代目。なかでも特に九代目市川団十郎に仕込まれた踊りを生涯の芸の特色とし、伝統に裏付けられた現代に生きる芸や演出を舞台で提供し続けた。彼の薫陶を受けた人々の孫の世代にもその精神は健全に受け継がれていることを実感させてくれた三人のホープたちである。
(『日本照明家協会雑誌』№477、平成22年3月1日)

■“舞踊への情熱”“不屈の精神” 黛民族舞踊団と舞踊集団菊の会
 わが国には舞踊団組織とする舞踊団体が多いとは言えないが、戦前・戦中の初代西崎緑や花柳徳兵衛はそれぞれ全国各地の慰問公演を原型とし、戦後、舞踊団を結成して活動した。初代緑は「黄塵」「日輪」など、徳兵衛は「慟哭」「壇ノ浦」などの秀れた大作を発表して舞踊史上に立派な功績を残すに至った。両者とも古典舞踊から出て、民俗舞踊を基盤にし民衆を主体にした群舞作品を創り上げたという特色が挙げられよう。
 民族や民俗の舞踊にはその民族の魂や土の匂いが漲り溢れ、初代緑や徳兵衛以降も民族・民俗舞踊のたくましさに魅せられた舞踊家が輩出している。それらの中で藤間流(勘右衞門派)で異彩を放つ存在であった藤間節子が改名した故・黛節子は黛民族舞踊団を、尾上流の尾上菊乃里は本名の畑道代で舞踊集団菊の会を立ち上げた。この二人の統率者には共通した点がある。それは“舞踊への情熱”と“不屈の精神”をもつカリスマ性である。
 さて六月には、黛民族舞踊団(芸術監督 大野晃)の「アジア民族舞踊交流会2009」(7月8~13日、筆者は13日の学習院創立百周年記念会館にて所見)と、舞踊集団菊の会のアトリエ公演「日本のおどり-涼風に舞う-」(7月18・19日、18日15:00所見、於:菊の会スタジオ)が開催され、それぞれ民族・民俗舞踊を披露し、観客は舞台と一体となって楽しんでいた。
 「アジア民族舞踊交流会2009」では中国雲南省玉渓市花灯劇団と韓国金梅子テジョン市立舞踊団を招へいし、東アジア三国の色彩豊かな舞踊を繰り広げた。当日は学習院生涯学習センターの受講生等が多数参加し、公演に先駆けた諏訪春雄学習院大学名誉教授と各団員代表らによるシンポジウムでは、諏訪教授が日本の踊りは中国・韓国の踊りと見比べると大地を踏みしめるようだと説明された。日本の「傘おどり」から始まり、中国の「鬧花灯」ではピンク色の扇子に長い布を付けた晒のような小道具を手にした玉渓地方の楽しい祭り風俗と続き、韓国も農楽をアレンジした「オウルリム」ではサムルノリの打楽器の響きに合わせて共存の精神を表現するなど20曲近くを上演した。日本の作品は黛節子が各地の民俗芸能を取材し高い芸術性を加味して創作したもので、今回は「あいや節」「越中おわら節」「祝い舞」「伊予万才」「黒島口説」他を上演。それらはアジアン・ダンスと渡り合えるパワフルさを備えた振付・構成・演出に独自性がうかがえる。団員は黛琉美・黛智英・黛莉香らかつて節子の薫陶を受けたメンバーが中心。
 黛節子は生前に黛民族舞踊文化財団(現・理事長 犬丸直)を設立したのも進歩的であった。その衣鉢を継ぎ、東アジア三国の民族舞踊にみる共通性を実演で解明し、今日も地道な活動を続けているのは評価されるべきであろう。また、節子は学術的な論拠に基づき、歌舞伎舞踊の源流をたずねた実践家でもあった。沖縄舞踊とのテクニックの共通性を探り、沖縄舞踊もレパートリーに取り入れたが、今回の「黒島口説」は代表作。かつまた阿国歌舞伎時代の踊りの復元を試みた「小原木踊り」「しのはら踊り」も名高い。今回は阿国のかぶき踊以前のややこ踊を復元した「ややこ踊り」を再演し、奇抜さが楽しめた。
 「日本のおどり-涼風に舞う-」では第一部ではいわゆる日本舞踊を、第二部で民族舞踊誌『海はるか日本を躍る』(作・演出 三隅治雄)を上演した。構成・振付は畑道代で、出演は畑が育てた佐竹永光・原聡・鶴岡泰重・宮沢りか・土屋明日香ら総勢16名。ほかにも溌剌とした大勢の団員を抱えている。菊の会の特徴は日本人の心の豊かさを大切にして日本の風情を謳い上げた作品を創作し、団員らの一糸乱れぬ統制の取れた踊りに定評がある。男性陣の「祝太鼓」から始まり、津軽三味線に合わせた漁師の生業を描いた「嵐の序曲」、女性陣の「秋田舟方節」、男性陣の「御祝い」・・・とスピーディーな転換で11曲を上演。昨年は新作の踊り風土記『雪の華』(三隅治雄作、畑道代構成・振付)を発表し、映像を効果的に用いて北陸の風土を美しく幻想的に描いた舞台が好評であったばかり。
