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□■□日本舞踊[STAGE REVIEW]『日本照明家協会雑誌』掲載より□■□
バレエを鈴木晶氏(法政大学教授)、コンテンポラリー・ダンスを貫成人氏(専修大学教授)、演劇を西堂行人氏(近畿大学教授)、日本舞踊を私が持ち回りで担当しているシリーズが[STAGE REVIEW]です。本ページでは日本舞踊の名舞台を紹介いたします。なお、文中の敬称はすべて省略、#印は唄ガッコになります。また、オペラを白石美雪氏(武蔵野美術大学教授)が担当されております。
ここに舞台写真を除く本文の転載をご許可下さった日本照明家協会に御礼申し上げます。

□祈りと希望を込めた日本舞踊
 公益社団法人日本舞踊協会(以下協会と略す)主催「特別日本舞踊公演=祈り 希望 そして感謝を込めて=」(令和3年3月4日、国立能楽堂)が二部制で開催された。昼の部は長唄『風流船揃』(藤間蘭黄・藤間恵都子)、地歌『水鏡』(井上八千代)、長唄『安達ヶ原』(シテ 花柳寿楽・ワキ 若柳壽延・ツレ 猿若清三郎。なお、能『黒塚(安達原)」では能力はアイである)、夜の部は長唄『葵の上』(水木佑歌)、地歌『たにし』(たにし 西川箕乃助・烏 山村友五郎)、新曲『景清』(花柳基・中村梅・羽鳥以知子)で、顔ぶれは日本舞踊界で活躍する面々(子役を除く11名のうち6名が協会理事)。
 振り返れば、昨年「第63回 日本舞踊協会公演」が2月22・23日に国立劇場大劇場で開催された日を思い出す。その前日、東京都知事の小池百合子氏が「都主催のイベントでございますけれども(略)明日22日(土曜日)から3月15日(日曜日)まで、今後3週間を感染拡大防止の重要な期間だと位置付けまして、開催を予定いたしております都が主催する屋内でのイベント、大規模なもの、それから食事を提供するものにつきましては、原則、延期または中止といたします。」(「小池知事「知事の部屋」/記者会見(令和2年2月21日)」より)と発表した。協会関係者はこの会見に震撼したであろう。というのも、協会公演は「都民芸術フェスティバル」の認可を受け、プログラムには都知事の顔写真と挨拶文が掲載されている。いっぽう日本放送協会からは後援を得ており、協会公演の舞台で収録した日本舞踊を全国に向けて公開しているため、NHK関係者は公演の収録が出来たことで助かったという。しかし、一年後の今も疫病(COVID-19)終息の見通しは立っていない。
 サブタイトル「祈り 希望 そして感謝を込めて」はこういう状況を反映しているのだろう(「感謝」の対象は不明瞭だが……)。個人のリサイタルで能舞台を使用することは多いが、協会主催のオフィシャルな公演として日本舞踊を能舞台で上演することに数人から疑問を呈する声を耳にした。能舞台で上演するのは経費の問題だそうで、プログラムに「能楽堂での上演にふさわしく、かつ日本舞踊本来の多彩な表現をお楽しみいただける……」(日本舞踊協会会長近藤誠一氏)、「能舞台ならではの工夫や演出による上演も見どころになる……」(日本放送協会会長前田晃伸氏)とある前向きな目が大切だ。そういう視点で筆者が関心を抱いたのは『安達ヶ原』と『景清』。
 二世花柳壽楽が『安達ヶ原』の曲に振り付けたのが昭和44年。「成仏を願った高僧に約束を裏切られた鬼女の怒りと苦しみ」が主題で、その後も練り上げられ、完成に近づけた平成12年に筆者は初見した(「花柳寿楽舞踊会」、11月27日、歌舞伎座)。尾上墨雪(当時菊之丞)が海津勝一郎作・藤舎呂船作曲の新作『景清』に振り付けたのが平成11年1月頃か。『景清』の主題は「傷心混乱の景清は闇の中で何を見るのか」で、平成16年(「第27回 冬夏会」、12月3日、国立劇場小劇場)の再演を筆者は初見。いずれも、ふた昔も前のことだが、今もなお色褪せずにその舞台が鮮明な印象として残っているのは何故か。今回、『安達ヶ原』は作リ物の柴囲イノ藁屋で切戸を隠す工夫があり、現寿楽も所々祖父の芸風を彷彿させつつ、後シテでは迫力を増して健闘した。『景清』は三方が開いた舞台に合わせて立体的な演出がみられ、基は墨雪の演出意図を十分汲んで熱演した。ここに詳しく記す紙数の余裕はないが、協会公演などオフィシャルな場でのプログラムには演目の初演年月等の情報や成立事情に触れた解題が必要だろうが、最近は粗筋や情景の説明でしかない点を指摘する人もいる。
 他の演目について。八千代の『水鏡』は湖面に自らの心を映す姿に祈りの透徹さを感じさせたのはさすが。『たにし』は山村若佐紀が自ら振り付けし、昭和53年文化庁芸術祭賞を受賞した作品(筆者は「上方舞 山村若佐紀の会」平成11年9月28日、三越劇場での再演時に初見)に友五郎が振付を増補し、本来一人で田螺と烏の智恵比べを舞い分けたものを二人立ちにしたため清元『田螺と烏」と同工異曲となったが、箕乃助とのコンビが楽しめた。『風流船揃』は川のように流麗に、『葵の上』は六条御息所の嫉妬を優艶に、各部の序幕を飾った。
(『日本照明家協会雑誌』、平成3年6月1日)

■女舞と韻文 和歌・俳句の世界
 未曽有の疫病(COVID-19)蔓延によって中止が相次いだ、国立劇場主催の舞踊公演が約一年ぶりに再開した。「舞の会-京阪の座敷舞-」(令和2年11月21日、国立劇場小劇場)を一部四番ずつ一日三回公演としたのは感染によるリスクを下げるための配慮と思われるが、それが効を奏して中堅・若手の成長ぶりが際立った。特に和歌や俳句を歌詞に織り込んだ演目は言葉の韻律と舞の気韻が響き合い、風雅な趣を醸し出していた。
 「袖の露」とは涙で袖を濡らす意味。和歌では『新古今和歌集』の「暮れかかるむなしき空の秋を見ておぼえずたまる袖の露かな」(秋歌上)が例に挙げられる。地唄『袖の露』は秋の夜長に独り寝の女の寂しさを詠ったもので、祇園の芸妓・井上豆弘の丁寧で確かな体の遣い方に好感を覚えた。その舞は画家・小倉遊亀の絵の如く現代的で新鮮な魅力に溢れた。
〽ふとん着て 寝たる姿は古めかし」で唄い始める地唄『東山』は、蕉門十哲の一人・服部嵐雪の「ふとん着て寝たる姿や東山」をもとに、今更らしくその句を引くのも古めかしいが、と洒落て出て、東山・知恩院の風景に絡ませつつ京女の若さや美の移ろいを詠ったもの。短い曲ながら、楳茂都梅衣華がふっくらと円やかな京情緒を漂わせていた。
 上方唄『世界』を舞った山村光は、今公演の中でも突出した出来映え。長年、光の舞を見ているが、国立文楽劇場で舞った『ゆき』『江戸土産』など本場・大阪の水が合う舞い手という印象が濃かった。純粋培養された稀な舞い手は一皮剝け、山村の女舞の真髄を東京で魅せたと言ってよい。権中納言藤原敦忠の「逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」(『拾遺集』恋二)、つまり逢瀬を遂げたあとの心を詠んだ和歌をもとに色の世界・島原の情景を描いた内容を光は上方唄の風情たっぷりに人物を巧みに仕分けた。
 蕉門十哲第一の宝井其角の「あれ聞けと時雨来る夜の鐘の声」で唄い始める地唄『影法師』は遊女と過ごす冬の夜の句意を地唄ならではの想像によって膨らませたもの。置き炬燵でうたた寝した女が自分の影に語りかけるという心憎い内容で、東京を本拠地とする神崎えんが江戸小紋を着た年増の姿でやるせない女心を舞った。
 地唄『かくれんぼ』は前の手事のあとに俳聖・松尾芭蕉の「行く末は誰が肌ふれむ紅の花」を丸ごと詠み込んである。その後の手事は「恋慕の手」と言われ、曲名も「斯く恋慕」に掛けている。迎え駕籠に乗る遊女の心情を描いたもので、山村若有子は長身を活かして前帯の花魁の拵えで要所を美人画のポーズで極めていた。
 加藤周一氏は「日本の画家は、しばしば写生を犠牲にしても気韻を重んじ、こころの表現を尊ぶ傾向にある。」(『日本その心とかたち』)と書いたが、「わび・さび」の閑寂な情趣や「ほそみ・しおり」の繊細な感情、それらを幾層にも重ねて具現化した舞は日本の美そのものである。が、ここで一つ提案。かつては座敷舞であったので舞の演目には「扇を落とす」振りが実に多い。これは歌舞伎舞踊系の演目に多用される「おこつき」という、つまずく仕科に似た振りと同様に、演者が気を転じ観客の心にインパクトを与える効果を狙ったのだろうが、舞台上では扇の落ちる音によってせっかくの興が削がれてしまう。今回は全般的に「扇を落とす」音が目立って気になった。
 新人ではほかに、井上安寿子が自ら新たに振り付けた地唄『鐘の岬』で〽晨朝の響きには」から表情に華やぎを増し、この肝を押さえた解釈はさすが。さらに安寿子はニンにない演目を勉強しようとする姿勢を示して盤石の基礎を築いている。ベテラン勢では、山村友五郎は自身が振り付けて舞った地唄『善知鳥』に加えて『かくれんぼ』の振付にも飽くなき意欲を見せ、吉村輝章は流儀の奥許し物である二人舞の上方唄『三国一』を吉村輝之と舞って新家元を披露した。井上八千代は地唄『鉄輪』を素で舞い、出の際の笠を持つ手の指一本にも気を抜かない徹底さで精髄を究めた京舞を呈し、観客を大いに納得させた。
 感染予防策のため客席数を三分の二ほどにしての実施だったため、演者は通常とは異なる客席の空疎な雰囲気に当惑されたそうだが、皆が諦めない限り、堅固な伝統は未来永劫、繋がっていくことを信じたい。
(『日本照明家協会雑誌』、平成3年3月1日)

□21年ぶり 国立劇場公演「京舞」
 令和元年度(第74回)文化庁芸術祭協賛のもと、国立劇場第一六三回舞踊公演「京舞」が令和元年11月29・30日に国立劇場大劇場にて開催された。国立劇場での「京舞」公演は平成10年以来、21年ぶりのことである。これまでと一線を画する現象は「協賛」として企業など幾社かが協力していること。国立劇場を有する日本芸術文化振興会が特殊法人から独立行政法人へ移行したのが平成15年であるから、今回は資金面での全面的な保証を得ることが出来ない中での企画であったことだろう。また、今年の東京オリンピック・パラリンピック競技大会を見据えて日本の文化芸術の振興とその魅力を国内外に発信していく「日本博」、それ以降に次世代へ誇れるレガシーの創出に資する文化プログラム「beyond2020」という、オールニッポンでの取り組みの一環として実施されたのであった。 二日間三回公演とも満席の大盛況で、伝統文化への関心度の高い客層とシニア世代の男性客が多く、京都祇園甲部と密接に関係のある「京舞」が現代社会においても日本の伝統文化として理解と支持を得ているのは言うまでもない。
 筆者は本場の京都でも「京舞」を観る機会に恵まれてきたので、ここで一般客の側に視線を置き換えてみるとすべてが新鮮で別世界の魅惑に捉われたことに違いなかろう。大勢の舞妓が舞う「京の四季」「万歳」、大勢の芸妓らの「正月」「新京の四季」「十二月」は、舞台装置にも目配りすると床の間の設えや繭玉の飾り…。そして、極め付きの「手打 廓の賑」(七福神、石橋、花づくし)は拍子木を打ち鳴らしながら登場し、芸妓が勢揃いして「アリャアリャアリャ ヨォー 艪拍子揃えて エエサチョッチキチョッチキ…」と囃子詞をまじえた歌詞を唱える。祇園甲部のみに伝わる貴重な風習で、江戸時代、上方歌舞伎の顔見世で贔屓らが役者衆を迎える祝儀の一つとして手打を行ったのが始まりだそうだ。
 さらに筆者が興味を惹かれたのは、井上小萬の「弓流し物語」、井上豆弘(お染)と井上豆花(半九郎)の「鳥辺山」であった。前者は井上流にのみ伝承されている曲で、家元五世井上八千代をはじめ何人もの名舞台を観てきたが、ダイナミックさには欠けるものの小萬の艶やかさと確かな舞ぶりに魅せられた。後者は昨今上演が稀になった演目で宮薗節ではなく地歌のほうの曲で舞い、途中で四条河原から鳥辺山に背景が変り、美しい二人による風情ある舞台に心が奪われた。
 井上流は今や「京舞」の代名詞ともなった。八千代のほか、今回は井上かづ子、井上政枝の舞台が欠けたのは淋しい限りだが、師範格の井上安寿子、井上和枝、井上葉子の的確な技量は今更言うまでもなく、極小の流派ながらも世代交代を見事に成し遂げていた印象が強い。井上流と祇園甲部との密接な関係はよく知られており、祇園甲部に所属する芸妓・舞妓の舞の技芸は井上流をもって修得することが定められている。それは明治維新以降のことで、明治5年には三世井上八千代によって「都をどり」が始められている。
 ここから玄人の視線に切り替えると、三世九十七歳の「虫の音」の映像が今から22年前に片山家能楽・京舞保存財団の協力を得て立命館大学アートリサーチセンターによって復元された。そこで明かされたのは三世の男性っぽく大らかな舞ぶり。そもそも井上流の「虫の音」の振付は三世で、廃絶になりかけていた「虫の音」を昭和37年に四世井上八千代(愛子)が三世の映像を参考に蘇らせたもの。そして、四世は心から「虫の音」を愛し、かつて米寿の会(平成4年10月3日、祇園甲部歌舞練場)での「虫の音」は、生の肉体を取り払った魂の浮遊感を感じさせ、その姿は今でも髣髴と目に浮かぶ。井上流において「虫の音」は格別であり、五世も四世の三回忌追善(平成18年10月3・6日、祇園甲部歌舞練場)、そして国立劇場「舞の会」(平成27年11月21日、国立劇場小劇場)での「虫の音」など折あるごとに舞っている。「舞の会」では、十三回忌の祖母四世とその年に他界した父片山幽雪への手向けである上に、人間国宝認定後、東京での初の舞台として客席から熱いまなざしが降り注がれていた。その時の「虫の音」は緊張感の中で型を丁寧に守った舞ぶりと中性的な匂いを感じさせた名演だったが、今回はそれに優艶さが加わってゆとりさえ感じさせた見事な舞台となった。
 ほかに五世は「三面椀久」を上演した。大変珍しい演目で井上流と山村流が伝承しているが、山村流が椀久一人で舞うのに対し、井上流は椀久のほか面売(井上安寿子)と里の子が登場する。今回は里の子に子役を登用したが、上方臭さが少なく違和感は否めなかった。安寿子の「信乃」は4年前の「葉々の会」(平成28年2月6日、祇園甲部歌舞練場)が初役で、今回は、田舎娘から武将姿に立ち返っての勇壮な戦いの舞ぶりがスケール感大きく、物語の世界へと観客をどんどん惹き込んだ。葉子の舞った「芦刈」は井上流では男舞の振りで、葉子は渋さの中にも華やかさを醸し精緻な振りを一つ一つ確かな技巧で舞った。近年さまざまな芸域に挑戦し続けている成果であろう。和枝は、姉弟子のかづ子と政枝の二人の芸風を中庸でいくような舞ぶりで「千歳の春」をゆったり舞った。
 宗政五十緒氏は「井上流と祇園町」というエッセイを次のように締め括る。
 井上流、祇園町、「都をどり」、この三者の関係は百年を遥か  に越えた今日に至ってもなお継続して緊密である。井上流の三世、四世と続いて、五世の、二十一世紀の時代には新しく更に強く結びついて、ともに繁栄されることを、私もまた希求している者である。(「井上愛子(四世八千代)三回忌追善 京舞」プログラムより)
 今回もまた、「京舞」ファンを取り込みながら、かつ一般層の観客を増やすという番組構成、祇園と井上流側の惜しみない協力。「京舞」公演の成功は、長い歴史の厚味のなかで成功を収めたと言えよう。
(『日本照明家協会雑誌』№597、平成2年3月1日)

■祭礼・神事 舞踊の源を訊ねて
 「浅草」というメインタイトルの付け方がいい。浅草は今も昔も、雷門から仲見世にかけて人がひしめき合っている。そのタイトルに惹かれ、国立劇場第四四回特別企画公演「浅草-祭礼行事と浅草寺の声明―」に足を運んだ(3月2日、国立大劇場)。「観音さまを祀り庶民の信仰を集めてきた浅草寺……三社祭に代表される華やかな祭事……浅草寺の祭事や法会で行われる芸能と仏教音楽を特集」(プログラム「制作のことば」より)した。構成は二部に分かれており、【浅草の祭礼行事】「木遣り」「浅草三社囃子」「浅草神社巫女舞(神前神楽舞「浦安の舞」)「神事びんざさら舞」「白鷺の舞」「金龍の舞」、【浅草寺の声明】「法華八講(五之座・和讃)」。
 それらのうち、「神事びんざさら舞」は三社祭の第一日目に奉納され、獅子舞と田楽舞(びんざさら舞)を一緒に構成した芸能という。なかでも四方を巡る「雌獅子の舞」「雄獅子の舞」に続いて、雌獅子と雄獅子が一緒に巡って夫婦和合を祈願する「つるみの舞」に古式ゆかしい四方固めをみた。また、何と言っても花形は「白鷺の舞」。『浅草寺慶安縁起絵巻』にみられる「鷺舞」は、昭和43年、東京百年の記念行事として復元したもの。周知の通り、この「白鷺の舞」は現代に復元されたものだが、実は振付が藤間友章(作詞は高坂公一、音楽は若山胤雄)。藤間友章は大藤間と尊称される家元藤間流(勘右衞門派)の重鎮で浅草の大師匠であった。日本舞踊の名人・友章によって、隊列を作ったり、輪になったり、羽根を大きく拡げたり、お辞儀をしたり……と風流の拍子(はやし)物風の振りが付けられていたのには感心した。もう一つよく知られた「金龍の舞」は『浅草寺縁起絵巻』にある、天より金鱗の龍が舞い降りて観音様を御守りしたという伝説に基づき、昭和33年、浅草寺御本堂落慶を祈念して創始したもの。久保田万太郎の指導のもと町田嘉章が作曲、藤間友章が振付を担当した。観音様を表す蓮華珠を掲げた一名を先頭に八名の舞い手による勇壮華麗な舞は、当日、客席を練り歩き、観客が大いに湧くうちに第一部の【浅草の祭礼行事】を締めくくった。
 続いて五月には、国立劇場第四五回特別企画公演「言葉~ひびく~身体Ⅰ 神々の残照-伝統と創造のあわいに舞う―」が開催された(5月25日、国立大劇場)。「残照」は夜明けをも予感させる言葉である。日本舞踊、インド古典舞踊、トルコ舞踊、コンテンポラリーダンスの競演から響いてくるものは何か。わくわく感が堪らない。本公演は国立劇場とアーツカウンシル東京との共催で東京芸術祭2019連携事業の一つ。東京2020オリンピック・パラリンピックが契機となっている。「「言葉」と「身体」の持つ力とその本質的な魅力……「神」をキーワードに……舞踊文化の多彩さと奥深さを誇る日本を中心に、海外の舞踊も視野に入れ、ジャンル、地域、文化、伝統の垣根を越えて、「今」に訴える」(プログラム「制作のことば」より)という企図で、企画アドバイザーには舞踊評論家の石井達朗を迎えた。構成は「翁千歳三番叟」「オディッシー」「メヴラーナ旋回舞踊〈セマー〉」「いのちの海の声が聴こえる」。
 序幕の長唄「翁千歳三番叟」は、翁に尾上墨雪、千歳に花柳寿楽、三番叟に若柳吉蔵が扮し、当代において最適な配役となった。江戸後期、歌舞伎の「翁渡し」という儀式が廃れ、その復活の意味で幕末期に作曲された本曲は、原作の能狂言に近い厳粛な雰囲気を持つ。まず、銀屏風を横に組み合わせて松飾りのようなオブジェを飾った背景は伝統を継承しつつ、意匠では伝統を破って意表をつき、墨雪の翁は神妙、寿楽の千歳は爽やか、吉蔵の三番叟は闊達で、シリーズタイトルの如く三人の身体は高らかに響き合った。
 さてまた、神懸りの旋回を代表するのがトルコの「メヴラーナ旋回舞踊〈セマー〉」である。白衣の衣裳を身にまとい、腕を胸前で交差させてから、徐々に腕を円錐形に広げ、左足を軸に静かに回り始める。それを数回繰り返し、今回の所要時間約35分間をほとんど回り続けた。これはイスラムの宗教舞踊で修行の一環とされる。五名のセマーゼン(セマーを行う人)のうち、たまたま終盤で一名が脱落したが、それがかえってリアル感たっぷりとなった。ほかに、インド・オリッサ州に伝わる伝統舞踊「オディッシー」は日本人ダンサーを中心にした上演でインドの神々の陽気さは伝わってくるものだったが、かつて筆者がインド・リシュケシュのフェスティバルで観て感動し、その後日本へ招聘して本学で上演した「オディッシー」の原型であるマハリ(オリッサ州の寺院に所属した巫女で、神々の前で歌い舞う女性)の舞踊とは身体の響きが異なっていた。この舞踊に限らず、やはり現地の舞踊家に優るものはなかろう。最後を飾った「いのちの海の声が聴こえる」は『古事記』を題材にした、総勢五十名による壮大なダンス絵巻であった(近藤良平、酒井はな、黒田育世、笠井叡ほか演)。舞踏の笠井叡が構成・演出・振付をした、オイリュトミーを取り入れたコンテンポラリーダンスで本公演が新作初演となった。
 これらの公演は結局のところ舞踊の源流を訊ねるものと言えるが、根源の舞踊のダイナミックさに充足感を覚え、観客は手ごたえを感じたことだろう。舞踊のもつ神秘さ、荘厳さ、堅固さ……を再確認した二公演であった。
(『日本照明家協会雑誌』№589、平成31年7月1日)