 畑の追い求めるのは日本の情緒と言えるだろう。こんなエピソードがある。筆者が韓国滞在中にソウル大学校李愛珠教授(49歳で「僧舞」の人間文化財認定)の授業見学の折、北朝鮮の舞踊家ホン・ジュンファを描いた「踊りと熱情」と黒沢明監督作品「夢」の狐の嫁入シーンを比較し、速い踊りとして北朝鮮の舞踊、遅い踊りとして日本の舞踊を例に出して学生達に説明していた。後で知ったことだが、この狐の嫁入のシーンこそ畑道代振付。つまり、韓国舞踊家李愛珠は日本の情緒を畑作品で感じ取っていたのであった。
 故・黛節子が激情的な情熱家であったならば、畑道代は沈静的な情熱家と言えるのかもしれない。節子は財団設立の際に「・・・私は踊りが好きだったのです。しかしそのうちに、いわゆる日本舞踊だけではあきたらなくなりました。これでいいのか? どうしたら生きた踊りが踊れるのか? 自虐と疑問の連続でした。丁度そのとき、日本青年館で催された民俗芸能(略)を見る機会を得ました。民俗芸能の持つ発散度の高さ、体の使い方から表現するテクニックの面白さ、意表をつく表現、私はすっかり魅せられ民俗芸能の勉強に突っ走りました。私は民俗芸能を素材とした民族舞踊家(・・・・・)になろうとその時決意したのです。・・・」(『民族舞踊文化』№1より)。事実、二人の舞踊家にみる不撓不屈な精神が多くの人々の心を惹きつけるまでの舞台活動を支えてきたのだと言えよう。
(『日本照明家協会雑誌』№471、平成21年9月1日)

□日本舞踊:伝承の深奥・新鮮・洗練 「峠の万歳」「二人椀久」「赤猪子」
 韓流人気テレビ番組「ファン・ジニ」が最終回を迎えた。私にとって最終回が納得のいくものだったのは、女楽の行首を決定する競演で主人公のミョンウォル(ファン・ジニ)が「感銘を与えられる舞こそが最高の舞」と考え、民衆の踊りの極意を会得し披露したが、審査の結果ライバルのプヨンが次の行首の座を勝ち得たからであった。私は、全編を通して女楽の行首メヒャンこそ名妓としての器量を備えた人格だと芸道に対する心構えに共感を覚え、またその競演で地方教坊の行首の一人がミョンウォルの行状に対し「格式を破り、伝統まで破るのか!」と嘆いたセリフに得心した。
 というのも、現代の伝統離れは日本舞踊の将来の不安を掻き立てている。私自身も日本舞踊や照明、美術等の専門家を志す若い学生を抱えているが(ここでは照明も美術も日本舞踊に限定して)、その大勢が時代の趨勢に流され「自由」の意味をはき違え、学生たちの日本舞踊の基本や伝統・格式を学ぶことに背を向ける傾向に悩まされているからだ。だが、「ファン・ジニ」の女性ファンはメヒャンの生き方に感銘を受けているのが現実だ。(日本舞踊家としてプロならば)格式や伝統のなかで感銘を与えるのが、「日本舞踊が日本舞踊であること」の存在価値だと私は考えている。
 前置きが長くなったが、1月から3月にかけては日本舞踊協会公演、国立劇場主催素踊りの会、個人リサイタル等と日本舞踊界にとってメジャーな舞台が揃う時期でもある。それらの中で、今回は「伝承」をキーワードにした三作品を取り上げる。
 まず、日本舞踊協会公演(2月14~16日、於:国立大劇場)では藤間紋寿郎・藤間豊之助の「峠の万歳」と吾妻徳彌・尾上青楓の「二人椀久」が舞台成果も秀逸ながら、「伝承」について一本筋の通ったものと評価した。
 「峠の万歳」は渥美清太郎作詞、三世清元梅吉作曲の昭和の新作だが、古典にも匹敵する名作の一つ。渥美は歌舞伎の博学で知られ、三世梅吉後の二世寿兵衛は清元三味線の名人。何せ芝居で言えばドラマツルギーが巧みだ。正月にコンビを組んで門付を共にした三河万歳の太夫と才蔵が、正月が過ぎたので別れに際し、二人は酒を酌み交わし踊りや万歳の芸で名残を惜しみ、峠の分かれ道を別々に故郷へ帰っていく、という内容。哀愁は帰り際に才蔵が太夫の耳に届けと鼓を打ち鳴らすシーンで最高潮に達する。「峠の万歳」は各流派で上演をしているが、今回は初演の振付者であり演者であった初世藤間寿右衛門の教えを受けた藤間紋寿郎(太夫)と藤間豊之助(才蔵)が初演の振付意図を汲んでの上演であった。得てして別れの演技だけが目立ってしまう「峠の万歳」だが、平たく言えば今回はやり過ぎず、舞踊で二人の別れを描いた初演の名振付を的確に見せた。ことに#三河へ」で太夫が中啓で地面に「三河」の字をしんみりと書くのを観て、私は「ここに初演の心がある!」と悟った。太夫は故郷の家族が恋しいのだ。稼いだ金を早く家族のもとへ届け一足遅い正月を一緒に過ごしたいのだ。さすが大藤間の中で築地系という一系統を築いた初世寿右衛門の奥深い振付であり、その意図を見事に伝承した紋寿郎・豊之助の芸であった。
 「二人椀久」の初演は古いが、今日の「二人椀久」は昭和二十年代後半に初世尾上菊之丞が新橋芸妓と復活上演後、アヅマカブキの渡米プレビュー公演で傾城松山を吾妻徳穂に替え(松山の振付は藤間万三哉)、流行したのが魁になっている。今回は初演の初世菊之丞振付で、スター性のある吾妻徳彌と尾上青楓が伝統は常に新しいという瑞々しさを漂わせて好演した。徳彌の松山が名妓の貫禄を備え確実な存在感を示したのが立派で、椀久の青楓は花形的な魅力に加え、近頃は古典に真摯に取り組む姿勢を好ましく思う。
 その徳彌はリサイタル「徳彌の會」(3月28日、於:国立小劇場))では、祖母・吾妻徳穂の代表作「赤猪子」(有吉佐和子作・演出、二世野澤喜左衛門作曲、徳穂振付)を竹本住大夫の浄瑠璃で再演した。もう十年以上前になるが、中村富十郎を雄略帝に迎えた徳彌初役の「赤猪子」は都合がつかずに見そびれていたのを口惜しく思っていたのだが、今回の雄略帝は吾妻流と縁のある坂東流の当主・坂東三津五郎。これまでの徳彌と三津五郎との名舞台は私の脳裏に焼き付けており、今回は二人が年老いた役を余裕の演技で臨んだことに芸格の大きさを印象づけた。ことに赤猪子には臈長けた美しさがあり、また八十年前の回想から#機織姫の織る絹は積り積りて八十年に百取とこそなりにける」で扇を巧みに使った機織の振りから次第に今に戻るという演出が鮮やか。舞台照明で言えば、歌舞伎座付の池田智哉の照明には無色に近い色にもその伝統と格式をいつも感じさせてくれる。
 ところで、その会に私と同行された東大寺修二会の権威である研究者が「笑いに日本舞踊では型があるのですか?」と質問された。それは、伝承として千二百五十余年の伝統を守るお水取りの研究者のことばであった。笑いに関心を惹きつけるだけ徳彌の技術は優れていたが、作者の意図は赤猪子の「笑い」であり、その表現に本作の生命が宿っていよう。また、伝統と格式を守る名門女子校で教鞭を執る先生が「赤猪子」を鑑賞し「生徒たちはみな赤猪子の話を『古事記』で知っている」と感想を伝えてこられた。日本舞踊のテーマは古典に根ざすものが多いので高い知識や教養を持つ人々に支持される基盤を保つことが大事で、その根幹が守られれば日本舞踊の伝統も未来につながろうと私は確信している。
(『日本照明家協会雑誌』№467、平成21年5月1日)

■ベテラン二人が描く女人の生涯 西崎緑の藤壺、西川左近の淀君
 日本舞踊は歴史や文学・伝説のなかのさまざまな人間を描いてきている。それも男性よりも女性に焦点を当てた作品のほうが圧倒的に多く、その描く手法はまちまちである。「まちまち」というのは「個々が自由に」という意味ではなく、日本舞踊は伝統の世界なので、流派や系統が築いた主義・精神に沿って創作されるのがより好ましいと考えるからだ。
 今回は、秋に上演された公演のなかから、流派の特色を活かして創作され、良い成果をおさめた二公演を取り上げる。
 まず、源氏物語千年紀にちなみ二代目西崎緑が創作発表した「恋・藤壺」(平成20年10月4・5日、於:湯島聖堂、4日所見)。
 二代目緑の師は初代西崎緑。初代は昭和初期に新舞踊運動を推進した女流舞踊家のひとりで、当時の新進舞踊家には各自が歩もうとする芸術への強い信念がみられた。初代は、舞踊団を結成し日本全国を巡演する傍ら、自らはラジオやテレビに出演するなどの国民的舞踊家であった。「踊りのお(ヽ)の字も知らない大衆の方がたに、踊りを親しませよう」(花柳壽楽『日本舞踊』)とたいへんな努力をされたという。