□心より心に伝ふる花 伝統とは
 近頃、伝統という現象が一般に浸透している。東京では、2020年7月開催の東京オリンピック・パラリンピックを控え、戦略的に日本の伝統を都民に意識させるように仕向けられているようだ。昨年7月22日には全国の小学生の投票で決まった大会マスコットがデビューした。伝統的な市松模様をモチーフに紺と白の配色が「ミライトワ」、桃色の花びらと白が「ソメイティ」。「ミライトワ」は未来と永遠の連語だとすぐに連想されるが、「永遠」を「とわ」と詠ませた大和ことばの響きが心地よい。「ソメイティ」は日本の国家・桜を象徴する染井吉野に「so mighty」(非常に力強い)を組み合わせた名前だ。
 続いて、7月31日には東京2020大会開会式・閉会式のチーフ・エグゼクティブ・クリエーティブ・ディレクターに狂言師野村萬斎氏が任命され、「復興オリンピック・パラリンピックの名に恥じないよう、シンプルかつ和の精神に富んだオリンピック・パラリンピックになるよう全力を尽くしたい。」と萬斎氏は語った。「シンプルかつ和の精神」というコメントにかつてブルーノ・タウトが称賛した桂離宮を代表とする日本の伝統美への志向が集約されているに違いない。
 長々と前おきを述べたが、「伝統」とは一体、何なのだろうか。その答えはむずかしい。メディアで取り上げる「伝統」、学術的な議論の対象となる「伝統」…。レベルは一様でないが、ここでは日本舞踊の伝統について考えてみたい。筆者は「日本舞踊というのは感性や印象だけで論じる性質のものではなく、と同時に一朝一夕で人に感動を与える舞台も生まれるものでもなく、年月をかけて本物を養い、育てる社会である。そういう(批評の)眼や芸を根幹にしてこそ現代に生きる日本舞踊が生まれよう。」という信念を抱いている。それを規準に、昨年の舞台のなかで印象として残った作品を振り返ってみたい。
 まず「扇の寺」(日本舞踊協会公演、2018年2月18日、国立劇場大劇場)。能の「班女」を素材にした二世花柳壽楽の代表的な新作。初演は昭和56年の「花柳壽楽発表会」。同じく能の「綾の鼓」と「恋の重荷」を素材にした壽楽作品の代表作「かたゐの女御」の再演とともに「扇の寺」は発表された(海津勝一郎作、杵屋巳太郎作曲、堅田喜三久作調、有賀二郎美術、玄葉栄一照明)。今思うと、何とも贅沢なプログラムだった。今回は、初演に二世壽楽が演じた東国の白拍子役を二代目吾妻徳穂、笛吹く男役を三世寿楽が勤めた。二世壽楽は紋付袴で白拍子役を上品ななかに華やかさを漂わせ、白拍子の情念のきめ細やかな表現が素晴らしかった。二代目徳穂の白拍子役は劇的で能「班女」の本質に迫る濃厚さは抜群だった。その白拍子の憂愁を三世寿楽はしっかりと受け止め、記憶に刻印される舞台となった。次回はぜひ当代の寿楽による白拍子役へのチャレンジを待ち望みたい。一昨年に上演された名作「日追の径」(日本舞踊協会公演)、昨年の国立劇場主催素踊りの会における初代吾妻徳穂の傑作「時雨西行」と続けて、徳穂と寿楽は祖母や祖父によって生み出された日本舞踊を今日に蘇らせている。今後、徳穂・寿楽コンビに大いに期待する。
 また、同じ日本舞踊協会公演における義太夫の「万歳」(二世花柳壽應振付)。演者は二代目中村梅彌と五世花柳壽輔。梅彌は平成26年のリサイタル中村梅彌の会で「萬歳」(二世藤間勘祖振付)を上演し高い評価を得た。メリハリのある切れの良い動きに加え、筆者と同席した元プリマ・バレリーナは「目が効いているのでプロの演技だ!」と感嘆した。目が効くことは集中力があることだ。その梅彌の女万歳に今回は若き五世壽輔が胸を借り、姉弟コンビのようなフレッシュな「万歳」が展開された。筆者の知る限りでは、現在、梅彌のもとには若手が稽古を付けてもらっている。それだけ梅彌に古典の技術への定評があるのは、歌舞伎名優で踊りの名手であった七世中村芝翫を父に持ち、父からしっかりと古典の心得を受け継いだからにほかならない。五世壽輔も祖父である日本舞踊界の巨匠・二世壽應から、今きびしい薫育を受けている。将来が楽しみな人材として育って欲しい。
 舞では五世井上八千代の「由縁の月」(国立劇場主催舞の会、11月23日、国立劇場小劇場)が忘れられない。五世八千代の舞は前名の井上三千子の時から幾度となく拝見してきているが、「由縁の月」では淡い藤色の暈しで上方で言うところの“ぼんじゃり”とした柔和でふくよかな姿にはっと驚いた。井上流にはなかった「由縁の月」だったが、五世八千代が新しく振りを付け、振りには男と女の二通りがあり、今回初めて女の振りを披露した。その意気込みが感じられた舞台であった。数年前、五世八千代は『京舞つれづれ』を出版した。その随筆は彼女の半生が綴られており、井上流代々の確固たる伝承の証が示されている。たとえば四世井上八千代の代表作「長刀八島」。五世も幾度も舞っている。その「長刀八島」について、五世の長女井上安寿子が初めて舞うために祖父片山幽雪は釣竿を作ってやったりしたそうだ。そのエピソードには、親から子へ、そして孫への愛情に支えられた舞の継承の姿がみられる。
 世阿弥は奥義に云う。「その風を得て、心より心に伝ふる花なれば、風姿花伝と名づく。」(『風姿花伝』)と。この一文は奥義篇の序文にあたる部分の締めとなる。世阿弥は当時の能に強い危機意識を持っていた。「当時の能楽師の稽古はいい加減で本芸以外のことばかりに精を出し、一時的な名声や利得に目がくらみ、本芸を忘れて伝統を見失ってしまう有様で、能の道が廃絶の時に至ったものか」と世阿弥は嘆かわしく思う。「能の芸は、古来の伝統を受け継ぐとは言っても、自分で工夫した演技もあるので一つ一つについては説明しきれない。すなわち、正しい伝統(風)を踏まえつつ、言葉では伝えきれない部分までも、心から心へと伝える、芸の真髄の花であるから、本書を『風姿花伝』と名付けたのである。」と締めくくる。(現代語訳は竹本幹夫訳注『風姿花伝・三道』参照)。
 この一文はそのまま、今日の日本舞踊界への警鐘の音のように聞こえることばとなるのだろう。
(『日本照明家協会雑誌』№585、平成31年3月1日)


■新スタート 古典芸能を未来へ
 NHKエンタープライズと「芸の真髄」制作委員会が主催した「芸の真髄シリーズ」公演は平成19年にスタートし、これまでに11回の上演を続け、今年から「古典芸能を未来へ~至高の芸と継承者~」の公演名で新たなスタートを切った。古典芸能にとって最も大切なことは芸の継承である、という制作側の熱い思いが込められている。平成から新元号の時代へ移ろうとしている今、まさしく時宜に適った企画と言えよう。
 「芸の真髄シリーズ」は超豪華な公演であった。第一回「闘う三味線 人間国宝に挑む 鶴澤清治」、第二回「長唄 伝える心 受け継ぐ力 杵屋勝三郎 杵屋勝国」、第三回「一世一代 舞踊の粋 藤間紫 花柳壽輔」、第四回「清元 清き流れ ひと元に 清元延寿太夫 清元梅吉」、第五回「京のみやび 京舞と一管の調べ 井上八千代 藤舎名生」、第六回「江戸ゆかりの家の芸 坂東三津五郎」、第七回「江戸ゆかりの家の芸 成田屋」、第八回「山城屋 坂田藤十郎」、第九回「女舞 雪月花」、第十回「能狂言の名人 幽玄の花」、第十一回「筝曲」。人間国宝や実力者に加え、人気俳優で彩られた「芸の真髄シリーズ」は古典芸能のレジェンドたちの競演で、毎回、話題が豊富であった。
 なかでも、第四回「清元 清き流れ ひと元に」は清元流宗家と清元流家元が88年振りに同じ山台で演奏し、日本音楽史上、画期的な出来事となった。宗家は清元延寿太夫(七世)でその一派を高輪派(延寿派)と呼び、家元は清元梅吉(四世)でその一派を梅吉派(赤坂派)と呼ぶ。浄瑠璃の一つのジャンルである清元節は文化11年に富本節から分派して初世延寿太夫が創始したが、五世延寿太夫の立三味線であった三世梅吉(後の二世寿兵衛)が大正11年に清元流を樹立し、今日まで至るという次第。
 もう一つ、日本舞踊史上、トピックスとなった公演もあった。第三回「一世一代 舞踊の粋 藤間紫 花柳壽輔」では、当時78歳の四世花柳壽輔(現二世花柳壽應)が大曲「黒塚」を16年ぶりに6回目の挑戦!ということに大きな注目を集めたほか、女優としても幅広く活躍する藤間紫との顔合わせも企画の目玉となった。ところが、本番の一ヶ月前に紫が急逝し、その代役として当代一の歌舞伎女方の坂東玉三郎が出演、「隅田川」の班女の前を務めたという思いがけない展開となった。
 さてまた、「芸の真髄」制作委員会のメンバーも超豪華であった。初期には、元NHK会長の川口幹夫、前日本舞踊協会会長の犬丸直、作家の下重暁子、元実践女子大学教授の田中英機、元松尾芸能振興財団理事長の松尾昌出子、エッセイストの山川静夫ら。今回は、元NHK会長の福地茂雄、日本画家の千住博、歌人の馬場あき子、エッセイストの山川静夫、当道音楽会理事長の駒井邦夫。各方面のオーソリティーであり、古典芸能に見識の高い人たちである(制作統括 原正隆)。
 前おきが長くなったが、新企画の1回目は日本舞踊の尾上流を取り上げた。尾上流は六代目尾上菊五郎が初代家元・宗家となり、門弟の尾上琴次郎に「初代尾上菊之丞」を名乗らせて二代家元とした戦後生まれの流派だが、今や隆盛の極み。家元は尾上墨雪(二代目菊之丞)から引き継いだ三代目尾上菊之丞、三代宗家は七代目尾上菊五郎で、その後継に五代目尾上菊之助がいる。すでに周知のとおり、尾上流は歌舞伎の名門中の名門である音羽屋 尾上家の名優が宗家に就いている。今回、その尾上流の宗家筋と家元筋の顔ぶれが揃い踏みで出演したのであるから、舞台の魅力が堪らない、のは言うまでもない。前売り開始まもなく切符はほぼ完売と聞く。
 それを象徴するのが大トリの新作舞踊劇「斧琴菊旭旗【ルビ:よきこときくげんじのはたあげ】」(尾上菊五郎監修、今井豊茂作、三代尾上菊之丞演出・振付、藤舎貴生作曲)。鞍馬の大天狗に菊五郎、常盤御前に菊之助、牛若に寺嶋和史(菊之助令息)、乙若に羽鳥以知子(菊之丞令嬢)、今若に寺嶋眞秀(寺島しのぶ令息)、源義朝に菊之丞ほか。雪の山中、花道から登場した、三人の幼子を慈しむ菊之助の常盤が何とも美しい。続いて舞台に目を移すと、正面上手側に長唄連中、下手側に囃子連中が居並び、各シーンごとに冬の雪持ち松、春の桜、夏の若葉を描いた背景がスペクタクル的に変化する(舞台美術 金井勇一郎)。幼子たちは雪の精に連れ去られてしまうが、最後に大石段と朱の大鳥居に大天狗と幼子三人が出現し、大天狗は源氏の旗揚げまで三人を守護することを誓う。常盤と義朝との恋物語の回想、金売り吉次(尾上菊紫郎)との「賎機帯」もどきの物狂い、烏天狗(舞踊集団菊の会)の群舞など、源氏の運命を左右する歴史的な出来事を夢とロマンに満ちた舞踊劇で描く、久々の大作となった。
 ほかに菊之助・菊之丞の「式三番」は初演にもまして息の合った闊達さをみせ、尾上右近・紫・京の「松の調」は踊りのハーモニーを心地よく奏で、尾上菊保・菊見と先斗町芸妓(尾上菊千枝・きく)と新橋芸妓(尾上菊志保・菊應)による「芝居小曲集」は各振付演出に工夫がみられた。そして、新橋と先斗町の芸妓衆10人と墨雪による「雨の四季」は四季の雨の情景を鮮やかに繰り広げた。(以上、照明プラン 北寄﨑嵩)
 最近、日本舞踊を稽古する子供がめっきり減少して困った、とよく耳にする。日本舞踊を習う子供がいなくなったということは、将来、それを担う人材が育ってこないということにつながる。そこで、垣根を低くしたいという発想から、普及活動を行う舞踊家が増えた。それも将来を懸念しての一つの策であろう。しかし、それでは、次の世代へは「芸の真髄」は決して継承されていかないと私は思っている。本公演プログラムに寄せられた、「芸の真髄」制作委員会委員長 福地茂雄氏の言葉を借りて、本稿を締めくくろう。
  長年、研鑽を積み身につけた芸を次の世代へ受け渡し、そして次の世代は、  芸を引き継ぎ、彼らの時代にあったものにその芸を生かしていく。そうした  繰り返しが古典芸能の芸を未来へつないでいくことです。
(『日本照明家協会雑誌』№581、平成30年11月1日)


□観客と向き合う 素踊りの会
 「素踊り」って、はて何だろう? どのように鑑賞すればいいの?
 本衣裳を着ず、小道具も持たず扇だけ、装置も屏風だけで踊る…。その味わいは見巧者だけに通じるものであろうか。エンターテインメント流行の今日、「素踊り」はあまりにもシンプルな舞台表現と言える。
 ところが、先ごろ開催された「国立劇場第一五七回舞踊公演 素踊りの会」(3月17日、国立劇場小劇場)はそういう懸念を見事に払拭した公演だった。午後一時開演と午後四時開演の2回公演で番組は、午後一時の部が常磐津『俳諧師』(坂東三津映)、長唄『時雨西行』(吾妻徳穂、花柳寿楽)、長唄『新曲浦島』(花柳寿美)、清元『玉屋』(西川扇藏)、午後四時の部が東明『梅』(中村梅彌)、清元『吉原雀』(若柳吉蔵、若柳吉金吾)、清元『長生』(藤間勘左)、長唄『二人椀久』(尾上墨雪、尾上紫)。そして、それぞれの序幕に対談『素踊りの魅力』(午後一時の部に花柳壽應、午後四時の部に尾上墨雪。聞き手はいずれも筆者)があった。「素踊りの会」での対談は初の試みだったが、両巨匠がご自身の長い経験に基づいて話され、素踊りならではの舞台をより深く観客に楽しんでもらいたいという狙いは成功した。
 「素踊り」と一言で言っても、今日では幅の広い解釈がみられる。歴史的には、江戸時代、「必ず素踊りで踊る」というのが振付師の心得の一つにあった。「素踊り」とは舞踊の技術だけで表現しなくてはならず、「素踊りは日本舞踊家の原点」と言われる所以となっている。今回は、素踊りの本道である御祝儀物の『長生』、歌舞伎舞踊の素踊り化の『俳諧師』『玉屋』『吉原雀』『二人椀久』、近代に生まれた素踊り作品『時雨西行』『新曲浦島』『梅』という、古典中心の名作の数々が披露され、格調の高さ、江戸の洒脱さ、流麗な舞踊美など見巧者のみならず舞踊鑑賞の初心者にも充実感を与えたようだった。
 とりわけ『時雨西行』は隙のない振付・演出と力感満ちた舞踊演技が圧巻であった。物語性の濃い『時雨西行』を「素踊りの会」で上演したのも今回の特色。そもそも『時雨西行』の舞踊化は、初代吾妻徳穂と振付の藤間万三哉が二人の再起をかけ、日本舞踊の新しい表現方法を模索した結果、素踊りという形式で昭和十四年に発表したのが初めて。吾妻流に縁ある作品で、終盤、遊女江口の君が菩薩に変身を遂げ、西行法師を悟りに到達させようとする力が備わってから、江口の君役の徳穂と西行役の寿楽は迫力充分であった。
 今回の「素踊りの会」の、もう一つの目玉は『二人椀久』の素踊り化であった。『二人椀久』は初代尾上菊之丞が振付して復活、昭和二十六年には初代菊之丞が初代徳穂と共演して大好評を博した。瀟洒な衣裳に繊細な演技表現、シャープでモダンな振付・演出がなされ、今日も人気曲として新鮮。その素踊り化ということで注目が集まった。尾上流は初代菊之丞から代々、素踊りによる新作発表でも定評あるところ。ことに墨雪は先般『松羽衣』の羽衣を二枚扇で表現する斬新な振付を試みた。今回は、椀久役の墨雪は細やかな心理描写が巧みで、傾城松山役の紫は貞女の心をみせて瞬間瞬間の印象が鮮やかであった。
 『時雨西行』の江口の君、『二人椀久』の松山のように素踊り形式でありながら、女性が白塗りすることに違和感を覚えた観客もいるだろう。しかし、大正から昭和にかけて日本画家はこぞって女性舞踊家の美しくも凛とした踊り姿を描いた。当時、ようやく舞台活動が活発になって、女性舞踊家はさらに女性美を追求した。その到達点の一つが白塗りという化粧法だと思う。近代化の流れに沿った進化の形が女性役の白塗りであるとすれば、それも伝統の所産の一つとして今後も受け継ぐべきだろう。
 さて、「素踊り」とは稽古場にて紋付き袴で踊っても素踊りとは言えないが、それを素踊りと呼べるところまで引き上げるにはどうしたらよいのか?という質問を抱いた学生がいた。その答えとして肝要なのは、素踊りでも心がなくてはいけないという一点に尽きようが、今回の人間国宝・西川扇藏の「玉屋」がそれを証明した。名人の踊りは観客をいい気持ちにさせるものである。舞踊鑑賞の初心者は、扇藏の踊る「玉屋」の姿に無の境地を感じ取り、「とても面白かった!」と絶賛していた。
 「素踊り」は決して見巧者だけのものではなく、また、つまらないものでもない。「日本舞踊家の原点」とされるほど、日頃の精進の積み重ねが大事なのである。世阿弥は「稽古は強かれ、情識はなかれ」(稽古は徹底して行うべきで、慢心による争いの心は持ってはならない)と『風姿花伝』に言う。日本舞踊にもまさしく通じる言葉であり、それを実践してきてこそ素踊りに面白さが備わってくるというものである。
(『日本照明家協会雑誌』№577、平成30年7月1日)


■京の祇園をどり 映像の挑戦
 京都には五つの花街の舞踊公演が、春に、秋に、と華やかに開催される。それは江戸後期、鴨川の東岸にある祇園の四季おりおりの風物を、当時の粋人としても知られた文人・中島棕隠が『鴨東四時雑詞』に漢文で詠んだ賑わいそのものの繁栄ぶりを今も見せている。春には祇園甲部の「都をどり」、先斗町の「鴨川をどり」、上七軒の「北野をどり」、宮川町の「京おどり」があり、秋には唯一、祇園東で「祇園をどり」が行われている。
 今秋、その「祇園をどり」は第六十回記念を迎えた(平成29年11月1日~10日、祇園会館、筆者は11月1日に披見)。各花街の見番(検番)にはそれぞれ舞踊の師匠が専属となって毎月、芸妓・舞妓に稽古をつけているが、祇園東は長年、藤間流重鎮で最長老の藤間紋寿郎が勤めており、数年前より娘の藤間紋が加わった。祇園東歌舞会の企画による「祇園をどり」の振付演出も二人の担当である(振付補 藤間紋之助)。作曲には清元菊輔と杵屋勝禄、作調には藤舎名生と中村寿鶴という、人気と実力を兼ね備えた中堅・ベテランの邦楽陣が担当。その顔ぶれを見ただけでも、舞台の水準の高さは想像できよう。
 今回は第六十回記念ということもあり、ロビーには「祇園をどり いまむかし」と題して昔の白黒写真十数葉が展示されていた。茶席で点前をする芸妓、祇園をどりの総踊り、芸妓を乗せた宣伝カー(車)、祇園会館の玄関、着色したポスターなど昭和前期頃の面影を偲ぶことができる。かつて祇園東には、遊女歌舞伎を代表する<佐渡島>の流れを汲む、舞踊の名門・佐渡島流が入っていた。今日、祇園東の舞踊が古格を守り、上品な情趣を醸しているのは紋寿郎・紋父娘の芸風によるものでもあるのだが、祇園東の基底には江戸期の伝統が今でも受け継がれているのかもしれない。
 さて、序幕は記念番組の『祝舞 三番叟』(雛菊・つね桃・美晴・涼香)。片シャギリで幕が開くと、松羽目を背景に五つ紋の黒の裾引きに帯を一文字に締めた正装姿の芸妓四人がそれぞれ笛(一管)・小鼓(二丁)・大鼓(一丁)を囃し始める。#おおさえ おさえ」から#朝の花の富貴草」まで囃すと楽器を置き、#女郎花 宵の約束」から踊る。そして、#おさまる御代こそ 祝しけれ」で再びそれぞれ楽器を持って板付で幕となる。京の花街らしい洒落た演出によって、会場内は寿いだ気分が横溢した。
 続いて、雪月花をベースにした『雪月花東山風情』(脚本・構成 塩田律)が六景で綴られる。スムーズな舞台転換で六景が変わり、観客の関心を舞台からそらさない演出は見事。「第一景 白川の鷺」(鷺の精=つね有、鷺=富多愛・満彩希)は古典の『鷺娘』の趣向を借りた情景で、橋の欄干近くに雪柳が立つ川畔。恋に悩んで佇む女人の板付で始まり、途中二羽の鷺が出て、最後は女人も引き抜いて鷺の精となる。道具転換は上から背景画が降り、東山如意ケ嶽の「大文字」に半月を望む納涼床となって「第二景 夏の月」(芸妓=つね和、舞妓=富津愈・叶紘・雛佑)。下手より芸妓役のつね和が出て#打ち水に」から淑やかに踊り、#鴨川や」で横座りになると#三十六峯 暮れはてて」と『魂まつり』の風情となる。続いて、舞妓三人が下手から出るといつしか「大」の字に明かりが灯り、#山の送り火」ではさらに夕景となり影が映し出される。つなぎには、舞妓から渡された手紙に芸妓は心に火を燃やすように主を慕って下手へ入っていく。「第三景 双龍」(白龍=まりこ、青龍=満彩美)は『龍虎』の趣向。背景画が観音開きにガラリと変わって、満月にダイナミックな雲を描いた天上。#蒼き世界」で二匹の龍がセリとスッポンから登場し、打ち杖を持って豪壮に戦ったあと、#神の恵みと」で青龍は花道のスッポンに消え、舞台には満月に伯龍をシルエットで写し出す。
 すると--、舞台いっぱいに映像が映し出される。桜のつぼみが膨らみ、満開の桜になるや否や筝曲に合わせて花びらが舞い散ると、下からリボンが上がってきて背景画にかぶってくる。そして、紗幕が上がって、「第四景 八坂の桜」(花見の娘=雛菊・つね桃・美晴・涼香)。柝のチョンの音で桜の枝を持った娘四人が出たあと二人ずつに分かれ花軍の戯れを麗しく踊り、#花も恥じらう 宴かな」で下手に入ると、「第五景 東山春秋」(富津愈・叶紘・雛佑・満彩野・叶朋)。彩色鮮やかな雪輪の背景画に変り、上手・下手・花道から五人の舞妓が出て可憐な踊りをみせる。舞妓が上手・下手へ別れて入ると暗転になり、鉦の音がカンカンカンと鳴り響く。大喜利は柝のチョンを合図に明るくなり(チョンパ)、真っ赤な紅葉を背景に全員勢ぞろいの「第六景 祇園東小唄」でフィナーレ。最後は全員お辞儀にキザミが打たれ幕となると、京情緒たっぷりの「祇園をどり」を満喫した観客らでロビー、玄関は溢れ返った(以上、美術は川面美術研究所)。
 今回は六十回記念であるとともに新しい試みがみられた。それは、映像を導入することで桜の花びらが散る映像が舞台装置にどのようにかぶっていくかが挑戦であったという。筆者は円山公園の枝垂れ桜の下にでもいるような臨場感に浸ることができた。映像製作は(株)K3企画 河合久光。
先だって、第44回NHK古典芸能鑑賞会(平成29年10月28日、NHKホール)「第一部 月に舞う 空に奏でる」においても映像が活用されていた。番組は舞囃子(観世流)「融」、琉球舞踊「諸屯」、文楽「関寺小町」、長唄「二人椀久」。朧月に夜の松、天の川に砂子、下弦の月に薄野、枝垂れ桜と松に煌々と照る月、とバーチャルとリアルのシンクロ効果によって観客は舞台との距離間がグッと縮まっていくのは間違いない。近年、建物や舞台に映像を投射するプロジェクションマッピングという手法が確立されつつある。若い世代や外国の方々に伝統芸能の舞台をより身近に感じてもらうためには映像の力は大いに役立つであろう。コンテンポラリーダンスにみられる映像とのコラボレーションとはまた違った意味付けが映像の力にあるはずだ。
(『日本照明家協会雑誌』№573、平成30年3月1日)

□尾上流の能取物 伝統は革命
 近年、能楽堂を利用した意欲的な日本舞踊の舞台が印象に残る。数年前だが、国立能楽堂が古典の日記念<雪景色>をテーマに企画公演を行った(2014年10月31日)。新作小舞「雪づくし」(野村万作)・「雪逍遥」(山本東次郎)、金剛流のみに伝承される「雪‐雪踏之拍子‐」(シテ/雪の精 金剛永謹、ワキ/旅僧 宝生閑)とともに上演されたのは舞踊「鉢の木」(時頼 西川箕乃助、常世 花柳寿楽)。山勢松韻が奏でる筝曲に合わせた洒落た一番だった。今年4月にオープンしたGINZA SIXにある観世能楽堂では、銀座花鏡が提供する「にっぽんの舞踊 能取り物の世界」(7月11日)が開催された。「鐘の岬」(藤間藤太郎)、「熊野」(尾上墨雪・水木佑歌)の贅沢な二番立てで能楽堂の雰囲気にふさわしく、上品で高尚な素の世界を醸していた。「鐘の岬」の藤太郎は半素の形で白の衣裳による優艶な踊りぶり、「熊野」(初代尾上菊之丞振付)の初演は一人立ちであったのを新橋芸者のために二人立ちにしたもの。宗盛の夢の中で熊野が出てくるという趣向で、墨雪は平家の公達としての品格を失わず傲慢な宗盛を好演、小豆色の衣裳の佑歌の熊野は翳りがあって美しい。ゲストに織田紘二(国立劇場顧問、公益社団法人日本舞踊協会副会長)、土屋恵一郎(明治大学学長、観世文庫理事)を迎え、葛西聖司の司会によるトークショーも自然体な流れで肩肘張らずに楽しめた。
 いっぽう、能楽堂をホームグラウンドの一つとして活用する舞踊家もいる。その一人が、その墨雪である。昨年3月23日、一中節の都一中と二人の会を持ち、渋谷のセルリアン能楽堂で「道成寺」を上演したばかり。今年は、笛の藤舎名生と「名墨の会」をスタートさせた(7月2日、セルリアン能楽堂)。一舞一管「猩々」は揚幕より名生が出て橋がかりを通って地謡座に。静かな笛の音につれ、揚幕より猩々(墨雪)が出て二の松で立ち止まる。すると澄み切った月下の世界が拡がり、所々猩々の型を織り込みながらも全体として抽象的な舞を繰り広げた。一舞一管「鐘」は、初演は確か冬夏会だったと記憶するが、舞台正中に座した名生を鐘(=安珍)に見立てたところに面白さがある。揚幕から墨雪(清姫の怨霊)が出て、一の松で鐘を見込んでから正中へ。鎌首をもたげるように名生の後ろへ回り、墨雪が鐘に触れようとすると名生はヒーッと激しく笛を吹く。墨雪はもだえ、扇を打杖代わりに打つと、名生はヒッヒッヒッと小刻みに笛を吹きながら膝をトントントンと叩き鳴らしたかと思うと、墨雪は右袂を担いで一気に極る。名生のパフォーマンスには定評があり、過去には初代吾妻徳穂、最近ではコンテンポラリーダンスの森山開次との競演で迫真の演技をみせている。ほかに名生の一管「鶴」、澄んだ音色に心が洗われる。
 墨雪は今日の日本舞踊界を牽引する舞踊家の一人でもあり、現家元の三代目菊之丞とともに9月には一門の尾上会を国立劇場大劇場で開催した(9月1・2日)。公演プログラムに、墨雪は「……尾上流は初代家元以来野暮を嫌い洗練を大切に、それこそを身上とした流儀です。初代も二代も珍しいこと、最先端にすぐ手を出しました。私は『伝統は革命』の精神を忘れてはいけないと思います。……」と挨拶文を寄せている。短文なので、筆者には『革命』の真意がよくわからないが、言い表そうとする意図は理解できる。
 数ある演目のなかで、今回は能取物の斬新さが筆者を痛快な気分にさせた。初日の一中「松羽衣」は伯龍に墨雪、天女に尾上紫。伯龍は天女より一枚上の舞踊家が勤め、伯龍が良くないとだめだと言われるものだが、その通り、理想的な「松羽衣」であった。しかも、天女の舞から伯龍はワキとしての分を守りつつ、定式は長絹で見立てる羽衣を今回は二枚扇で見立てた。振付者(墨雪)の意識の高さから、素の演出ながら清純な羽衣の世界が万遍なく行き渡った。
 父・墨雪ばかりではない。子・菊之丞の一中「道成寺」はさらに意表を突く。振りは初代菊之丞振付であるから、てっきり昨年観た墨雪の「道成寺」だとばかり予想していたのだったが(本誌№553参照)、まったく別世界に仕立てられていた。舞台には高低差のある円柱が10本程乱立し、遠目には粒餡にうっすら薄焼きの皮をかぶせたきんつばのような風合いの枕屏風様のものが数隻無造作に置かれている。一瞬、それは道成寺の世界とは結びつかない。ところが、#竜頭に手をかけ」でシテ(清姫の怨霊)が激しく足拍子を踏み、#飛ぶぞと見えしが……」の鐘入りでは一瞬で照明が絞られ、シテがセリ下がって行くのをフォロースポットライトで見せ、#東方に降三世明王」からゆっくりした照明変化で灯が点ると、それらが和紙で拵えた行灯になっていたことがわかる。そして、#あれ見よ蛇体は」でシテを隠した唐織がセリ上がり、それに合わせて照明変化、さらに円柱の色彩も変化。後シテはその唐織を腰巻にし、立ち向かうが祈り伏せられ、#猛火となって」で花道七三にて跪き舞台を振り返ったあと、立ち上がって頭上に掲げた扇を返して揚幕へと入る。(松野潤装置・北寄﨑嵩照明)
 大喜利は、稲荷明神に歌舞伎俳優の尾上菊之助を迎えての、義太夫「小鍛冶」(墨雪・菊之丞振付)。菊之丞は三条宗近である。「道成寺」の装置は森閑とした宗近の神聖な鍛冶場と化し、素の演出による「小鍛冶」は神々しい雰囲気に包まれ、秀逸を極めた。
 尾上流は、照明に北寄﨑嵩、装置に故・朝倉摂、その門下の松野潤、音響に高橋嘉市、演奏に今藤政太郎(今回長唄監修)……という、舞台創りに最善を尽くすことを厭わない気質の顔ぶれをブレーンとしている。日本舞踊を芸術性の高い舞台芸術として捉え、次々と実現していく姿勢はすばらしい。今回は能取物の「伝統は革命」という観点から「松羽衣」「道成寺」「小鍛冶」を取り上げたが、他にも荻江「山姥」(菊見)、荻江「八島」(菊紫郎)、義太夫「珠取海士」(きく)、長唄「静と知盛」(吟)……。興味の尽きない能取物がいっぱい。今も進化を続ける尾上流、未来は耀きに満ちていよう。
(『日本照明家協会雑誌』№569、平成29年11月1日)

■日本舞踊と琉球舞踊 粋と美ら
 国立劇場開場50周年記念の一連の公演は、今年3月25・26日の「舞踊名作鑑賞会」(国立劇場小劇場)で賑々しく最後を締めくくった(翌27日に大劇場では三月歌舞伎公演の千秋楽を迎えた)。舞踊をはじめ歌舞伎や文楽など各部門が企画した記念公演が好評を博したことは、偏に劇場側が一丸となって取り組んだ成果であろう。この「舞踊名作鑑賞会」は、本来は「素踊りの会」という、日本舞踊の原点とも言える”素踊り”(本衣裳を着けない上演様式)に着目して一流の舞踊家を集結した公演に代わるもので、今回は衣裳付きの演目も取り入れた彩り豊かな番組となった。2日間3回公演で15演目を上演、素踊りは12演目(うち半素3演目)、衣裳付きは3演目であった。
 それらのうち、何と言っても西川扇藏の『猿舞』は一人立ながらも舞台は栄え、自然な踊り口のなかにも武士のキリッとした性根、また奴としての砕けた様子が絶妙。『猿舞』は奴姿の此下兵吉(秀吉)が小田春永(信長)の御前で大勢の奴を相手に槍の手を試されるという設定。扇藏は現代の日本舞踊の名人の一人だが、近年ますます彼の舞台を見るにつけ、筆者は日本舞踊(歌舞伎)最古の伝書『舞曲扇林』に説かれた名人芸に関する記述(1660年頃執筆と推定)と合致することに驚く。その伝書は舞踊の身体の基礎は腰にあることを初めて力説し、十五条に「柔らかに雅やかに舞って成果を出す」、十六条に「舞踊は武道の勢いに通じる」と、要約するとこのように説いている。扇藏の踊りには勢いがあり、まるで『舞曲扇林』の巧みの技を目のあたりに見るようでもあるのだ。
 もう一人の名人、花柳寿南海は『黒髪』を披露した。昨年5月の「木の花會」での伝説的な舞台の再現で、鬘桶に終始腰かけたまま、#黒髪の結ぼれたる」で嫉妬に狂おしさの増す情念を女は扇でなぞらえた鏡に投影し、#積もる白雪」で女は再び開いた扇に悟りの澄んだ心を映しながら右の人差し指では虚空を指して終わる…とすべての人が酔いしれていた。昔、寿南海は遠山静雄氏から「90歳になったら鐘の下で座布団に座ったまま『道成寺』を踊ったらいいよ。動かないのが日本舞踊の最高の境地だからね…」というような話を聞かれたそうだが、90歳を優に超え、まさにその境地を実現したことは驚異でさえある。
 今回は、角界の”ふたり横綱”ならぬ歌舞伎舞踊の”ふたり人間国宝”の至芸に加え、尾上墨雪らの『綱館』は大曲としての格が備えられ、『菊慈童』『柏の若葉』など明快で風情ある振りが付けられ、演者に記念公演としての意識の高さを窺わせた。そういう素踊りの中に、桜の絵(後藤芳世美術)を背景に桜模様の黒の衣裳を半素(半衣裳)の形にした『道成寺』の華やかな演目が入ると、パッとした美しさが際立つ。藤間藤太郎の一中節『道成寺』はかつてリサイタルで初演し、高い評価を得ている。都派の一中節を伴奏にして艶やかさが醸し出され、住僧と寺守の演出にも細やかさがみられた。
 「舞踊名作鑑賞会」は日本舞踊の粋(すい)を極めた公演だが、そればかりではなく、一連の記念公演には道成寺物を嵌める趣向が凝らされていた。それだけ道成寺物は日本の伝統芸能の最大、かつ人気のテーマ。1月の民俗芸能公演の早池峰神楽の『鐘巻』、壬生狂言の『道成寺』然り。そして、「舞踊名作鑑賞会」に先立つ3月4・5日には、琉球芸能公演「組踊「執心鐘入」と琉球舞踊」(国立劇場小劇場)の開催もあった。筆者が国立劇場の琉球芸能公演を見たのは「組踊と雑踊」(昭和49年1月)からで、それらは所々ではあるが鮮烈な印象を残している。
 その後、『執心鐘入』は幾度となく鑑賞し、宮城能鳳が宿の女に扮したのは平成11年5月開催の国立劇場主催「道成寺の舞踊」が早い。今回は組踊の人間国宝である能鳳が『執心鐘入』を両日上演したほか、古典舞踊、雑踊、創作舞踊の琉球舞踊の美(ちゅ)らが両日にわたって披露された。能鳳の『執心鐘入』については石川県立音楽堂五周年記念事業「道成寺の舞踊」(平成18年3月)所演のを詳述したので、今回はそれに譲る(本誌№459、平成20年9月1日号)。若松役はいずれも東江裕吉。
 さて、志田房子による『歌声の響』は、昭和50年に沖縄を来訪された天皇陛下(当時皇太子殿下)と皇后陛下(当時皇太子妃殿下)が愛楽園もお訪ねになった折、在園者の人たちが民謡「だんじょかれよし」を手拍子し、合掌した光景をお心に留められ、後に天皇陛下がお詠みになられた御製の琉歌に皇后陛下が御作曲になられた御作。一昨年の「琉球舞踊 真木の会」では合奏のみが披露され、その御作の気高さは衆目を集めたばかり。今回は東宮御所で披露された舞踊を初めて公開したのだが、作舞は志田で振りには国民の前で手を結ばれる皇后様の御様子を移され、胸の前で手を合わせたり、手拍子のような仕草もみられる。両陛下の国民に対するお気持ちを伝えることができたら、と祈りを込めて志田の舞う姿と心は美(ちゅ)らであり、また清(ちゅ)ら。
 偶然にも、その前日の朝日新聞の夕刊に、ベトナムを御訪問中の両陛下が古都フエで宮廷音楽のニャーニャックを御鑑賞されたという記事が掲載された。じつは、宮廷の消滅とともに忘れ去られかけたニャーニャックの復活の陰には日本の音楽学者徳丸吉彦氏の御尽力があったそうだ。氏は演奏家の育成を目指し、国立フエ大学に宮廷音楽専攻コースを新設するように提案したのだ。2007年に当時のベトナム国家主席が来日した際、皇居でニャーニャックの演奏会が開かれたことがあり、此の度、両陛下はフエでの鑑賞を心待ちになされていたという。
 国立劇場開場50周年記念の一連の公演は、伝統芸能のさらなる発展を後押しするものであり、かつまた平和の大切さを未来につなげるという意義をも見いだせよう。日本舞踊の粋、琉球舞踊の美らが永遠に続くことを希う。
(『日本照明家協会雑誌』№565、平成29年7月1日)