 その初代の遺志を継いで二代目緑も舞踊団を率いて公演活動を行っている。二代目が選ぶ創作のテーマは魅力的なものが多い。私との最初の出会いは「ジャンヌ・ダルク」(昭和59年、国立小劇場)。英仏の百年戦争でフランスを勝利に導いたオレルアンの少女の物語で、村の田植え踊りから始まり、ジャンヌの処刑を暗示して男装したジャンヌがセリ上って出陣する姿は性を倒錯した甘美な魅惑に満ちていた。また代表作は「八百比丘尼」(平成1年初演、芝増上寺境内)。人魚の肉を食べて不死を手に入れた若狭小浜の八百姫の伝説で、舞踏集団とのコラボレーションは仏教説話の不気味さを漂わせ、雪降るなか輿に乗り、紫衣をまとった尼僧の姿は鮮烈な印象を残した。同じく増上寺境内で能「卒塔婆小町」をベースに小野小町の百年の思い出を回想した「阿弥陀来迎」(平成14年)では、舞楽「胡蝶」「迦陵頻」の舞踊化はあたかも極楽浄土の具現のようであった。そういう活動において、二代目は自身の歩む道として野外公演に取り組み、すでに二十五年の歳月が流れた。
 この秋に上演された「恋・藤壺」では二代目は藤壺と桐壺更衣・光源氏の三役を演じ分けた。帝から寵愛を受けた桐壺更衣が他の女人の嫉妬で命を落とし、残された源氏の君は後に入内した藤壺に初恋を抱く。宮中の雅やかさを円舞曲に乗せた女官と貴公子達のモダンでコミカルなダンスシーンに置き換え、「春鶯囀」を舞う源氏のまばゆさ、雷鳴の轟く中での藤壺と源氏の背徳の契り、そして藤壺の落飾、と場面は展開する。つまり、“輝く日の宮”と呼ばれた藤壺の人生を追った作品で、場面ごとに帝役(市川段四郎)のナレーションが入るのでわかりやすく筋が運ばれる。月光の下まばゆいばかりの美しさにいつしか観衆は源氏物語の世界へと誘われていき、初代の信念が今に生きていると感じた。
 もういっぽうは第十二回西川左近の会(平成20年10月15日、於:国立小劇場)で、この回は左近の父である二代西川鯉三郎の名作選。
 鯉三郎は名優六代目尾上菊五郎の門弟であった時、「鏡獅子」の胡蝶に抜擢されたほどの踊りの才を持っていた。六代目の芸風が投影されて人物の心理描写まで表現できる名人で、「常にお客様にお楽しみいただくこと」(プログラムより)を心がけ、洗練を極めた様々な作品を創り続け、「初めがあって、終わりのないのが芸の道」というのが鯉三郎の日頃の言葉であった。
 その芸の虫のような性格を受け継いだのが左近であり、芸に熱心な様子は「西川左近の会」「鯉風会」の姿勢によく表れている。私にとって忘れられない作品は「舞妓二代」(昭和52年)。新作舞踊劇として完成度の高い作品で、養母役の鯉三郎と舞妓役の左近の演技力に圧倒された。作者は平岩弓枝で左近のために良い作品を書き続けている。今秋のリサイタルの「おちゃちゃ御料人-酔うて候-」も平岩の作であるが、鯉三郎のために書いたたった一つの作品だそうだ。淀君が昔を回想しながら子ども時代からの生涯を描いた新作舞踊で、#酔うて候」の歌詞を効果的に繰り返し挿入し、歴史に翻弄された女人のはかなさと酔態の夢幻性を自ずと表出していく構成は巧みである。作者は「鯉三郎先生の左近さんへの最後の贈物の一つ」と気がついたほど左近にふさわしい作品と言える。
 今秋のリサイタルはほかに「北州」と「鯉三郎小唄振り名作選」。「北州」は一般的な振付に加え、かつて坪内逍遙が推奨した名古屋西川流独自の名古屋振りが所々に入り、芸所名古屋の豊かな情緒と左近のきめ細かい演技による芳醇な味わいの「北州」に堪能した。左近の古典における技量はことに娘形に定評があり、「鷺娘」(昭和52年)、「娘道成寺」(平成11年)も心技一体の名演であった。と思うや否や、一昨年の「関寺小町」(平成16年)では小町の老境を自然な風情の中に明瞭に演じ、すでに老女物の芸域に迫っていた。
「鯉三郎小唄振り名作選」は、何と言っても鯉三郎の十八番の一つ「春宵吹寄ばなし」の路線のもの。一昨年に踊った左近の「春宵吹寄ばなし」では役による足使いの仕分けが見事であったのが印象に残る。今でも上演が繰り返される鯉三郎振付の「月」や「旅」などの名品の数々。鯉三郎風の作品が女流の左近風となって今に生きていることが嬉しい。