□舞の会49年 功績と名手の舞台
 国立劇場主催公演「舞の会」が初めて開催されたのは、国立劇場開場(昭和41年11月1日)から約1年後の昭和42年12月2・3日であった。その時の演目は、2日は『倭文』(井上小まめ)『八島』(楳茂都陸平)『縁の綱』(吉村雄輝)『月』(武原はん)『江戸土産』(山村たか)『鉄輪』(神崎ひで)、3日は『浪花十二月』(雄輝)『淀川』(たか)『名護屋帯』(ひで)『越後獅子』(井上屋寿栄)『黒髪』(はん)『勧進帳』(陸平)(『国立劇場二十年の歩み』より)。
 今日、会名の正式名称は「舞の会-京阪の座敷舞-」であり、このサブタイトルを付したのは昭和45年から(前年には“-関西諸流の座敷舞-”と付けた)。筆者の知る限り、“座敷舞”という語は、昭和42、3年頃に吉村雄輝が長唄『娘道成寺』を『座敷舞道成寺』(舞では通常と演出・抜き差しが異なる)と題して初演、間もなくNHKがテレビ放送し、「舞の会」がサブタイトルに付すようになって人口に膾炙した。“座敷舞”の語には①京阪で発達した舞全般を意味する場合、②上方唄と称される端唄物を意味する場合に分けて使われるが、①の広義の“座敷舞”が一般に浸透するようになったのは、今日まで連綿と続く「舞の会」の影響によるところが大きい。
 筆者の「舞の会」の初見は昭和50年のこと。当時、東京では武原はん、吉村雄輝、神崎ひでら名手の人気によった舞ブームに輪をかけ、東京人は「舞の会」でも舞の魅力を存分に味わえた。燭台や雪洞の蝋燭の灯にほのかに映る、心に秘めた恋慕の舞や激しい情念を抑えた舞は、座敷という区切られた空間で結晶のような輝きを放つ。本来は“座敷の舞”であったものを“舞台の舞”へと変貌させたのは、武原や雄輝の活躍とともに「舞の会」の実績と言えよう。特に、大平を工夫し、京阪の町家の座敷になぞらえ、金茶もしくは紅殻(ベンガラ)の京壁風に仕立てた舞台装置は国立劇場の考案だと筆者は聞いているが、少なくともそれを定着させたのは「舞の会」にほかならない。そういう劇場空間で観客は日常とは別世界の趣に浸り、今もって「舞の会」は大好評である。
 一時、立方や地方の世代交代の端境期に集客率が少し落ちたようだったが、劇場側が率先して若手を起用した結果、今ではそういう懸念は薄らいできた。
 そうして昨秋、「国立劇場開場50周年記念 舞の会-京阪の座敷舞-」を迎えた(11月26・27日、国立劇場小劇場)。久々の3回公演で、上方四流(井上・楳茂都・山村・吉村)の家元・宗家らほか、井上流では安寿子・葉子、山村流では若・侃など次代を背負う人材まで総勢27名の出演となった。
 今回、出演予定であった井上政枝の代役に八千代(五世家元)が井上流のみの伝承曲の『菊』を舞う。幕開きから#なお栄えなん三千年の宿」まで先代(四世家元)の『菊』の至芸と重なり、短いながらも井上流らしい格調と豊かさにあふれた一番となった。政枝はかつて「舞の会」で先代を偲んで『袖香炉』を舞ったが、昨暮、京都で先代の十三回忌に舞った『袖香炉』は師を偲ぶ心が一層滲み出ていた。門弟筆頭のかづ子が今回出演しなかったのは淋しいが、近年では定評の『桶取』や『猩々』で矍鑠たる舞を披露している。さて、八千代の『きぎす』は、先代の『花の旅』の衣裳を身に着け、一昨年2月「葉々の会」で見た時に感じたままに深い情感を漂わせた。『花の旅』……、以前、八千代が舞った時にまるで春風の吹く心地よさだったのも忘れられない。
 『雉子(きぎす)』と言えば、武(現・六世宗家家元山村友五郎)と光兄妹の「舞の会」デビュー時を想起する。今回、友五郎は自ら振り付けた『融』を再演。初演は衣裳付だったが、今は素で舞っているそうだ。「月の中に吸い込まれるように終わりたい」と友五郎が願った通り、衣裳を着て源融に扮した初演時に比し、素の舞は透徹した心情を浮き彫りにした。筆者は若い頃、先々代(四世宗家若)や早逝された先代(五世宗家山村糸)の、古格を保つ直線的な舞姿に「これが真の山村舞なのだ!」と驚嘆したものも記憶に残る。
 いっぽう、京都で生まれ大阪で育った吉村流は、雄輝(四世家元)が早くに東京に進出して洗練された舞の世界を創り上げた。東京で見る吉村流の舞のほか、大阪南地の花街の匂いを残す雄充(五世家元雄輝夫の姉)の女舞が見られたのも「舞の会」の楽しみ。今回、吉村輝章(六世家元)は『珠取海士』を舞う。9年前の「舞の会」の時は、後段の乳の下を掻き切って珠を押し込めるリアルな演技に圧倒されたものだったが、今回はことに前段の手籠を持った道行に母親の憂いが籠められ、芸境がさらに円熟味を増した。
 ここでは、上方四流の家元・宗家の舞台と、それにまつわる巧手の舞台を思いついたままに綴ったが、「舞の会」のみならず国立劇場主催の「京舞」公演や「人間国宝による舞踊鑑賞会」などを通して思い出に残る舞の名手の舞台は数知れない。井上愛子(四世八千代)、武原はん、吉村雄輝、神崎ひでらの名舞台が走馬灯のように駆け巡る。楳茂都陸平、山村たかの舞台をかろうじて見られたのも「舞の会」のお陰である。また、「舞の会」ならではの川口秀子、吉村雄充、楳茂都梅衣のまったりとした艶、粋筋の井上子花、井上里春、井上竹葉、楳茂都梅加らのさりげない艶、技巧を凝らす山村楽正と吉村雄輝夫、それに対して自然に舞う楳茂都梅咲の対照的な舞ぶりなど……。今日ではほとんどの舞い手が鬼籍に入ってしまった……。
彼らすべての感想を述べたいのだが、紙幅が尽きたので筆を擱くが最後に一言。プログラムに寄せられたエッセイがどれもすばらしく、京阪では舞が生活の文化として受け止められていた証となる貴重な資料となっている。今一度読み返して、舞の有りようを考えてみたい。
(『日本照明家協会雑誌』№561、平成29年3月1日)

■国立劇場50周年 道成寺の舞踊
 国立劇場が昭和41年11月1日に開場してから半世紀になる。『国立劇場二十年の歩み』に拠ると、設立の発端は明治6、7年頃、十二世守田勘弥がヨーロッパから帰国した大久保利通・岩倉具視らから西欧諸国の宮廷劇場の実情を聞いて刺激を受け、国立劇場設立の計画を立てた時に始まるという。その後、紆余曲折を経て昭和30年代に入り著しい進展がみられ、閣議決定により国立劇場設立準備協議会の答申が出された。その答申の中に「日本芸能の伝統を正しく保存するとともに新しい芸能の創造発展をはかること」という目的が記載された。明治初期から約85年の長い年月がかかったが、その間、政財界や演劇界の名士・名優、学識者らの運動は日本の近代演劇史の一面をみるようで興味深い。
 前おきが長くなったが、然して、先頃、「国立劇場開場50周年記念 道成寺の舞踊」が盛大に開催された(9月10日、国立劇場大劇場)。かつて国立劇場が「道成寺の舞踊」として特集を組んだ公演は幾つかあったが、今回の国立劇場初演は宇治派の一中節『道成寺』と新邦楽『道成寺昔語り』。さて、昨今の日本舞踊離れの一因として観客の意識の問題が取り沙汰されている。そもそも世阿弥も「観客の批評眼に対する不信感」は強く、「猿楽は大衆に支持されねばならないといいながら、その味わいが深く枯れてくればくるほど、一般の人には理解されないというアンビバレントな感覚をいつも持っていた」(『ふり人間』)と述べたのは石井達朗であった。今回は、そういう今日性を考慮してか、日本舞踊に馴染みのない人から見巧者まで幅広く演目を選定した劇場側の制作意図が窺えた。1時開演の部は序幕『七福神船出勝鬨』で『鐘の岬』『切支丹道成寺』『京鹿子娘道成寺』の道成寺三題、5時開演の部は序幕『洛中洛外』で『道成寺昔語り』『道成寺』『奴道成寺』の道成寺三題。50周年記念にふさわしく、今日の日本舞踊界・邦楽界の精鋭を結集させたバランス良い番組を存分に楽しんで鑑賞することができた。
 それらの中から『奴道成寺』『京鹿子娘道成寺』『道成寺』について、世阿弥が『花鏡』で説いた、観客からみた公演の成功を三段階に分けた「見・聞・心」(けん・もん・しん)という言葉で喩えてみたい(なお、日本古典文学大系『歌論集 能楽論集』の語釈に従い、日本舞踊に合わせた内容に置き換えたことをお断りする)。
 まず、劇場の全ての人が共に楽しんだのが花柳基の『奴道成寺』だろう。#まず春は花の本」で着替えてスーッと出て来た時、三ツ面の件を終えてオカメの面をとって引っ込む時に筆者は“花”を感じ、#恋の手習い」で素面から一瞬にしてオカメになった時、#稲荷山」でえび反りの上を花四天の一人がトンボを切った時に面白さを感じた。何と言っても基は踊りが巧いが、今回は余分な動きや表情をそぎ落とした洗練さと、三ツ面の件で大尽(客)とオカメ(傾城)とのやりとりがわかりやすく、#誓紙さえ偽りか」で遊女らしさ、#女子には何がなる」で恥じらいをみせた。そういう舞台は世阿弥の言う「見」に喩えられようか。「見」とは、会場が浮き浮きして観客は感嘆の声を出し、いかにも花やかで見映えがし、鑑賞眼のある人もない人も一緒に楽しめるものである。
 中村梅彌の『京鹿子娘道成寺』は一挙手一投足に至るまで父・七世中村芝翫から伝授された舞台だった。今回はことに道行の踊りと中啓の舞でそれを強く感じさせた。たとえば#花の御山へ」、#是生滅法と響くなり」での大きな身体使い、要所要所での気分の締め方。そして、鞠唄での流れるような踊り、振出笠の腕の使い方、クドキでの女の恥じらいと男女のやりとり、#稲荷山」でのメリハリ、#花の姿の」での形相の変化など、女性でありながら歌舞伎女方の模範的な演技が継承されていた。そういう梅彌の舞台は世阿弥の言う「聞」になろうか。「聞」とは、音楽が引き起こす感動だが、無上の上手が現出し得る当座の感動でもある。無上の上手は稽古の蓄積や心の工夫などの根底があって、そこから面白さという効果が現れるからこそ後半になるほど面白くなり沈むことはない。確かに梅彌は自分の体力とは逆行し、終盤になるにつれて見せた盛り上がりはこのことなのだろう。世阿弥は中流のシテは後になるほど弱く(悪く)なると言っているのだ。「聞」はしっとり落ち着いた感じの面白さで、しかし、この味わいは鑑賞眼の高くない人には理解できないものであるとする。
 二代目吾妻徳穂の『道成寺』は、いずれ世阿弥の言う「心」を予感させる舞台であった。「心」とは舞踊とか物真似とか言葉による面白さ・楽しさを超越した、さびさびとした境地に形容しがたい独得の味わいがあるもの。「心」はよほど鑑賞眼のある人でも、おそらくめったに味わうことができない孤高の境地なのだ。徳穂は一人立ちで大劇場の空気感を集約できたのはさすがで、重厚さと典雅さの曲に乗せ、#自らと申すは」の静かな登場、#月を友 雪を」、#花ぞ散りける」でみせた自然を見る目線、#乱れ心の結ぼれて」の女心の表出、浄瑠璃・鼓・笛と一体になった乱拍子、#立ち舞うように…思えばこの鐘…」にかけての鐘への凄まじい執心、#引き被ぎてぞ入りにける」と余情を残してスッポンへと消える幕切れはいかにも寂とした趣に満ちていた。
 9月28日、皇太子殿下と同妃殿下のご臨席を賜り、「国立劇場開場五十周年記念式典」が厳粛に実施された。祝賀芸能では“伝統芸能の華”として、ユネスコの無形文化遺産に登録された、能楽から「高砂」、文楽から「万才」、歌舞伎から「元禄花見踊」が上演された。次への50年に向けて伝統芸能の殿堂は新たなスタートを切った。今日、我々は世阿弥が抱いた観客との相反する価値の共存に対する葛藤に悩まされながらも、あたかもそれを一蹴するかの如く伝統芸能の力は堅固で未来永劫にわたって伝えられていくであろう。
(『日本照明家協会雑誌』№557、平成28年11月1日)

□前衛と伝統 墨雪と左近の芸
 尾上流の尾上墨雪が一中節の都一中と二人の会を持ち、渋谷のセルリアン能楽堂で「道成寺」を上演した(3月23日)。一中節の「道成寺」は大曲であり、今後も一中節の他の大曲を披露していくという。「墨雪」の名は能楽観世流で隠居後に許される「雪号」に倣ったのだろうか。墨雪の身体は能の身体への憧憬を観て取れる。五年ほど前に「菊之丞」の名跡と家元の座を子息に譲り、現在は流儀の身分に縛られることなく悠々自適の芸三昧。銀座の稽古場で「墨雪の会」を開催しているが、今回は久々の本格的な公演と言ってよい。
 一中節の「道成寺」は都派にとっては許し物の大切な曲。謡曲「道成寺」を原拠とし幕末に初世都一静が作曲したが、後に大槻如電が補作、戦後に二世都一廣が手を入れたものが現行曲。振付は初代尾上菊之丞。初代は「石橋」「二人椀久」「新曲浦島」「紀州道成寺」など多くの名振付を残した。「道成寺」の前場は序破急が明確。#煩悩の夢を」からが破とみなされ柔らか味を増し、急の舞は曲のメリハリを活かし、何とも凄まじく鐘入りを見せた。初代らしさは特に急の舞のあと鐘を指しながらジリジリ回ったり、後ジテで扇を蛇の尾にしてうねらせるなど精緻な動き。能舞台ながら鐘は吊っていないが、柱巻の型や問答を採り入れたが、素踊りのため鱗落しの型はない。今回、墨雪の手がどこまで加わっているか不明だが、精緻と言えば袴の着付けから足拍子、無音の中に響く数珠の音など視覚と聴覚の心配りまで行き届いている。扇(道行は幽霊扇の趣、舞になって替の鬼扇に準じた紺地に花の丸柄)はともかくも、女体を超えた墨雪の身体からは日本舞踊と能楽の間の波長が生まれ、それはあたかも伝統的な様式を半ば否定しているかのような革新的な表現の志向が窺える。作品振付もそう。今年の日本舞踊協会公演(2月20-21日、国立大劇場)初日の序幕を飾った長唄「みみをすます」(今藤政太郎作曲)は三人立ちを若手男女八人立ちにしてのリメーク。初演の時よりも谷川俊太郎の音世界を見事に表現し、現代日本舞踊作品として秀逸。この作品こそ日本の子供たちに鑑賞して貰いたい! ほかに秀作として知られる宮澤賢治の「梟祈願」(墨雪振付)が松本錦升(市川染五郎)・尾上紫・猿若清方による他流を交えて披露された。
 翌日(3月24日)、西川流鯉風派の西川左近が半蔵門の国立小劇場で十五回記念の「西川左近の会」を開催した。桜が咲く季節にふさわしく、演目は左近が「-「船弁慶」より-春の曙」「保名」を踊ったあと、門弟による初代鯉三郎振付の「都風流」と、切に再び左近による鯉三郎の傑作中の傑作「お力」。長唄「都風流」は男一人に芸者二人がからむ色の達引きのドラマ仕立を色彩や風情とともに楽しんだ。
 名古屋西川流を再興した二代目鯉三郎と尾上流を創流した初代菊之丞は、名優六代目尾上菊五郎の門弟志げると琴次郎。六代目は、踊りが堪能だった二人を市川宗家の反対を押し切って興行で「鏡獅子」の胡蝶の精に抜擢した。その初代菊之丞は壮年期に急逝し甥が二代目菊之丞を継ぎ(現・墨雪)、鯉三郎のほうは愛娘左近が鯉風派を興して継承。そうして、左近は「鯉三郎の作品を踊り継ぐことも私の使命なのだから」(プログラムより)と語る。
 鯉三郎の才能は情のある人物の心理に基づく精妙な振付と演技に発揮された。伝説の名舞台「船遊女」、筆者も若い頃に感動した「舞妓二代」など数知れない。清元「お力」は樋口一葉の「にごりえ」の酌婦を舞踊で描いた名品。左近は鯉三郎の名作を踊り継ぐことが使命と語ったが、それは鯉三郎の芸のコピーでは決してない。基礎から叩き込まれた演技による「お力」は今回二度目の上演になるが、女方の鯉三郎風をうち立てた名人の父から、女性舞踊家として新たに左近風を紡いでいる。「お力」は菊乃井の店先で客を引く姿から線香花火にお力が見入って終わる。途中、俗曲の#わが恋は細谷川の丸木橋」にお力が浮かれて踊る件が圧巻で、初役の時以上に左近の愛らしさ、いじらしさが印象的だった。アンコールでもここを繰り返し、さらに興奮を盛り上げたのとは裏腹に非業の死を暗示させている。ところで、左近風の演技の伝統は他流の若い女性舞踊家の舞台でも証明されよう。今年の日本舞踊協会公演では左近のきめ細やかな演技指導によって、若手の花柳ツルが大和楽「樋口一葉」を、同じく若手の中村江梨(現・梅)が「たけくらべ」を踊り、それぞれ一葉の世界を表出した。昔、鯉三郎の「お力」は初演の際、左近が踊る「樋口一葉」と「たけくらべ」のつなぎに上演された作品(「一葉抄」)。鯉三郎は六代目の「鏡獅子」や「保名」を一番わかっていたという。左近が踊った清元「保名」はいつもの詩情の豊かさに加え、輪郭のくっきりした「保名」で見応え充分であった。
(『日本照明家協会雑誌』№553、平成28年7月1日)