(『日本照明家協会雑誌』№463、平成21年1月1日)

□ウロコで象徴される女の情念と執心 地唄舞「葵の上」・組踊「執心鐘入」
 △が延々と続く幾何学的な文様の「ウロコ」・・・。能を原典とする道成寺物では衣裳に必ず鱗紋を付ける決まりがある。また能の「葵上」の着付にも大胆に鱗紋を用いることもあるところから、本行物の地唄舞「葵の上」もそれを踏襲する。△が上下、左右へ連続した鱗紋は鮮烈な印象を与えるデザインで、あたかも「外面似菩薩、内面如夜叉」と言われる女性の、その燃えさかる情念や執心を象徴するかのような激しい魅力を発揮するのだ。
 日本の舞踊は女性の嫉妬を取り上げたテーマが好まれる。西洋のバレエが純愛をテーマにしたのと対照的なのは、そこには仏教、キリスト教という洋の東西が育んできた宗教的な背景の違いが色濃く反映されているからに他ならない。
 地唄舞「葵の上」は『源氏物語』第九帖の葵の巻に取材したもの。賀茂祭の日、光源氏の正妻葵の上との車争いで負けた六条御息所(前東宮妃で源氏の恋人)が生霊となって葵の上を苦しめるという内容で、地歌には謡曲にはない#縺れ縺れてな」の件を挿入し、御息所の女心を情緒纏綿に謳い上げた名作ゆえ、これまで多くの舞い手が上演を重ねてきた。 そういう「葵の上」だが、近頃、とても品の良い情趣を感じた「葵の上」を観た(山村流舞扇会第一部、5月18日、於:国立文楽劇場)。舞い手はすでに中堅の域に入ったとも言える山村若。文化文政の頃に活躍した上方の振付師山村友五郎を流祖とする山村流の六世宗家で、近年、一段の進境を示している。三世宗家山村若伝承とされる振りがまたよかった。三世宗家は六世宗家の高祖母にあたる。当時、大阪の舞は山村しかなく、どこへ行っても山村。「山村流の舞は品がええし、能から出たもんであるし・・・」、それで“いとさん”“とうさん”には山村流を習わしたということだった(『上方の舞に命を』)。つまり、「葵の上」にはその当時を想像させる、はんなりした舞の味わいがあった。
 金茶の座敷飾りで上手奥に几帳を立て、その前に小袖を斜めに置く。幕開きは板付で照明は芯と小袖に当てる。#憂き人の」で足拍子を強く踏んで小袖をキッと見、#葛の葉の」で扇子(鬼扇)で小袖を強くさす。御息所の強さをみせた後、#縺れ縺れてな」では二枚扇(銀)で曲使いとなる。謡「いいや~打てば」は女声にせず、そのままの声で迫力を増す。#葉末の露と~うらしめしや」でシオリの型を二度みせ、#なおなお思いの」で開いた扇を逆持ちにして踏み込み。#打ち乗せ隠れ行かんとぞ」で後見座で被衣をかぶり、#さめてはかなく消えにけり」と被衣を腰巻にしてキッと極って終わる、という展開。演出は今日では常套的となったが、女心の心地よいメリハリが舞全体をはんなりと包んでいた。
 この第一部は「源氏千年紀」にちなんだ企画。六世宗家若の振付・演による「新浮舟」では#その浮舟の行方さえ」から返して右手甲へのせた扇子を波立たせ、水の流れと浮舟の心情を表現するという新しく考案した扇の手が活かされ、終盤は地歌の名曲「雪」に似た振りで、髪を下ろし拝んで終わった。もう一作は、四世宗家山村若振付の「夕顔」(光源氏=山村侑、夕顔=山村光)。時代はまったく違うが、『舞曲扇林』の「六態鏡」に挙げられた舞の上手、玉川主膳の「夕がほ」を彷彿とさせる素朴な味わいがあった。
 片や道成寺物はわが国最大の伝説、安珍清姫の道成寺伝説に取材したもの。石川県立音楽堂は五周年事業として主催した「道成寺の舞踊」(平成18年3月19日)が大好評であったため、それに引き続いて今年7月に「道成寺の舞踊」(7月20日、13:00・16:00開演、13:00の部所見、音楽堂邦楽ホール)の第二回目を公演した。今回は北陸の地・金沢に沖縄芸能の組踊「執心鐘入」を上演したのが大きな収穫であったと言える。
 玉城朝薫の創作「執心鐘入」は現存する組踊のうち唯一の恋慕物。首里王府御奉公を主張する美少年中城若松との愛の尊さを強調する宿の女の執心を描き、後に若松は末吉寺の鐘の中に匿われ、追ってきた宿の女は鬼女になるという内容。