■舞と踊 日本舞踊の墨絵絵巻
 「京都会館」が「ロームシアター京都」として新しくオープンした。京都市岡崎公園の一角に打放しコンクリートの大庇をでんと構えるロームシアター京都。京都市の方針で日本モダニズム建築の旗手・前川國男による傑作の価値を継承しつつ今日に蘇生させた。そのオープニング事業の一つ「日本舞踊特別公演 輝く日本の舞と踊」は市民にとって待ちに待った大舞台の数々―、客席はほぼ満席の盛況ぶり(1月30日、サウスホール)。それもそのはず。プロデュースはいま最も力を発揮する五世井上八千代で、東西の家元・宗家クラスを集結させ、すべてに心配りある番組はさながら絵巻のごとく日本舞踊の現代を描き出していた。
 序幕は笛、小鼓三挺、大鼓の囃子による「三番叟」(振付 尾上菊之丞)。歌舞伎の市川染五郎事松本錦升、上方舞の山村友五郎、日本舞踊の尾上菊之丞の、人気と実力を備えた三人による清々しい祝舞。華、滋味、中庸という三者の身体が醸す不協和こそが日本の舞踊の奥深い味わいという感じ。続いて清元「北州」。幕が上がると黒紋付袴の花柳壽輔はすこぶる厳粛。この会で唯ひとり老境に入る壽輔が御祝儀物第一の「北州」、しかも初代壽輔振付の大切な演目を披露した。出は鬘桶に座った形に替えたが座した姿は威風堂々とし、#柳桜の仲之町」のあたりは吉原仲之町の桜並木が目に映るよう、また#仙境も斯くやらん」では清浄な仙界に遊ぶ心持ちが表れ、一振り一振りに心がこもり、充足感ある名演であった。同じ素踊りでも、次は豪快な義太夫「龍虎」(振付 若柳吉金吾)。龍に吾妻徳陽、虎に若柳吉蔵。徳陽は歌舞伎の中村壱太郎で吾妻流家元継承以降、初めて徳陽の名での出演となる。漢文に基づく歌詞(大野恵造)は難解だが、“龍虎”とは力量の伯仲した強豪の二者のたとえとして広く知られ、二人が相打つ戦いは豊竹咲大夫の浄瑠璃との息も合って見応え充分。振付は明快で二人はそれぞれ龍髭嫋々・虎視眈々の性格を踏まえて熱演した。
 ここまでの墨絵のような素踊りの舞台から一転、次は中村梅彌の長唄「鷺娘」(振付 二世藤間勘祖)。本会唯一の衣裳付きの演目だが、「鷺娘」もまたモノトーンの世界。娘の回想部分に赤や藤、浅葱等の衣裳の色が加わるだけ。梅彌は歌舞伎の名家の生まれだけに父・中村芝翫譲りの女方の演技で、出とセメに演出の新味を加えた以外、伝来の振りを忠実に踊った。休憩を挟み、再び墨絵のような舞台に戻り、八千代による京舞の地唄「おちやめのと」。八千代は「おちやめのと」を一昨秋の国立劇場「舞の会」で本舞台に初めてかけた。振付は初世八千代で井上流にとって大事な作品の一つ。「舞の会」では楷書を書くような丁寧さで舞っていたのが、今回は楷書をなぞって墨の濃淡を付けた行書のような趣。初役では#いちゃが」で拝みつつ下がる振りが、今回は拝みつつ身体を左右に揺らす振りとなり、今回所々先代を彷彿させる形にハッとさせるなど円熟味を増した。それは八千代の常日頃の心がけの積み重ねにほかならないだろう。続く「漁樵問答」(振付 二世藤間勘祖)の舞台は千住博による墨絵風の滝の絵が掛かり、初めグレーの大ホリ幕が両人の姿が変わると幕は上がってブルーになる。本曲は養老の滝と浦島太郎の伝説の組み合わせで最後に源丞内は若く、浦島は老いるという結末。今回はベテランの域に入る若柳壽延と西川箕乃助がそれぞれ源丞内と浦島になって伝説の人物を好演した。そもそも“漁樵問答”とは東洋画に多く見られる画題であり、「漁と樵と共に自然を友にその生活を営む両者が互に問答する図」で哲学的な思考を孕むものだそうだ。大喜利は日本舞踊協会関西支部京都・滋賀ブロック「京の会」のメンバーによる素踊りの「鴨川名所綴」(振付 若柳壽延)で賑やかに締めくくった。
 ところで、筆者は二条通り東側から入り、ロームシアター京都のパークプラザの打放しコンクリートの大庇を眺め、今は無き本学芸術学部江古田校舎の図書館や学生食堂の建物を懐かしく思った。それらはドイツのバウハウスで学んだ山脇巌によるモダニズム建築だった。今回、有形の文化財は改修・保存し将来へつなぐか、解体しゼロにしてから現代建築に建て直すかの二者択一の決断を迫られることをまざまざと実感した。
日本舞踊の技など無形の文化財は目に見えない形だけに継承のデリケートさを思っていたが、実際はさまざまな経路や選択肢があり、有形のものに比べて意外と堅固と言えるのだ。「おちや乳人」がその好例。これは女方の開祖の一人・右近源左衛門が内輪(内股)で舞ったと大名の日記に残されており、初期歌舞伎から引き継がれてきた舞なのであるから…。
(『日本照明家協会雑誌』№549、平成28年3月1日)

□百花妍を競う女舞 雪月花五趣
 蝉しぐれが夏の終わりを告げる頃、今年もまたNHKエンタープライズ主催の芸の真髄シリーズの公演が開催された(8月22日、国立大劇場)。第九回を数える今年のテーマは“女舞 雪月花”。“雪”は「鷺娘」、“月”は「島の千歳」、“花”は道成寺三趣で「豊後道成寺」「於鍋道成寺」「傾城道成寺」。魅力的なテーマの上、五流派の女流トップの華やかな競演となると観る方も胸のワクワク感がたまらない。
 序幕は「島の千歳」。鳥の子屏風二双を飾った素踊り形式の舞台は、かつてブルーノ・タウトが賞賛した簡素で格調の高さを示す日本的な美の世界。二双のうち一双を中開きにして舞台上下へ置き、中央の一双が左右に開くとまたしても“凜“とした藤間勢三の立ち姿が現れる。「島の千歳」という演目は白拍子で踊られることが多いが、本来はすべて“水”を表現するという口伝がある。九十歳を超え、なおも矍鑠とした勢三の「島の千歳」(藤間友章振付)は水の表現が精緻で、特に#水のすぐれて覚ゆるは」から丁寧さが際立った。夜が明けて残月のもとで汲む若水の行事に通じる、邪気を払うような祝言の舞であった。
 「島の千歳」が平面的な絵画美としたら、二代目吾妻徳穂の「鷺娘」は空間的な映像美。大劇場の奥行きを上手く演出し、オキ唄のあと大ホリから弱々しい足どりで直線的に歩み出る登場はいかにも心の闇の広さとか深さを象徴しているかのよう。このあたりに当代徳穂の現代的なセンスがキラリと光る。初代徳穂の「鷺娘」(藤間万三哉振付)は白一色で踊り通すところに特色がみられる。白に色を感じさせる踊り分けが眼目となるのも日本的な発想と言え、当代の徳穂は切なく、可憐に、軽快に、激しく…と踊りの展開ごと白地に心の色を染めて踊り抜いた。セメのシーンは、戦後いち早くバレエ「瀕死の白鳥」からヒントを得たもので、降りしきる雪のなか、息絶えていく白鷺の悶えて羽ばたく音が哀しく響いては消えた……。
 日本人にとって“花”と言えば桜。桜の妖しさ、美しさ、潔さを清姫の運命に喩えたのが大曲となる道成寺ものである。本公演は、その道成寺もの三演目を並べて魅せようという贅沢な企画。古典と新作の多彩な道成寺ものからセレクトされた三演目は、いずれも演者にとってこだわりある作品であるのも納得がいった。
 「豊後道成寺」(二世藤間勘祖振付)は四世中村雀右衛門の艶やかな初演によってまたたく間に舞踊ファンの心を虜にしてしまった新作道成寺。原典の「京鹿子娘道成寺」では振り出し笠を持って舞台袖に入り、鴇色の襦袢から藤色の着付に着替えて出てクドキになるところを、観る者の予想に反して「豊後道成寺」では#花娘」のあと居所で黒から卵色に引抜いた。その初演時の印象は強烈で、筆者にとって衣裳の変化がこれほどまでに鮮明に印象づけられた舞台はない。それをあえて藤間洋子は今回黒から青藤色に引き抜いた。薄茶色の色紙に鐘と松に霞を描き、桜の枝を垂らした背景に欄干付きの落ち着いた舞台に青藤色の衣裳が程よく調和していた。藤間流宗家の薫陶を受けた洋子は芝居心を忠実に表出しながらも、女方でもない女流舞踊家としての「豊後道成寺」に辿り着いた。
 日本には伝統的にパロディの手法が詩歌に、絵画に、芸能に、と様々な分野で巧みだが、尾上菊見振付・演の「於鍋道成寺」は道成寺のパロディがしゃれた作品。元禄期にも「昆布道成寺」という、道成寺パロディの歌詞があった。#この世の縁を結び昆布 くるりくるくる巻昆布…」と昆布尽しで、「於鍋道成寺」は鐘入りの件にその歌詞を取り入れた。郡司正勝のウイットに富んだ作詞と、大きなお鍋を鐘に、杓文字を打ち杖に、踏み台を二段に、と台所用品を様々な大道具・小道具に見立てた演出や振付にも機知の面白さがある。おさんどんをする京の下女に道成寺を結びつけた発想がユニークだが、作品の主題は奉公娘の哀愁……。菊見は気負いのない演技で道成寺ものをサラリとかわし、観客は一本取られて、笑って手を打った。
 いよいよ大喜利。幕が開くと舞台全面の松と桜を荘厳に描いた切り出しに紫色の鐘を吊った情景が目に飛び込む。ここは紀州道成寺ではなく小夜の中山寺、その雰囲気を醸す。そんな情景に目を奪われているうち、花道スッポンから三代目花柳寿美の傾城が妖しげに登場し、#中山寺に着きにけり」で本舞台へ。妖艶な桜は傾城というはかない女人のメタファー。「傾城道成寺」は「娘道成寺」より前に成立したものだが、初演以降、その陰気さゆえに上演が絶えていた。それを昭和初期に初代寿美が踊って復活、その後しばらく舞台にはかからず、昭和三十八年にNHK放送で花柳宗岳(二代目寿美)振付、初代吾妻徳穂演によって再び甦った。「傾城道成寺」は「娘道成寺」と違い、鐘入りのあと傾城と間夫との廓話や地獄のセメになるが、寿美はことに鐘入り後、心の綾を解くように絹の巻手紙の捌きが鮮やか。祖母と母の遺志を受け継いだ渾身の出来映えとなった。
 近ごろは日本舞踊の会もめっきりと少なくなった。日本舞踊界全体、何となく元気がなく、行く先を見失っている感がなくもない。そのような現状のなか、九十代から五十代までの五人のトップ女流舞踊家が真剣勝負でこの公演に立ち会った。花ある女流たちが妍を競い合いながらも、彼女たちに日本舞踊の伝統はしっかりと受け継がれているのだという充足感を味わった。(制作統括:原正隆、演出:駒井邦夫、照明プラン:池田智哉)
(『日本照明家協会雑誌』№545、平成27年11月1日)

■舞のいろどり 井上流・山村流
 京都・祇園甲部歌舞練場で京舞井上流のホープ・井上安寿子の第三回舞踊公演「葉々の会」が開催された(2月7日)。公演名の由来は禅語の『君ガ為ニ葉々清風ヲ起ス』。一葉一葉が清らかな風を吹き送り、門出を祝福しているの意味だそうだ(プログラムより)。かつて彼女が「八島」で東京・国立劇場主催「舞の会」(平成23年)に初登場した際、筆者も「舞の会に清新の気を吹き込んだ」(本誌№500掲載)と感じたように、みんなが、彼女の舞う一つ一つの舞台から“清らかな風”がサーッと起こり、伝統の世界に新たな気風を吹き込むことを期待するのだ。
 毎年演目は精選されている。母・井上流五世家元井上八千代ほか流儀の重鎮・井上かづ子、政枝、和枝、そして祇園の芸妓・舞妓らがこぞって出演する豪華な番組は彼女の恵まれた環境を表すが、そこに安住せず精進に努める彼女の取り組みが好ましい。安寿子の演目に限ってみれば、第一回に地唄「長刀八島」と上方唄「お光」、第二回に上方唄「椀久」と地唄「海士」、そして今回は地唄「鉄輪」と義太夫「お七」を上演してきた。それらのうち、一演目は井上流の特徴を示す能の型を取り入れた本行物(「長刀八島」「海士」「鉄輪」)から選び、もう一演目は歌舞伎舞踊を舞にした芝居物(「お光」「椀久」「お七」)を選ぶという選択に納得いく。前者は流儀の後継として進むべき道の核心だし、後者は衣裳を付けての演目でこれらを充分に鍛錬してからという決意が汲み取れる。今回は、安寿子の年齢にふさわしい「お七」に物語のもつ切迫感が漂った。
 井上流が伝承する「お七」は他の流派が上演する義太夫の「櫓のお七」とはまったく異なる。そもそも詞章自体が違うのだ。振付は二世井上八千代だが、いつが初演でどのような伝承経路があるのかわかっていない。筆者が井上流の「お七」を観た最初は今から三十年前、井上三千子(現・八千代)の演じた舞台(昭和60年度文化庁芸術祭主催公演「舞踊 月雪花」)だった。当時の筆者にとって極めて珍しかったのだろう。「お七」だけ詳細なメモを取っている。その後、数回の上演を経るが、その都度、珍しい演目であるのは違いない。 場面は前半と後半の二景。通常の前半、部屋の炬燵の場が本曲では塀外の場となる。黒塀の外で、吉三を呼ぶ不憫なお七を描いている。雪の降る中、かんざしで鈴(りん)を鳴らし、袂で雪をかき集めて吉三からもらった手紙を読み返す…。後半は通常と同じ火の見櫓の場だが、花道七三にも木戸が立つ。後半でも雪を袂に入れ木戸を壊そうとし、梯子を登って滑り落ちる常套の演出のほか、しごきを櫓にかけ滑り落ち、最後は袖をちぎって頬被りし(玉手御前を彷彿させる)剣を抱えて花道に引っ込む…。
 そういう奇想天外な型に加え、横座りでクルリと身をかわす、顎を丸くしゃくり上げるなど井上流独特の動きも安寿子は着実にこなす。通常は前半の娘の恋心と後半の気性の激しさとの対比でお七の哀れさを際立たせるのに対し、本曲は前半から後半を通じてお七の心理を盛り上げていき、歌舞伎舞踊系のとはドラマツルギー自体に相違がみられる。このような作劇法が観る者によりリアルな感触を与えるのは確かだ。人形ぶりもそうだ。通常の演出では前半は人間、後半で人形振りになるが、本曲では全段通して人形ぶり。しかも技法が歌舞伎舞踊系とはニュアンスに違いがある。歌舞伎舞踊系では文楽の人形らしさをまね(人形そのものではない)、井上流では人形の動きはさらに人間味を帯びているかのよう。安寿子の人形ぶりは実にいじらしく、この大曲を制覇した。ちなみに、緋の襦袢に雪持ちの南天の柄(魔除け、火除け)も意味深長。もう一演目の「鉄輪」では、後半の後妻(うわなり)打ちからの迫力が今後の成長を約束した。
 京舞の代名詞が井上流であれば、大阪の町に根強い人気を保つのが山村流の舞。いわゆる山村舞は谷崎潤一郎の名作『細雪』でも広く知られるところであろう。山村流は艶物【ルビ:つやもの】の女舞を特色とし、井上流とは同じ舞ながら舞ぶりは対照的なのだ。その山村流の花形・山村光が今春、東京、京都、大阪でリサイタルを開催した。名付けて「山村光リサイタル 三都で、舞う。三都を、舞う。」。筆者は東京公演を鑑賞した(3月7日、セルリアンタワー能楽堂)。演目は上方唄「十二月」、地唄「浪花十二月」、地唄「お江戸十二月」のほか、花柳基・山村友五郎による地唄「都十二月」。
 彼女の舞を筆者が初めて観たのは平成二年の「舞の会」。今から四半世紀も昔のことだ。その時の演目は兄・山村武(現・友五郎)と二人で舞った「雉子(きぎす)」だったが、兄妹の切なさは今も鮮烈な印象として残る。後に、毎年大阪で開催される「舞扇会」に度々参上し、数多くの山村舞を拝見してきたが、なかでも彼女の舞った「ゆき」(平成18年)は若やいだ色気と自ずと表出する女心の秀逸さに感動。その五年後に舞った彼女の「ゆき」にはドラマティックな心の表現が加わっていた。だが、筆者にとって彼女は不思議な存在だった。というのも、東京の国立劇場の「舞の会」では情感というものをさほど強くは感じないのだが、大阪の国立文楽劇場の「舞扇会」で観る彼女の舞では上方特有のぼんじゃりとかまったりとかいう味わいに浸れるからだ。その土地の水に合う、と言うのだろうか。
 ところが、今回のリサイタルは一皮剥けたと言ってよいか。「十二月」(三世宗家山村舞扇斎吾斗振付)は芸妓の黒の出の衣裳ではんなりと舞い、「浪花十二月」(三世宗家山村舞扇斎吾斗振付)では後見結びの帯に前割れの立役の扮装で大阪の行事を軽妙に仕分け、「お江戸十二月」(六世宗家山村友五郎振付)では帯を柳に結んだ江戸の芸者姿で江戸の四季の風物を粋に綴った。サブタイトルにある「三都を、舞う。」とはこのこと。これら「十二月」の類はおどけ物とも呼ばれる座興で作った作物(さくもの)として括る人もあれば、舞の大御所であった楳茂都陸平は「いわゆる地唄の“作物”ではないとしても」と語っているが、明るく、軽くおどけた気分の表現を大事にするもの。
 いずれにしても、上方の文化を代表する“舞”。多彩な舞のいろどりを二人の舞い手によって堪能した。
(『日本照明家協会雑誌』№541、平成27年7月1日)

□珠玉の琉球舞踊 古典女七踊
 “珠玉”という言葉がその賛美に最もふさわしいと思わせる公演であった。横浜能楽堂企画公演「琉球舞踊 古典女七踊」は、旧・染井能舞台(東京・根岸の加賀藩主前田斉泰邸から後に染井の松平頼寿邸に移築された)の鏡板を背景に流麗で繊細な「女七踊」が繰り広げられ、観客はたゆとう時の流れに存分に浸った(2014年11月1日)。
 紅型特有の黄色で彩ったプログラムはシンプルな内容で、中村雅之館長の「琉球舞踊の真髄 琉球舞踊の戦後」の一文が鑑賞の理解に大いに役立った。琉球王国時代の御冠船踊、古典と呼ばれる琉球舞踊の一群はその流れを汲むものである。御冠船踊は首里の士族の芸術的素養と美意識を結集して作り上げられたもので、その中心が女踊。成人男性が演じる女形の芸として成立したが、1879(明治12)年に琉球王国が崩壊すると士族は禄を失い、一部の者は那覇の芝居小屋で御冠船踊を教えることで糊口をしのいだという。大正・昭和期に芝居小屋は全盛をきわめ、御冠船踊は娯楽として洗練される。しかし戦後、娯楽の多様化に従い芝居小屋は勢いを失い、それに代わり台頭したのが、幼い頃に習い事として始め、男性役者たちに鍛えられた女性舞踊家たちだった。今公演の出演は近年孤塁を守ってきた女形・宮城能鳳(重要無形文化財「組踊立方」各個認定保持者)と今日の琉球舞踊を代表する六人の女性舞踊家(六人とも重要無形文化財「琉球舞踊」総合認定保持者)、演奏は西江喜春(重要無形文化財「組踊音楽歌三線」各個認定保持者)ほか。
 「女七踊」とは女踊のうち今回上演する七つの演目(「本貫花」に代わって「苧引」が入ることもある)を総称していう。プログラム順に「女七踊」の舞台印象は、「作田」の宮城幸子は年長の風格と自然体、「かせかけ」の玉城節子は清淑さ、「天川」の谷田嘉子は風雅さ、「柳」の宮城能鳳は艶麗で技巧的、「伊野波節」の佐藤太圭子は静と動の対比の鮮明さ、「本貫花」の志田房子は娘の初々しさと華麗さ、「諸屯」の金城美枝子は優美さ…。どれもが意匠を凝らした紅型衣裳に身を包み、唐団扇、かせ・かせ枠、花籠と柳・牡丹・梅の枝、花笠、紅白の貫花の小道具を持って恋の歌を踊るが、媚びはなく、内面から表出するしめやかさが品格を保ち、各自短い踊りながらも琉球の魂を込め、その水準の圧倒的な高さを示した。
 七人は、「沖縄の団十郎」とも称された玉城盛重に師事した志田、盛重の甥・玉城盛義に師事した節子・谷田・志田・金城、盛義と同じく戦後の復興に取り組んだ真境名由康を義父とする真境名佳子に師事した宮城・志田、少し遅れて舞踊研究所を開設した宮城能造に師事した能鳳、同じく島袋光裕に師事した佐藤、という芸系統をもつ。彼ら師匠たちは伝承された型の違いの問題を乗り越え、琉球舞踊を文化財として後世に伝えるための努力と事業によって、それらを御冠船時代以上に洗練された格調の高いものとした。七人の舞台芸には、その時代の名人たちから伝承された型の確かな裏付けが感じられる。そういう歴史をたどると、今回女形と女性舞踊家を一堂に会して上演した企画は伝統の再創造とか再構築の確認という観点からも琉球舞踊史上にもきっかりと刻まれることであろう。
 琉球舞踊史上に刻むと言えば、矢野輝雄著『沖縄舞踊の歴史』にこんな記事がある。柳田国男、折口信夫(大正10年)、田辺尚雄(大正11年)の来沖によって沖縄への関心が高まり、その後、東京公演が実現される。昭和3年4月の八重山歌舞公演では、柳田国男は「明治以後の玄人芸の影響をあれほど多く受けているかということは今度はじめて知った」、小寺融吉は「ほとんど予期出来なかった幸福を図らずもつかんだ」と賞賛し、昭和11年5月の御冠船舞踊の公演では、邦正美が「舞台芸術として非常に洗練されている。西洋の在来の舞踊ではこれほど合理的な構成をもったものはちょっと見出すことはむずかしい」、土岐善麿は玉城盛重について「ぬっとあらわれた姿体と、その舞踊は、いかにも名人の境地に入っているものと思われた」、崔承喜は「このような琉球のもつ優れた民俗舞踊が、有能なる舞踊家の手によって新たに様式化され、そしてそれが成長していく日には世界に出して誇り得るものさえももつであろう」、北野博美は「故国の持つ美しさに対する認識から出発して、忘れ去っていたものに振り向く気持が起った」、池田弥三郎は規模の大きさ、影響力からいって「まさに年代記ものであった」と評価した。そして大事なのは、沖縄の芸能人を勇気づけ、伝承について真剣に考えさせたことだった。「これまで顧みられなかった舞踊について、今これを伝承しなければという焦燥感と、芸の基本を古典におくべきだということを人びとが痛感した」という。
 もちろん筆者はそれらの公演を観てはいないが、今回の公演は、戦前、識者が受けた感動を私自身の心のなかに甦らせるものとなった…。 
(『日本照明家協会雑誌』№537、平成27年3月1日)

■若き家元の誕生 吾妻流・泉流
 「吾妻徳穂十七回忌追善 三世宗家・七代目家元襲名披露 記念舞踊会」が東京三宅坂の国立劇場大劇場で開催された(9月20日16:00、9月21日11:00、16:00の3回公演)。全演目は28番、うち初代吾妻徳穂振付作品(6演目)、二代目徳穂振付作品(3演目*1作品同演目は20、21日序幕)、藤間万三哉振付作品(4演目)のほか、吾妻流と縁の深い藤間友章、西川鯉三郎、坂東三津之丞、二世藤間勘祖、二世花柳壽楽、橘抱舟の名手・名振付師と一流の作詞・作曲者による振付作品が並び、昭和の時代を築いてきたそれら名人たちの名品の数々に改めて吾妻流の底力を見せつけられた(筆者は25演目を披見)。
 序幕は吾妻流特別選定曲「重ねたちばな」(村上元三作詞、三世今藤長十郎)。昭和五十三年吾妻徳彌(二代目徳穂)が六代目家元継承披露として発表。初代徳穂の芸の流れを象徴する“藤”と初世宗家十五世市村羽左衛門の紋所“橘”をテーマに大勢の一門が新宗家・二代目徳穂と新家元・吾妻徳陽の誕生による輝かしい未来を寿いで幕を開けた。
 初日の眼目は「隅田川」(守屋多々志装置)。二代目徳穂は今日までに徳穂十種、吾妻流特別選定曲を立派に継承してきたので、今回は曾祖母藤間政彌ゆかりの演目を選び原点回帰の気概をみせた。明治四十一年開曲の清元「隅田川」に初めて振り付けされたのが藤間政彌二十八歳の時。筆者の所見では、扮装は能の趣に近づけた風合いだが裾引きで登場、手の持ち笹も歌舞伎舞踊のよりも葉先の尖った小ぶり、女笠もつや消しの黒。総体的に落ち着いた色調のなかで能から離れ、わが子を思う母親の心理を細やかに描写し、女性が演じる「隅田川」を意図して振り付けされたものと察した。ときに見せる大胆な感情表現、たとえば#子にてあれ」で立って正面を切って#人目も恥じず」で嗚咽したり、#落つる涙」で正面向きで大泣きするなど、二代目徳穂の演技力には若い頃から抜きん出たものがあったが、今回は秀逸を極めた。舟人は坂東三津五郎で演技力・技術力は言うまでもない。ほかに翌日、二代目徳穂は荻江「鐘の岬」(朝倉摂美術)を披露。紙幅がないので所見は割愛するが、二代目徳穂が自身の得意演目を新たに構築していこうとする意気込みを感じさせた。
 さて、本会を通しての圧巻は藤間勘右衞門の与右衛門、徳陽のかさねによる清元「色彩間苅豆」(21日昼)。この人気曲も明治三十九年藤間流大会で藤間政彌が復活したことは知られている。新家元の徳陽は歌舞伎の花形俳優の中村壱太郎で父中村翫雀、母二代目徳穂、祖父坂田藤十郎という名門中の名門の御曹司らしい気品、しっかりした舞踊技術に加え、何と言ってもかさねの初々しさ、哀れさ、妖しさ、そして与右衛門を慕う女らしさ、お腹の子を気遣う母らしさなど細部にわたって丁寧に演じた。今回、血潮に見立てた紅葉の襦袢になる肌脱ぎは草陰ではなく土手の上でみせるなど現行の型や息との違いのいくつかも関心を抱かせた。藤間勘右衞門とは尾上松緑の藤間流家元としての代々の名跡であり、色悪という悪の凄みをハラと演技で十分にみせ、やはり代々の歌舞伎名門の実力を示した。
 徳陽はほかに藤間流宗家藤間勘十郎と「子宝三番叟」(20日)を素踊りで大名と太郎冠者の性根を踏まえてゆったりとみせ、坂東巳之助と夫婦の「団子売」を面を使って早間で面白く踊ったのはそれぞれの母二代目徳穂と父三津五郎のかつての名演(平成十五年 吾妻流再興七十周年記念 吾妻會)を彷彿させた。ほかに、長老の春律が「松の緑」を矍鑠と踊ってみせ、幹部筆頭の節穂が素踊りの「玉兎」をあざやかに踊るなど初代徳穂から薫陶されたのを証したほか、花柳寿美による徳穂十種「赤猪子」、竹下景子による吾妻流選定曲「八月十五夜の茶屋」など絢爛豪華な舞台が繰り広げられた(照明 池田智哉)。
 勘十郎、勘右衞門、徳陽ら若き宗家・家元たちの活躍ぶりは旧と新の端境期にあたる今日、日本舞踊界の閉塞感の打開に大いに期待したい。
 これに先だち、「泉会 泉流二代目宗家・三代目家元 襲名披露公演」が同じく国立劇場大劇場で開催され(9月6日第一・二部、9月7日第一・二部の4回公演)、全演目38番に西川流十世宗家西川扇藏、花柳流四世宗家家元花柳壽輔を迎えて口上を述べたほか全国から一門が集って番組を賑々しく展開した(筆者は所用が重なり8演目を披見)。
 新家元・泉秀樹は6日・7日両日とも「春興鏡獅子」を披露した。音羽屋系の藤色の衣裳を着た6日の所見では(7日は成駒屋系の黒の衣裳だったようだが、筆者は未見)、いつもは清々しい立役の秀樹がお小姓弥生となって登場するとその初々しさに客席からザワが起きたほど。後段は獅子の精が颯爽と登場し、お行儀の良い毛振りをみせて舞い納めた。「鏡獅子」は新歌舞伎十八番だけに型の消化の上では今後を待ち望むが、翌日は長唄「黎明」(中内蝶二作詞、山田抄太郎作曲)を、宇宙の森羅万象が目覚めていく様子を青年らしくリズムの変化を捉えた新感覚で振り付けて、叔母泉翔容と力強く踊り、「鏡獅子」ともに将来、日本舞踊界を支える有望な家元として成長するだろうことを確信させた。
 また新宗家・二代目徳右衛門は6日に自身振付の一中節都派の「道成寺」と7日に初代徳右衛門振付の「あたま山」(安藤鶴夫作詞、山田抄太郎作曲)を披露した。「道成寺」は松羽目装置の前に紗幕を下ろし、その奥に四拍子が控え、霞のかかった花子の心を象徴するような幕開きが印象的。#失せにける」でセリ下がり、後段は紗幕が上がって銀の鱗模様の襦袢に打ち杖を持った後シテとなる。二代目徳右衛門の「道成寺」は前シテで娘らしさを強調しており、姻戚関係の高濱流光妙がかつて前シテを白拍子の艶冶な趣で河東節「道成寺」を踊ったのとは対照的な行き方に興味が湧いた。
 「あたま山」は抱腹絶倒の面白さをみせた先代の得意芸として知られているが、それを木魚を叩く僧を尼さんに替えて当代が再演したのが今から二十年ほど前のこと。今回、「あたま山」をはじめ「石橋」や、三樹会での人気シリーズ「旅情ところどころ」など先代家元・初代泉徳右衛門の名舞台を偲ばせる公演でもあった。そしてまた、この日を一番喜び待ち望んでいたのは先代であるのに相違ない(照明 北寄崎嵩)。
(『日本照明家協会雑誌』№533、平成26年11月1日)

□身近な魅力 国立劇場主催公演
 今年も恒例の国立劇場主催の企画公演が東京・三宅坂で開催された。今年のテーマは<動物のいる風景>(5月24日)。国立劇場主催日本舞踊公演が年間5公演(うち1公演は邦楽と合同)あるうちの、唯一の大劇場での上演である。キャパシティ1,610席のうち1階は 994席、今回はその8割を超えるかの入場がみられ(2、3階席の入場は未詳)、ことに中高年の女性客が多く、若者の姿もちらほらとみえ、客層が多少若返った感がなくもない。喜ばしい傾向である。長年続くこの企画公演だが、近年、舞台と客席との垣根を低くしようというコンセプトが明確に窺える。そこで、これまでの企画公演をたどってみよう。
 筆者が国立劇場主催公演を見始めたのは、昭和48年の<京阪の歌舞伎舞踊>から。「楳茂都流連獅子」「そばやの三つ面」など上方色の歌舞伎舞踊にカルチャーショックを受けた強烈な印象が残る。続いて、上方の七変化「慣ちょと七化」の復活再演、<曽我狂言><妖怪変化><江戸の風俗><獅子><顔見世狂言><能・狂言><道行><鬼と怨霊><道成寺>など既存のジャンル別に沿って企画されたので、学究の徒であった筆者にとっては生きた研究書となって舞台から得た知見は計り知れない。「振袖山姥」「鶏娘」「もさ巡礼」「古道成寺」「執心鐘入」(組踊)など当時として珍しい演目の優れた演者による初演や上演の鮮明な記憶が甦る。
 その後、思い切った企画として受け止めたのが、平成17年の<八変化所作事 花翫暦色所八景>。これは久々の変化舞踊の復活だったが、2時間枠でスピーディに幕無しの展開がミソで、狂言回し的な役を設け、1人2役をダブルキャストで8役上演。記者会見を行い、時代の流れを意識し、観客のニーズに応えた演出を試みた第一弾と言えよう。同工のものに江戸名所を集めた<東都八景四季賑>があるが、新たな切り口によるテーマ<祭りと祝福><笑い><源平絵巻>は大曲4演目(新四変化を含む)を柱にした日本舞踊の層の厚さを感じさせ、<「花柳舞踊研究会」名作集><菅原草紙>は舞踊史的意義の再確認でもあった。
 演者の若返りを図り、中堅・若手舞踊家を中心にバラエティに富んだ企画になったのは<踊り、何々>シリーズの<絵尽し><旅は道づれ>で、今回の<動物のいる風景>もその路線につながるであろう。長い間、劇場の制作担当者が知恵を絞り、いかにして日本舞踊を観客に届けようか、と苦心してきた跡がよくわかる(以上、いずれも大劇場、京舞・人間国宝公演等を除く筆者所見の企画公演)。
 さて、今年の<動物のいる風景>、タイトルからして女性客や若者にも気軽に興味を抱かせるネーミングであるし、「動物は古来私達の暮らしと深く関わり、その愛らしい存在は芸能などに色々な形で登場します。」(制作のことば)とプログラムにある通り、日常の目線で日本舞踊の魅力を引き出そうとした意図になっている。以前、小劇場であったが、<日本舞踊の楽しみ-踊る動物たち->(平成13年)という動物に主眼を置いた企画があり、「蚤取り男」「うしろ面」「座頭」「ましら」「吾輩は猫である」の5演目が上演されたが、今回の番組も5演目で「鳥獣戯画」「瓢箪鯰」「玉兎」「鷺娘」「靱猿」。前企画に対し、今回はポピュラーな演目が中心に選ばれている。
 なかでも序幕の「鳥獣戯画」(柴﨑四郎作詞、十四世杵屋六左衛門作曲、花柳寿南海振付・指導)がよい。言うまでもなく、世界的に有名な国宝「鳥獣人物戯画」(高山寺所蔵)に題材を得た作品。兎(藤蔭静枝ほか)、蛙(花柳和ほか)、猿(橘芳慧ほか)がチームワークを大切にしながら、水泳や相撲、法会などの様子をのどかにユーモラスに踊っていく。ベテランから若手まで演者のキャリアに幅はあるが、素踊り形式で各人の洗練された技術や表現によって戯画巻を舞踊で見事に描いた。
 大喜利に上演された「靱猿」は4月大歌舞伎で坂東三津五郎(猿曳)の復帰の舞台として話題を呼んだだけに、今回は日本舞踊でどのように踊るか、という関心がまず先に立たれようか。歌舞伎では猿曳は化粧、鬘が世話のこしらえで、出に狂言の様式をわずかに残し、役に厚みを持たせたのに対し、今回の花柳寿楽(猿曳)はこの人の持ち味である端正さで踊り通したが、「猿の一打ちと申して急所がござりますほどに」で小猿が猿曳の手を握ると猿曳の感情が高ぶる様子などきめ細やかな心理変化をみせ、#振り上げし鞭の下」辺りで祖父の先代壽楽の面影と重なった。女大名の花柳基、奴の市山松扇も慎重に演じる。
 中の三幕は定式通りの演出で季節の変化を感じさせながら、西川箕乃助が滑稽な「瓢箪鯰」(長唄)、若柳吉蔵が愛らしい「玉兎」、藤間恵都子が華麗な「鷺娘」を奮闘した。ただ筆者が惜しむらくは、「瓢箪鯰」「鷺娘」は最近、夏の<花形・名作舞踊鑑賞会>で上演されたばかり(「瓢箪鯰」(常磐津)平成24年、「鷺娘」平成25年)。某新聞紙上で澤村田之助丈が歌舞伎の演目のレパートリーが固定化されているのを残念に思うという主旨の記事を読んだが、筆者の思いもまた然り…。
 国立劇場主催公演はほかに、11月恒例の<舞の会>が昨年44回を迎え、3月恒例の<素踊りの会>が今年24回を迎え、一番遅くにスタートした8月の<花形・名作舞踊鑑賞会>もすでに昨年で9回目。また4月恒例の<明日をになう新進の舞踊・邦楽鑑賞会>は今年35回目で特別公演が開催された。そして、今年は新しく<伝統芸能の魅力>として雅楽・声明・邦楽に日本舞踊を加えた4つのジャンルで試みられる。そのチラシに「"難しそう、高尚なイメージで興味はあるけど近寄りにくい…"、伝統芸能というとそのように感じる方は少なくないかもしれません。(中略)多彩な魅力に満ちた日本の伝統芸能に、気軽にふれて、親しんでいただく新企画です!(後略)」とある。昨今、日本では伝統芸能が危機的な状況に陥り、その打開策の一つとして身近な魅力を提供する場を設けているが、過去を振り返り、"伝統とは何か? 何を継承するのか?"を再検証することも忘れてはならない。それを実際の舞台で実現し得るのは、国立劇場主催公演のみか。希望をつなげたい。
(『日本照明家協会雑誌』№529、平成26年7月1日)