 若松(東江裕吉)の道行に始まり、宿の女(宮城能鳳)がしっとりと登場し問答になる。この間、優美な干瀬節(演奏は城間徳太郎ほか)にのせて静謐な時が流れ、能鳳の女形は美しく、内攻的な感情の表出が実に秀逸であった。若松が鐘に隠れたあと、女は足を外輪に豹変。ギバの如く足を投げ出し座って花笠の蔭で化粧を変え、眉間と頬に朱印を付けた女は花笠を投げ捨て鐘をめがけて走る。その後、座主たちが読経を始めると鐘の中から般若面の鬼女が髪を振り乱して上半身を押し出し、いずれ祈り伏せられる、という展開。
 「道成寺の舞踊」では、ほかに地唄舞「古道成寺」と長唄/舞踊「紀州道成寺」が上演された。「古道成寺」は故・吉村雄輝の名振付として知られるだけに、今回は演者独自の衣裳・振付・型をみせたのは甚だ遺憾だったが、「紀州道成寺」は四世花柳壽輔の芳次郎時代からの四十年振りの再演。能にはない#仇し身の」の件が雅趣に富み、演奏(東音宮田哲男・今藤政太郎他)も華やか。蛇体は般若面をつけ、身体からは女の哀れさが滲み出ていたのがいい。
 女の情念と執心の象徴「ウロコ」はいつの時代も人々を芸能の虜にしてきた。皮肉にも、いつしかその「ウロコ」は女性が厄よけとして身に付けるようになった。それは芸能と習俗の不可思議さであるが、「ウロコ」は私たち遠い祖先から引き継いだ、女の哀しみの結晶なのかもしれない。
(『日本照明家協会雑誌』№459、平成20年9月1日)

■interesting[興味ある]な面白さ 尾上菊之丞・青楓の「連獅子」「供奴」
 今年も恒例の日本舞踊協会公演が開催された(平成20年2月15~17日、於:国立劇場大劇場)。雑誌『演藝画報』昭和10年5月号に足立朗々の「をどりの春 日本舞踊協会五周年公演」という記事が掲載されている。第一次日本舞踊協会が発足して5年のことで、隆盛の気運を醸してきたなか日本舞踊協会の貢献度も期待され、その功績も称賛されてのことであった。当時より一流の地方(演奏)で一流の舞踊の名手が顔を揃えた豪華版で、その時は当時の波多海蔵会長の名に因んだ新曲「海蔵宝珠」を藤間・坂東・花柳の三流が別々に振付して競演したのが呼び物であった。それ以来、途中第二次世界大戦を挟み、戦後第二次日本舞踊協会として再建され今日に及んでいる。
 先日、或る洋舞系の評論家から「都民芸術フェスティバルの協会公演は面白いの?」と揶揄気味に尋ねられた。私は即座に「面白いですわ!」と答えた。その面白さというのは世阿弥のいう“面白き”であり、funny[おかしい]でもなければ、entertaining[娯楽的]でもない。interesting[興味ある]な面白さであり、筆者は伝統芸能のこの種の面白さを理解できる日本人であることに“誇り”を持ちたい。
 なかでも面白かったのは「小袖曽我」。花柳流の伝承演目を藤間流の家元・藤間勘右衞門が五郎役となり、しかも能取物であるから歌舞伎荒事の五郎ではなく抑えて演じていた。母満江役の藤間紫のハラはさすがであったが、それらは花柳流の演目をきっちりとした形で他流の舞踊家に移した四世花柳壽輔の功績でもあろう。またそれとは逆に二世西川扇藏振付「羽根の禿」を当代の西川扇藏がお家芸として初心に返って踊ったのが円やかで品の良い大きな舞台であった。再演物では藤間紋寿郎の「易行燈」、橘芳慧の「大河の一滴」がさらに芸や技術に磨きがかけられており、そして花柳寿南海の「風」は先頃亡くなった駒井義之氏を偲んで「色即是空、空即是色」と今藤政太郎が演奏したのが印象深かった。
 そのように様々な趣向や企画を凝らした四十二番組中、今回、尾上菊之丞と尾上青楓の「連獅子」が特筆に価しよう。尾上流と言えば、初世尾上菊之丞の上品でややモダンな素踊りの振付作品に定評があり、「石橋」などは他流の舞踊家も好んで上演する秀作となっている。今回、同じ石橋物でも古典の「連獅子」を素踊りで演じたが、金屏風の前でそれに見劣りのしない品格のある舞台であった。#休らいぬ」の合方では親獅子(狂言師)は仔獅子(狂言師)を案じるハラが充分みえ、#水に映れる」では花道の仔獅子の様子がよく、#面影を」で本舞台の親獅子と息がピッタリ合っていた。その後、二人は花道に入り乱序のあと獅子の精になってからは足遣いを工夫して獅子の勇猛さを、足踏みで獅子の豪快さを強調していた。#獅子団乱旋」では扇子を持って<角取リ><鸚鵡返シ>で振りの面白さを満喫させていた。最後の極リでは親の手獅子と仔の手獅子の振り方に相違がみられ、工夫が随所に表れた舞台であった。近頃、歌舞伎若手の「連獅子」「鏡獅子」を観たが、毛振りになると血気盛んに振り回していたのを危惧していた矢先、伝統芸能の行儀の良さが守られているのを見て安堵した。