■日本舞踊界のサラブレッド達
 昨年11月末、東京・日本橋浜町の明治座で2日間にわたり、日本舞踊界のサラブレッドというべき若手舞踊家5名と播磨屋・萬屋・明石屋の若手歌舞伎俳優4名とが競演した舞踊公演が開催された。7演目を上演、興行ベースの舞踊公演の可能性を拡げ、藤間勘十郎の底知れぬ能力を窺わせた(11月27・28日、「明治座花形舞踊公演 藤間勘十郎プロデュース」)。
 まず勘十郎ほか尾上菊之丞、花柳芳次郎、市川ぼたん、中村江梨のセレクトがいい。宗家藤間流八世宗家、尾上流四代家元、花柳流四世宗家家元花柳壽輔愛孫、故・十二代目市川團十郎(市川流四代目宗家)愛娘、故・七世中村芝翫(中村流七代目家元)愛孫という現宗家・家元と未来の家元らによるメンバー、しかも勘十郎の世代を最年長とし、後はみな平成生まれのフレッシュさ。
 圧巻は2日目の大喜利、「来宵蜘蛛絲」。蜘蛛の精(勘十郎)が次々と小姓、座頭、傾城に変化し病身の源頼光(中村歌昇)に近づくが、見破られて正体を顕し、蜘蛛の糸を捲き散らすというもの。それに家臣の坂田金時(中村種之助)、碓井貞光(中村隼人)が絡む。この大時代を素踊り形式で上演し、たっぷりと見応えある舞台にしたのは、ワキを固めた歌舞伎若手たちの役を心得た格好よさと、役の性根を掴んだ上で顔の筋肉(表情筋)から変わるような勘十郎の見事な変身ぶり。前髪も役に合わせスタイリッシュに極める。これまでに藤間勘右衞門(尾上松緑)と組んで素踊りの「将門」や「関の扉」を上演してきたが、そういう経験を積んでこそ。1日目の大喜利も素踊りの「六歌仙容彩」で、屏風を基調とした舞台転換に様々な演出を凝らし、舞踊家5人が7役(遍昭・康秀=菊之丞、業平=芳次郎、小町=江梨、喜撰・黒主=勘十郎、お梶・小町=ぼたん)を踊って通した。
 1日目は序幕の「操り三番叟」(三番叟=歌昇、後見=隼人)、中幕の「三社祭」(善玉=種之助、悪玉=大谷廣松)とも素踊りだが、躍動感に溢れた歌舞伎舞踊で満ち足りた。2日目は宗家藤間流のみ上演される長唄「歌舞伎草紙」(十四世杵屋六左衛門作曲)で幕を開ける。阿国山三伝説に基づき、出雲阿国(江梨)の念仏踊りに惹かれて名古屋山三(ぼたん)の亡霊が現れ、共にかぶき踊をはじめるうち、いつしか山三が消えていくというもので、さながら江戸時代の肉筆彩色の歌舞伎草子の類を見るようなきらびやかさであった。ぼたんは宝塚男役の、江梨は娘役の、それぞれ魅力を湛え、スター性の遺伝子を垣間みる。続いて菊之丞による「一人景清」はいつものシャープな素踊り。
 今回筆者がことに注目していたのは、次の花柳芳次郎の「夢殿」。二世花柳壽輔(壽應)会心の作「夢殿」を若い芳次郎がどのように取り組むか…。そういう未来への期待感があった。幕開きは舞台中央のサスに胡座をかいて瞑想にふける姿が浮かび上がる。#夢殿の」で後向きになって両手の甲を反らし軒先が反り上がった夢殿特有の屋根の形をみせ、また#静かに御声は」で合掌し、具象性をも純粋舞踊として昇華した振付手法に本作の精髄がある。約17分の曲を10分に短縮しての上演だったが、芳次郎はすこぶる真剣に振りの一つ一つを誠心誠意を込めて表現していた。
 話は舞台から逸れるが、サントリー美術館の「天上の舞 飛天の美」展へ最終日の1日前に駆け込んだ(1月12日)。宇治平等院鳳凰堂の国宝《雲中供養菩薩像》が修理を終え、一挙に14躯が間近で見られる又とないチャンスなので、入場までに行列が出来るほどの大盛況ぶり。遠い平安時代の造形へと誘う企画が人心を掴んだわけだが、「夢殿」にも雲中供養菩薩を思わせる振りがある。壽應はこの「夢殿」について「夢殿の屋根のなだらかな線を頭に描きながら、夢殿の美しさを現わそうと念願しましたが、観客がそれを感じて下さったかどうか、私は知りません。」(『二世花柳寿輔』)という、謙虚さがにじむ言葉を残されているが、私は「夢殿」を観る度にそれを感じ取っている…。
 さて、勘十郎、菊之丞の耀かしい今の活躍は言うまでもなく、ぼたんも国立劇場主催公演では「近江のお兼」「吉野山」の静御前で話題をさらい、江梨も日本舞踊協会新作公演「走れメロス」の花売りの少女役でデビューを飾った。そのようななか、まだ未知数とも言えるのが現役大学生の芳次郎か。
 その芳次郎が明治座公演のちょうど1ヶ月前、「花柳流流祖生誕二百年祭 三世宗家家元七回忌追善 舞踊会」で二世壽輔振付の「小鍛冶」に挑戦した(10月27日夜の部、歌舞伎座)。三条小鍛冶宗近(壽輔)が御剣を打つ相槌を得るために稲荷明神に祈ると童子姿の稲荷明神(芳次郎)が現れ、剣の威徳を説いて加護を約束する。すると稲荷明神が出現し、宗近の相槌となって御剣を打ち上げ、勅使(片岡我當)に捧げるという大曲(間狂言に花柳輔太朗・花柳基・花柳小三郎)。前場は清澄な出と幽玄な舞も無難にこなし、後場は早笛で白頭に法被を着た稲荷明神が槌を持って出て、勇ましく宗近と槌を打ち合わせる。その金床を打つ音は古代から今日まで脈々と続く刀鍛冶の神韻縹渺たる響きである。先立つ記者会見で四世宗家家元から後継者の指名を受けた芳次郎だが、気合いのこもった「小鍛治」でその存在を強く印象づけた。これから先、世阿弥の説くところの「動十分心 動七分身」(『花鏡』)の境地を追い求めて歩んで欲しい。
 また、後見人となる姉のツルは「京鹿子娘道成寺」を道行から鐘入りまでを通し、丁寧な表現で明快に踊り抜いた(10月26日昼の部)。当の壽輔は、両日昼夜の序幕に流儀の若手男性舞踊家による「やなぎ」の、若手女性舞踊家による「風流花づくし」の、各群舞に華を添えたほか、 常磐津の「山姥」を素踊りで踊った(10月26日夜の部)。今回はお辞儀に始まり、お辞儀に終わる行き方で、万感の思いをこめたかのような神妙な趣と父・芳瞠を彷彿とさせる円やかな踊りで新装になった歌舞伎座の舞台空間を埋め尽くした。
(『日本照明家協会雑誌』№525、平成26年3月1日)

□粋をきわめた初代菊之丞追善
 「五十回忌追善 初代尾上菊之丞を憶ふ会」が東京三宅坂の国立劇場大劇場で開催された(8月29日15:00、8月30日11:00、16:30の3回公演)。全演目は31番、初代尾上菊之丞の振付作品(18演目)を中心に粋をきわめた舞台の数々が繰り広げられ、追善として故人を偲びつつ、著名な女優や東京新橋、京都先斗町の芸者・芸妓衆等の粋な着こなしに華やぐ会場。舞台といい、客席といい、日本舞踊の世界の華やかさ、日本美のゆかしさに酔いしれた2日間であった(筆者は20演目を披見)。
 会主の尾上墨雪(前・三代家元二代目菊之丞)と現・四代家元三代目菊之丞の舞台は後に触れるが、まず菊真理(新橋 まりゑ)の梅川と菊以乃(新橋 杏子)の忠兵衛による素の「梅川」の舞台に堪能した。尾上流の公演は前回もそうであったが、朝倉攝美術のオリジナルの屏風を効果的に使い回す工夫がみられる。そのオリジナルの屏風が贅の限りを尽くしている。今回は流儀の菊をモチーフに流水紋をあしらい、金銀の砂子をまいた料紙の趣。そこに水茎ならぬ、花容をしたためていくという意図か。「梅川」はオキを聞かせ、#落人の為かや今は」で左右に屏風が割れると一連の屏風のうち墨流しのような銀の砂子の絵が現れる。それが新口村の雪の情景と重なり、そこに佇む梅川と忠兵衛・・・。二人は淺紫の縞と深紫の霰小紋の着付、黒地と白地にそれぞれ金箔を施した帯。江戸好みの衣裳で忠兵衛や梅川のクドキを情感豊かにみせ、定式の装置・衣裳さながらの演技をたっぷりとみせた。
 いっぽう、きく(先斗町 市園)は「紀州道成寺」(初代菊之丞振付)を幽婉に演じた。新規の白松羽目(金井勇一郎美術)は色を消した幻想的な雰囲気で道成寺物の妖艶さと重厚さを出し、きくの奥ゆかしさを一層引き立てていた。能力との問答のあと物着で唐織を腰巻きにし、烏帽子を着けて#あれにまします宮人の」で白拍子の舞となり、乱拍子・急の舞から鐘入り。鐘が上がると黒頭に隈取、白地に鱗銀箔置きの本格的な後シテの扮装。最後は住僧に祈り伏せられ、#日高の川波」で振り上げた打ち杖を後ろに倒し、花道のスッポンに沈んでいく。清元「梅川」も長唄「紀州道成寺」も初代菊之丞や二代目西川鯉三郎らによって洗練された演出や振付がなされた近代的な作品。今後もこれらの情趣は大切に守っていきたい。
 粋筋の名手らによる舞台とは対照的に菊見の「斧琴草」(初代菊之丞振付)は舞踊家の舞台として筆者に印象づけた。昭和23年、初代家元六代目菊五郎から二代目家元を継承した初代菊之丞の披露公演で、流舞として発表された作品だけに流儀の重鎮の一人・菊見の意気込みが伝わる。#大盃に」の猩々の乱れもさすが。さて、初日の序幕を飾ったのは流儀の最長老・菊音の「松廼羽衣」(初代菊之丞振付)。御年90歳と聞く。墨雪の伯龍を相手に古典の格を保って矍鑠たる天人を踊った。しかも素踊で薄鼠の着付に織の帯をお太鼓に結んだ姿は何とも粋。また、初代菊之丞の子飼いの弟子・菊紫郎の荻江「山姥」(初代菊之丞振付)は山中(ホリゾントに鳥の子屏風を中開きで飾って表す)で月を眺めている後ろ姿に始まり、月明かりの下(月は出していない)、#待つ宵は」で遊女のやるせなさを漂わせ、#一樹の蔭や一河の流れ」で山姥の気迫が激しくなるが、その円やかな踊りは初代菊之丞も然もありなんと思わせた。
 本会の照明はすべて北寄﨑嵩による。序幕の「松廼羽衣」にみる海原の空と羽衣の格調を融合させたような落ち着いたホリゾントのブルー、「山姥」の月の光を暗示させる妖しげなほの暗さなど、決して舞踊の邪魔にならず自然に舞台に溶け込んでいる。
ところで、初代菊之丞は昭和39年に55歳で他界、それから50年。まだ若年・壮年であった初代からの弟子たちは、なぜこのように初代の振付を精確に継承できたのだろうか・・・。たとえば、この「山姥」は菊音の譜書きを元に菊紫郎が踊ったものだそうだが、菊音が初代の気迫などを教えたのだという。いずれにしても、振りや型とともに精神をも伝えていこうとする伝統芸能に携わる人々の強靱な意思には驚かされる。
 それは初代菊之丞のものばかりではない。感心したのは紫の「春興鏡獅子」。前シテの弥生の初々しさ、上品さはこの上もない。藤色の音羽屋系の振袖は女性舞踊家らしくやや赤みがかっていたろうか。金地に菊模様の織の帯を矢の字に結び、右肩には羽根先を心なしか多めに出し、それも可憐さを添えた。筆者の知る限りでは、前シテの踊りは、目遣いはじめ一挙手一投足まで、六代目菊五郎からの型を真摯に取り組んで踊り抜いた。
 初日のトリは宗家の七代目菊五郎を迎え、墨雪・菊之丞の三人立ちの「青海波」(初代菊之丞振付)。オリジナルの屏風を飾り、菊五郎を芯にした三人による舞台で日本の海の美しい四季を端正に描いた。二日目の昼のトリは流儀を担う若き家元の菊之丞が「泰平船盡」(初代菊之丞振付)を爽やかに凛々しく踊り、そして大喜利に五代目菊之助と二人で義太夫の「式三番」(三代目菊之丞振付)を踊って本会を締めくくった。「式三番」はルントホリゾントの前にオリジナルの屏風をホリゾントなり(半円形)に飾り、正面に出囃子(藤舎呂船、名生ら)が並ぶ。その大舞台で丸みのある菊之助の踊りとシャープな菊之丞の踊りとがダイナミックに出会い、式三番に込められた祝福性を発揮し、未来への鼓動をしっかりと鳴り響かせた。
 今、筆者は新国立劇場のビントレー芸術監督の言葉を思い出している。「観客は、歴史の勉強をするために劇場に来るのではない。観客は、ダンサーとともに伝統の継承の現場に立ち会う存在なのです」(朝日新聞、2013.2.14夕刊)。六代目菊五郎に始まり、初代菊之丞、墨雪、三代目菊之丞へと伝統は継承されていく。が、古典であれ、常に創造の精神を忘れていない。これが、この流儀の流是なのである。
(『日本照明家協会雑誌』№520、平成25年10月1日)

■伝統をつなげる 日舞協会公演
 公益社団法人日本舞踊協会主催の日本舞踊協会公演が今年もまた2月に開催された(22-24日、国立大劇場)。第1回は日本舞踊協会設立1周年を記念した豪華な公演(昭和31年11月27-28日、歌舞伎座)。以来57年間、年1回のペースで催す定例公演となった。筆者は第17回(昭和49年2月)からの鑑賞にすぎないが、3日間昼・夜各10番前後の番組を家元や重鎮クラスが覇を競いあい、日本舞踊全盛の時代が反映されてきた。そうこうして、数年前より番組が各5番に縮小され、さらに今回は面目一新し、昭和の名作舞踊をちりばめるなど企画性の高さを狙った。かつて綺羅星の如く並んだ振付の名人たち―、先人の芸の遺産を流派を超えて次世代が継承していこうというのである。(22・24日所見)
 今公演の隠されたキーマンは今は亡き名優の“六代目(尾上菊五郎)”。歌舞伎の芝居はともかく、舞踊に限って言えば古典の踊りを新演出で上演し、作品に新たな息吹を吹き込んだ。「保名」しかり、「藤娘」しかり、である。今公演では六代目の定番であった「羽根の禿」引き抜き「浮かれ坊主」を花柳基が踊ったが、筆者の都合で見逃した(23日)。すべては言い尽くせないが、渥美清太郎いわく「結局、菊五郎の傑作舞踊といえば、やはり「鏡獅子」に「道成寺」ということになる。」(『六代目菊五郎評伝』)とあるように六代目の代表作は「娘道成寺」と「鏡獅子」に極まったり。その「鏡獅子」を初日(22日)の大喜利に次代を担う舞踊家の一人、西川箕乃助が奮闘し次へのステップを踏んだ。今回は次代を担う舞踊家たちが古典の大作を上演するという企画意図もあった。山村若は和事の「曲輪■(作字:文+章)」を山村光の夕霧を相手に上方の味わいを出し、藤間蘭黄らは「蜘蛛絲梓弦」を大時代で演じて健闘した(23日に花柳寿楽らの「勝三郎舟弁慶」)。
 六代目の偉大なところは自分の芸が天才的であるだけではない。じつに才能ある多彩な門弟を育成したことが後世に大きな影響を及ぼすことになる。この番組も半数以上がその影響下にある。「鏡獅子」「羽根の禿」「浮かれ坊主」は言うまでもなく、「彦市ばなし」(22・23・24日)「お力」(23日)「雪月花」(24日)振付の二代目西川鯉三郎、「恋灯篭」振付の初代尾上菊之丞(23日)、「勝三郎舟弁慶」(23日)「空の初旅」(23・24日)「花見奴」(24日)振付の二代花柳壽輔(壽應)、「豊後道成寺」振付の二世藤間勘祖、そして壽應の愛弟子であった花柳寿南海の「稲舟」(22日)、二世勘祖から伝授を受けた西川扇藏の「時雨西行」(江口の君は西川祐子)など。
 道成寺物はいつの時代も憧憬の的で新作も数多い。今公演では流祖猿若清方振付の「かしく道成寺」をリサイタルで好演した吾妻徳彌が再上演し(23日)、「豊後道成寺」を中村梅彌が初役で上演した(24日)。さて、六代目自身は歌舞伎俳優であったので六代目の舞踊の振付は二世勘祖が任された。「豊後道成寺」は抑も浄瑠璃の清元志寿太夫(その美声を六代目に引き立てられた)と長唄の今藤長十郎という浄瑠璃と長唄の異色の組み合わせによる新曲で、その後に中村雀右衛門が舞踊として初演(第3回雀右衛門の会、昭和57年3月27日)。花子に扮した雀右衛門が卵色の着付に替わった感動を今も忘れない。ということもあり、個人的には梅彌の「豊後道成寺」を心待ちにしていた。さすが女方の名門、父・中村芝翫の芸を受け継ぎ、女性でありながらクドキでみせた“女の恥じらい”も父譲りで、表現に緊張感は残ったものの、道成寺の世界が馥郁たる香りのように広がった。考えてみれば、芝翫も六代目から厳しい指導を受けた一人だった・・・。
 「空の初旅」も心待ちにしていた作品の一つ。これは、若い頃六代目のもとで俳優修業を積んだ二代壽輔の奇想天外なヒット作。江戸末期、空飛ぶ器具を発明した岡山の傘屋の実話に着想し、傘を差して空を飛行し江戸の吉原に着陸したという内容(第17回花柳舞踊研究会初演、昭和8年11月30日)。小鍛治もどきの神聖な板羽目作りの仕事場の書割が半分に割れて一気に飛平は雲上へ。ところが、初代壽輔振付の「奴凧」(五代目菊五郎初演)が終始宙乗りでみせた裏をかき、傘を差し金に付け、手足が自由に動ける振付がミソ。空中飛行の間、風神雷神らと出会い、奴凧とおかめ凧に迎えられ、最後は吉原仲之町の華やぎで終る。飛平役の花柳寿太一郎は袋付の似合ういなせな持ち味があり、最近力量を発揮してきた精鋭(ダブルキャストで23日は西川扇与一)。
 ところで、この公演の肝心要のキーマンはこれを企画した四世花柳壽輔。近年の非常に深刻な日本舞踊の状況に危機感を強く抱き、それを打破しようと企画した昨年暮れの「日本舞踊×オーケストラ―伝統の競演―」に続く第二弾となった。千秋楽まで客席は2、3階もほぼ満席の盛況を呈した。やはり、四世壽輔の決然たる気迫はすごい。それに知的な洞察力の裏付けがある。決して大げさな言い方ではないのは、この公演の成果がものを言うだろう。何よりベテランから若手まで活き活きと踊り、慎重な舞台を披露してくれた。
 一つエピソードを紹介しよう。四世壽輔が若い頃、伯父・壽應に「どうしたら振付師になれますか?」と尋ねたら、「たくさん作って、なるべく多くの人に見てもらいなさい。作品を発表することからスタートしなければいけない。そして、何度でも上演が繰り返されてこそ、その作品は後世に残っていくのです。」と答えたという。この教えの暗示することはかけがえのないものだ。
 日本舞踊家が築いてきた財産をどのように次代に継承していくか? 六代目の「保名」新演出(大正11年)から90年以上経った今日、古典とは何か、伝統をいかにつなげていくか。この公演を機に問いかけてみたい。
(『日本照明家協会雑誌』№514、平成25年4月1日)