 その青楓が、亀井広忠・田中傳左衛門・田中傳次郎三兄弟の「獅子虎傳阿吽堂 vol.4」(3月27日、於:世田谷パブリックシアター)にゲスト出演した。考えてみれば、能の囃子方と歌舞伎の囃子方のジョイントでもあり、狂言師・茂山逸平の「三番三」や素囃子「獅子~髪洗い~」に歌舞伎囃子方が出演したりするなど、きわめて斬新な企画であることは言うまでもない。これは世田谷パブリックシアターの芸術監督・野村萬斎企画の邦楽コンサートで、これからの時代、先述した日本舞踊協会公演のように伝統の垣根のなかで行われる公演だけではおさまらず、若者を中心に垣根を破って新しい試みに挑戦していく公演がますます盛んになっていくものと思う。前者の公演では「観客が身内だけ」とよく非難されるが、これがまた大事でもある。観る者の目が厳しく、審美眼が鋭くなければ伝統芸能の真のinteresting[興味ある]は未来につながっていかない。かと言って、それだけでは観客の裾野は広がらない。裾野を広げるためには後者のような企画も必要であろう。しかし、その面白さはentertaining[娯楽的]なものとなろう。
 さて、獅子虎傳阿吽堂では青楓は素踊りで「供奴」を踊った。その前に、英哲風雲の会による「天請来雨」の太鼓の演奏があった。この企画も伝統楽器の囃子の会に和太鼓の奏者が入るのは破格中の破格のこと。若者文化はこれほどまで垣根が取り払われている現実にも目を向ける必要があろう。筆者は和太鼓の壮大な演奏のあとの「供奴」は舞台がかすんでしまうのではなかろうかと懸念していたが、そこは伝統芸の重さというのであろうか、それは杞憂にすぎなかった。青楓ははじめのレクチャーで現代青年である自分は中村富十郎張りの「供奴」には及ばないと意味合いのことを釈明していたように歌舞伎舞踊「供奴」としてみれば課題を残す出来ではあったが、観客の多くはカッコ良い青楓の「供奴」を堪能していた。それよりも筆者は、10日ほど前、国立劇場主催公演「素踊りの会」(3月16日、於:小劇場)で観た菊之丞の「供奴」の振りや技術は、今回の通常の「供奴」の振りを変えていたことにinteresting[興味ある]な面白さを覚えたのであった。しかも、この点にこそ尾上流の正統な行き方が示されているのだと言えよう。
(『日本照明家協会雑誌』№455、平成20年5月1日)

□魂の生の叫び・駒井作品最後の二題 扇藏の「飛鳥斑鳩」、寿南海の「風」
 「ふりはもんくに有」という有名な言葉がある。これは、宝暦期の『佐渡嶋日記』-しよさの秘伝-に書かれた文章の一句である。歌舞伎舞踊の根本的な性格を表す言葉であり、それは歌舞伎舞踊を根幹とする日本舞踊にとっても精髄となる。同じ舞踊芸術のバレエやダンスと比べてみればその意味は自ずと明らかなことだ。西洋舞踊の振付家たちが筋のない抽象的なものと物語性の濃いものとをせめぎ合いながら今日にノンバーバルな芸術を築いているのに対し、日本舞踊はその初めから「文句」つまり歌詞に支配された舞踊である。
 「文句」に自己の魂を吹き込んで作品創りをしてきた人に舞踊作家・駒井義之がいる。しかも『佐渡嶋日記』が「もんくの生なき時は、品をもつてす。又もんくなく、ふしにてのはす時は、ひやうしにのる」と続けるように、あえて文句で踊りのすべてを語らず、一曲のなかに振付と音楽と空間の絶妙なる調和を生み出すコツを心得ていた作風だ。思えば、その「もんくの生なき時」にこそ自己の魂を吹き込んでいたに違いない。最後の作品となった「飛鳥斑鳩」と「風」にはこの作家の魂の、生の叫びが響く傑出した舞台であった。
 「飛鳥斑鳩」(駒井義之作・演出、今藤政太郎作曲、堅田喜三久作調、西川扇藏振付、西川箕乃助・西川扇二郎・西川扇与一振付補、有賀二郎美術、高木どうみょう照明、高橋嘉市音響)は西川扇藏リサイタル(9月21日、於:国立大劇場)、「風」(駒井義之作・演出、今藤政太郎作曲、奥田祐作曲、望月左武郎作調、二世米川敏子箏手付、花柳寿南海振付、有賀二郎美術、北寄崎嵩照明)は花柳寿南海舞踊の會(10月3日、於:国立小劇場)で、それぞれ新作発表された。
 「飛鳥斑鳩」は“道徳を踊る”という教訓を舞踊化した点で新境地を拓いた作品に位置付けられよう。構成は、第一景・神佛擾乱、第二景・甘樫歌垣、第三景・憲法発布、第四景・讃曼陀羅からなる壮大なドラマで、眼目は“和を以て貴しとす”を謳った十七条憲法の件。駒井作品にはもう一つ、三十数年前に初演・再演を重ねた聖徳太子を描いた超大作「斑鳩の宮」(駒井義之作、寺崎嘉浩演出、三枝孝栄作曲、藤間豊之助振付、有賀二郎美術、斉藤政雄照明)がある。その時は「太子を舞踊化するのに(略)業績にポイントを与えた教訓劇は作る気になれず、さりとて古代大和朝廷にあった政争劇にも興味なかった。私は聖徳太子の人間愛と古代王朝の悲劇によるロマンを、私の聖徳太子観として書きあげてみたかった」と若かりし作家は気炎を吐いている。ここに一人の作家の思想発展の過程と日本舞踊創作の動向の推移をみることができよう。
 三十数年前が聖徳太子から随の大使まで衣裳付で古代ロマンの歴史ものであったのが、今回は素踊りで民間の若い男女(西川箕乃助・西川扇千代)の存在をエッセンスにし、古代思想の宇宙観を堂々と創り上げた。もちろん心(しん)はのちの聖徳太子の厩戸皇子(西川扇藏)で、#守らせ給いき」で大セリで上がった皇子の聖徳太子稚児像そのものの気高さに筆者は目が眩んだ。十七条憲法は根底に「勧進帳」の山伏問答がある。条文で綴った文句を作曲がうまく助け、教訓を力学的かつ幾何学な構図で示す振付手法が新鮮であった。飛天(西川扇生・西川祐子)とともに皇子が踊る終盤、蓮華の花びらがゆらゆらと天空から大様に散るさまは「唯仏是真 世間虚仮」の世界を見事に再現していた。
 「風」は「土」「水」「火」に続く第四作で、序章・風の流れ、第二章・風神雷神、第三章・風の盆、第四章・凧合戦、第五章・風紋、終章・風の道の六章に分かれ、自然の現象を背景に人間生活や風物行事を描きながら、それらの持つ人間としての思考や内在する哲理を説いたもの。浮遊感あふれる作曲が天・地・人の宇宙の万物を「風」を主体に描写することに成功し、オムニバス形式の駒井作品の粋(すい)となった。そしてそれは、振付・美術・照明に遊び心が加わり、たとえば風の盆の「風」の字の揺らぎ、凧合戦の「凧」の造形と振付等々、戦後現代の人にもわかるように装飾も採り入れて魅せる素踊りを創り続けた寿南海芸術の粋ともなった。今回は「人間生活や風物行事」の描写に中堅若手(花柳翫一・花柳笹公・花柳秀衛)を巧みに起用し、寿南海自身は空(くう)となって「人間としての思考や哲理」を表現していたのがこれまでの連作と趣が変わっていた要因かもしれない。
 なかでも圧巻は風紋。舞台背面に砂丘が忽然と現れ、陰翳ある照明にたたずむの女(花柳寿南海)の心の襞を投影していく。美術は風紋が刻々と変わる中国敦煌の砂漠をイメージとして創られたが、作家の心にもタクラマカン砂漠に埋もれた幻の桜蘭帝国に想いはあったはずだ。作・作曲・美術・照明・振付・上演がじつに心地よい調和を生み出して創出された「風」は、観ている者に言葉では表現することのできない芸の極地を感じさせた。それは世阿弥のいう“妙花風”とでもたとえられようか。
 日本舞踊の「文句」あるスタイルに固執し、さまざまな作品を舞台へと送り続けてきたひとりの作家は「風」の上演が終わって20日足らずで身まかった。自らの命を削るように作品に生命を託し、一陣の風となって消えていった・・・。寿南海作品の第五作目となるはずの「空(くう)」をやり残したが、この二作に通じる通奏低音には「天」と「空」
の思想が流れており、自らの魂の昇華を荘厳に飾ったのであろう。
(『日本照明家協会雑誌』№451、平成20年1月1日)