□芸の遺産を継ぐ 三津五郎と徳彌
 十代目坂東三津五郎、彼の一分のブレもない“腰”と強靱でバネのような肉体、そして格調高い豊かな表現力は今誰しも認めるところである。そんな三津五郎を特集にした「江戸ゆかりの家の芸」が芸の真髄シリーズ第六回として、東京三宅坂の国立大劇場で開催された(8月22日、主催:NHKエンタープライズ「芸の真髄制作委員会」・東京都東京文化発信プロジェクト室「東京発・伝統WA感動実行委員会」)。前評判は上々でチケットはソールドアウト、「観客が入らない」と嘆く日本舞踊界の懸念も何処吹く風とやら・・・。
 今年で初舞台を踏んで50年という節目の年に、七代目の当たり役「流星」「喜撰」と素踊りの「楠公」(三津之丞振付)、自ら振り付けた「大江戸両国花火」という、盛り沢山な番組は充分堪能できたとは言え、欲を言えば三代目ゆかりの踊りがないのはやや寂しい。坂東流は江戸の文化文政期、変化舞踊の盛んであった頃の歌舞伎俳優三代目三津五郎を流祖とし、七代目・八代目・九代目三津五郎を家元に戴いた歴史的に由緒ある日本舞踊の一流派である。当代の三津五郎は衣裳付きの踊り(役者の踊り)と素踊りの踊り(舞踊家の踊り)を仕分けられる、今日の数少ないうちの一人。序幕の「楠公」は楠木正成と正行父子の桜井の駅での惜別と湊川の合戦を二段構成にしたもので、三津五郎は初役ながら、黒紋付に袴の礼装による素踊りで凛とした潔い武士の心を描出した。大薩摩のあとの合戦の緊迫感と騎馬の巧みな振りも圧巻。前段での菊水の陣幕を描いた背景に後段に入ると飛散した刀を描いた紗幕が降り、静から動への瞬時の変化が効果を挙げた。
 “踊りの神様”こと七代目が復活した人気演目に「傀儡師」や「流星」がある。「傀儡師」は三代目初演の踊りだが、「流星」は幕末の四代目市川小団次が初演したもの。小団次の再演はなく、四代目中村芝翫や五代目尾上菊五郎らが上演したが、大正七年に七代目が初役で上演して以来(この時に曲名を「夜這星」から「流星」に変更)、七代目の得意芸として知られる。七代目は亭主、女房、子、婆の雷四役に角を使うのを特色とし、当然ながら今回も角で四役を巧妙に踊り分けたのはさすが。「喜撰」は八代目、九代目、そして当代の襲名披露演目になったほどの大和屋の家の芸。洒脱さと円やかさに加え、芸の品格を感じさせる逸品。祇園のお梶は尾上菊之助。ほかに中堅若手の女流7人による、両国の川開きの花火を主題にした「大江戸両国花火」を約10年ぶりに再演し、江戸情緒の舞台を美しく粋な素踊り群舞で表現した(以上、照明プラン 池田智哉)。
 三津五郎は日本舞踊の確実な伝承者として世間の耳目を集めている。この公演はその試金石ともなるものであり、将来へしっかりと受け継ぐべき道筋を示した。
 もう一人、先代の名作を受け継いだのが吾妻流六代目家元の吾妻徳彌。徳彌の祖母・吾妻徳穂は一代で華麗な舞台芸を築き上げた舞踊家で、その芸の遺産の一作「藤戸の浦」を上演した(第18回徳彌の會、9月28日、国立小劇場)。作者は有吉佐和子で、有吉ならではの冷静な洞察で能「藤戸」を原作に「戦争と平和、為政者と庶民との対照で取り上げ」(初演時の有吉の言葉)、語りかける主題の設定が見事な作品(野澤喜左衛門作曲)。藤戸の戦いの先陣で功を賜った佐々木盛綱の故事をもとに、能では浅瀬を教えた漁夫を舞踊では浦の子に変え、わが子を返せと迫る浄瑠璃のクドキの切迫感、母親の物狂いで終わる舞踊性が能にはない展開となる。初演は、徳穂の母親と浦の子の一人二役、四世藤間勘右衞門(二世尾上松緑)の盛綱(昭和44 年第5回徳穂の会、筆者は昭和56年第18回徳穂の会での初演時の配役で竹本越路大夫・鶴澤清治の演奏による上演から鑑賞)。孫の徳彌も事あるごとに上演を繰り返し、今回は盛綱に初演時の四世勘右衞門の孫・六世勘右衞門(四世松緑)との共演が実現して初めて盛綱役が若武者として描かれた。
 一つ一つの言葉に重みがあるように、振付(四世勘右衞門・徳穂)が精緻なのがこの作品を名作としての評価を不動のものにした。たとえば#恨みつらみの百万遍」でわが子を殺された母親が盛綱へ怒りをぶつける感情と床に叩きつける扇子との同期、そして#次第々々にうちうなだれ」て先非を悔いる盛綱の心情を投影し座り込んだ虚脱状態から母へ自分への仇討ちを促す展開。そういう変化を絶妙に織り交ぜた充足感があり、祖母より伝授された徳彌は自家薬籠中の役と言ってよく、今回は母親役に一層の円熟した演技がみられた。初役で盛綱役を演じた勘右衞門は源氏の猛々しい武将のニンに合い、時にみせる眼光の鋭さが乱世を生き抜いた人間の強さと奥深さを表現していた。勘右衞門の「祖父と徳穂先生に続いて、徳彌さんと私で同じ演目を勤めさせて頂けることは、伝統芸能である日本舞踊の面白さであり、受け継がれる芸の象徴だと思います。」(プログラムより)には正鵠を射た言葉として共感する。
 ほかに羅城門の鬼伝説を素材にした創作「白蓮耨多羅」(瀬戸口郁作・演出、朝倉攝美術、沢田祐二照明、今藤長龍郎作曲、堅田新十郎作調、花柳輔太朗振付)を発表し、今までの徳彌にない新しい女性像の開拓に意欲をみせた。ことに、美しい遊女の白蓮から老婆の白蓮(富沢亜古・文学座)へとよどみなく吹き替え、ラストシーンは白蓮の魂の昇華を荘厳に描いて終わった。
(『日本照明家協会雑誌』№509、平成24年11月1日)

□舞台に向き合う一途さ 芸道の「守」を学ぶ:松緑・典幸・安寿子
 昨秋から暮れにかけ、歌舞伎と日本舞踊に若手と新人の三人の活躍がみられた。そのうちの尾上松緑と花柳典幸は、かつて筆者が本誌で取り上げた二人の一年後でもある。
 最近、歌舞伎俳優・尾上松緑の健闘ぶりが好評である。歌舞伎舞踊に絞って述べるが、「吉野山」の佐藤忠信実ハ源九郎狐と「茨木」の伯母真柴実ハ茨木童子の真摯に取り組む姿勢に好感度と将来への期待が高まっている。松緑は日本舞踊藤間流の家元・藤間勘右衞門でもあるから、振付師はその点を心して振を移したに違いない(振付=「吉野山」藤間紋寿郎、「茨木」四世花柳壽輔)。丁寧な教え方が舞台に反映され、細心の注意が払われた舞台の成果へとつながった。たとえば、「茨木」について児玉竜一氏が「動きと台詞に求められる抑制が、とかく流れがちな演技を引き締め」(朝日新聞評、12月15日夕刊)とあるのは、壽輔が演じる「茨木」の演技で際立った特徴を示してもいる。
 「道行初音旅 吉野山」(吉例顔見世大歌舞伎、11月6日昼の部所見、新橋演舞場)は七世尾上梅幸十七回忌・二世尾上松緑二十三回忌追善として上演された。静御前は七代目梅幸を祖父に持つ尾上菊之助。静御前の扮装は打ち掛けの赤姫で品良く美しく、忠信は車鬢に大きな源氏車の縫いがある江戸褄の着付。忠信の扮装には隈を取らず茄子紺の着付になる(九代目市川)団十郎型もあるが、松緑家では曾祖父の七世松本幸四郎から、九代目の弟子ではあったが、似合わないこともあって必ず隈を取ったというし、また祖父の二代目松緑も通しでは団十郎型ではやらなかったという(『松緑芸話』)。恋人ではないので横から入らなければいけない#女雛男雛」の並び方、切り株(鎧・鼓を載せ義経に見立てる)と忠信と静が正三角形(舞台の間口により、底辺の長い二等辺三角形になる)を描く#沖の石」辺りの座る位置、#思いぞ出ずる」で目をつむり#壇の浦」で目を開ける八島の合戦の物語など型をしっかりと受け継ぎ、時代物として骨格の堅固さがあった。
 新古演劇十種の内「茨木」(十二月歌舞伎公演、12月17日昼の部所見、日生劇場)は七世松本幸四郎襲名百年の記念であった。一昨年の「勘右衞門の会」での「綱館」の上演が良い経験になったのであろう。本来は曾祖父・七代目幸四郎より綱役の家系だが、今回は渡辺源次綱には同じく曾孫になる市川海老蔵が扮し、松緑は真柴を演じた(七代目も真柴を演じている。なお、有名な綱が口を開けて虚空を睨む幕切れの見得は七代目が考案)。わざと老けこませない足の運びや腰の屈め方がかえってよく、#ためつすがめつ~面色変り」では迫力をみせ、後シテが豪快であったのはさすが。
 もう一人の花柳典幸は「花柳典幸の会」(11月8日、国立劇場小劇場)で「綾の鼓」と「一人の乱」を熱演した。「綾の鼓」(福地信世作詞、四世杵屋佐吉作曲、二代花柳壽輔振付、田中良美術)は二世壽輔(壽應)の代表作で、その格調と洗練さは今日に厳しく継承されている。菊作りの、しかも足に障害のある男が美しい女御に恋心を募らせ、鳴らぬ鼓に成らぬ恋を掛け、綾布を張った鼓を夢中に打ち続けながら池の底に沈んでいくという悲劇を、典幸は初役で、気を引き締めて演じた。舞台上手の桂の枝が徐々に上がり、照明が波のシルエットで水底になるという手法が昭和初期の斬新さを伝えている。
 「一人の乱」(海津勝一郎作、杵屋巳太郎作曲、堅田喜三久作調、二世花柳壽楽振付)は祖父・二世壽楽の代表作。7、8年程前に今回と同じく兄・三世寿楽(当時・錦之輔)が源頼義役で自身が安倍ノ宗任役を勤め、今回は二度目になるが、いっそうの舞台成果を挙げていた。平安中期、東北で反乱を起こした俘囚(古代律令国家に服属した蝦夷)の安倍一族の宗任と朝廷から追討を命じられた鎮守府将軍の頼義。二人の信頼、宗任の故郷に対する想い、逆賊として一人矢に討たれ死んでゆく宗任、その心の変化をきめ細やかに描いた素通り。酒宴の連れ舞から#あれは北上衣川」から目をつむり、#何と美し ただ尊けれ」で故郷への想いが最高潮に達し、宗任が頼義に白刃を突きつけるまでの展開は宗任の心中をよく描写し、説得力のある演技であった。期せずしてか、今回は2作ともマイノリティーを扱った題材だったのは、日本舞踊に打ち込む自らの立場と心境が孤高を求めているのかもしれない。指導にあたった四世壽輔がプログラムに述べているように、「何れは舞踊界での特異な逸材」としての期待に応えて欲しい。
 新人として、国立劇場開場四十五周年記念の「舞の会-京阪の座敷舞-」(11月25日、国立劇場小劇場)に昨春大学を卒業したばかりの井上安寿子が初登場し、舞の会に清新の気を吹き込んだ。「八島」をダイナミックに舞ったのは、曾祖母・四世八千代(愛子)の「長刀八島」、母・八千代の「長刀八島」にみる微動だにしない動きを着実に継承している証で、京舞井上流の後継としての成長を楽しみにしたい。言うなれば、大ぶりな舞は、以前復元された映像で見た三世八千代の舞ぶりを髣髴させるものがあって、また頼もしい。
 三人はいずれも歌舞伎、日本舞踊、京舞の名門の生まれ。伝統芸能には「守・破・離」という言葉があり、いまだ三人とも師や先人、流派の型や技を確実に正しく身につける段階にある。しかしながら、この三人に共通して言えることは、名門という環境に甘えず、厳しい芸の修業に打ち込む精神がみられることであろう。
(『日本照明家協会雑誌』№500、平成24年2月1日)

■扇藏・箕乃助、墨雪・菊之丞、寿楽 素踊でつなぐ、それぞれの継承の形
 年間を通じ9月から11月にかけ、日本舞踊のリサイタルや公演は集中する。10月から文化庁芸術祭が開幕するのでそういう気運も相俟ってのことかもしれない。今年は少し若返りが図られ、久しぶりに活気づく秋を迎えた。それらに先駆け、世代の異なる3公演に注目した。キーワードは「継承」と「素踊」。3公演ともその発信の源を尋ねると、踊りの神様<六代目尾上菊五郎>にたどり着くのだから、それは偶然なのか必然なのか・・・。
 まず「尾上流四代家元継承 三代目尾上菊之丞 襲名披露舞踊会」(8月29~31日、国立劇場大劇場)。尾上流はまさに<六代目>が戦後に創流した流派。初代家元は<六代目>で二代家元が初代菊之丞。初代が急逝し、二代目を継いだ三代目がこの度「墨雪」と名を改め、子息・青楓が「三代目菊之丞」を名乗り四代家元を継承した。現・宗家は七代目菊五郎。その襲名披露が8月末、盛大に開催された。一門のほか歌舞伎俳優、東京新橋・京都先斗町の芸妓らによって全5公演50演目が上演され、当主の墨雪と青楓改め三代目菊之丞は5公演ごとに出演、三代目の姉・紫も3演目に華を添えた。
 高雅な流風に新鮮な感覚を盛り込んだ名振付で知られる初代の作品や武将の生き様を素踊りで創作する二代目、さらに二代目の路線を舞踊劇という形式で試みる三代目。今回の襲名公演では三代目の意欲作「梅雨将軍信長」に初演と同じく父がつきあい、再演したのが印象的。新しい継承の儀式の一片であった(初演は本稿で取り上げた)。ほかに「四季三葉草」(二世藤間勘祖振付)では翁に藤間勘右衞門、千歳に藤間勘十郎、三番叟に三代目の三人揃い踏みが見事。ちなみに二世勘祖(前名 六世勘十郎)も昭和の名振付師で<六代目>から「舞踊家は素踊りで」と言い渡され、生涯素踊りで通した。三世勘祖と墨雪の「漁樵問答」(二世勘祖振付)、菊五郎と菊之丞の「松の翁」(初代菊之丞振付)は三日間の掉尾を飾るにふさわしい豪奢な素踊りであった。ほかに墨雪の「三成」(再演)、初代菊之丞が復活した「二人椀久」(松山=尾上菊之助、椀久=菊之丞)、<六代目>が洗練した「船弁慶」を素踊りで菊之丞が人気歌舞伎俳優と共演(弁慶=市川染五郎、義経=尾上右近、舟長=市川亀治郎ら)したのも豪華(全公演 北寄﨑嵩照明、一部 朝倉摂美術)。 続いて「西川扇藏リサイタル」(9月13日、国立劇場大劇場)。日本舞踊界の重鎮、西川流十世宗家西川扇藏(重要無形文化財保持者)の24回目のリサイタルである。スタートは昭和33年、平成3年からの「素の会」を合わせると都合35回にものぼる。西川流は宝暦期から名を著す江戸歌舞伎の振付の名家。「扇藏」名義は代々実力者が継承し、世阿弥の「家、々にあらず。次ぐをもて家とす」(『風姿花伝』)を今日に死守する。母・九世宗家の夭逝で満七歳で十世を襲名したので戦後には六世勘十郎の指導を受けてきた。そのような家柄からも古典派で西川流には二世から五世振付の傑作が伝承されるいっぽう、青年期より新作を発表し、文化庁芸術祭では「重盛屏風」で初受賞(連続4回受賞)、「七騎落」では芸術選奨の栄誉に浴した。
 昨年の「素の会」で箕乃助に「重盛屏風」を伝えたのに引き続き、本年は「七騎落」(海津勝一郎作、杵屋五三吉作曲)。初演から扇藏の土肥次郎實平、箕乃助(当時 均)の遠平で上演を重ねてきた名作。今回は實平に箕乃助、その子遠平に新・菊之丞。以心伝心で父の想いや芸の奥義をどのように受け止めてきたか。興味を湧かせた一番であった。
 次の演目は「空蝉-佐渡の世阿弥-」(生田盛作、五世鶴澤燕三作曲)。世阿弥の不遇の晩年、孤独に耐える心境を素踊りで描いた秀作。「七騎落」(昭和59年初演)が“動”の素踊りとするならば、「空蝉」(昭和62年初演)は“静”の素踊り--、歴史的人物の心象を思想的に追究してきた扇藏は求道者の威厳に満ちていた。白枠のパネルが幕開きの黒系色から#都を後に」で青系色(日本海か)に変わる仕掛の美術、変型の銀屏風が開いてオブジェ(洞窟か)となり後向きに屈んだ世阿弥が登場する演出も斬新(二演目とも有賀二郎美術、五明隆夫照明)。長女・祐子は一門の女性陣を率いて「旅」で序幕を飾った。
 三つめは「花柳寿楽舞踊會」(9月28日、国立劇場小劇場)。「寿楽」名義は花柳流初代家元花柳壽輔の俳名に始まり、現・寿楽の祖父が二代目壽楽を継承、当代は三代目。二代家元壽應(前名 二世壽輔)は<六代目>のもとで俳優修業し、壽楽もまた<六代目>の日本俳優学校に学んだという、<六代目>との関係は深い。
 さて、「夢殿」(佐佐木信綱作詞、四世杵屋佐吉作曲)は上演前から関心をもたらせた。「夢殿」自体、壽應の名品だが、これまで筆者が観ることのできたのは三世壽輔の、平たく言えば女性版「夢殿」で幕開きが尼寺・中宮寺の如意輪観音の姿に始まるもの。「夢殿」は昭和6年の花柳舞踊研究会で発表され、戦後に錦城斎典山(壽應の岳父、寿楽の曾祖父)の追善舞踊会で一人立ちの素踊りとして再演、今回が男性版「夢殿」の蘇演になる(四世壽輔補綴)。安座して瞑想する聖徳太子の姿に始まる演出とは聞いているが、夢殿の甍や飛天等の描写にも壽應の語る「舞踊の純粋性」(「夢殿のこと」 『二世花柳壽輔』所収)が活かされていたことが衝撃で、昭和初期に新しい舞踊の方向性を模索した壽應の情熱が伝わってきた。寿楽が「夢殿」を忠実に再現したことは、自らの初演において先人の創造の精神を重んじる姿勢として評価したい。ほかに初世壽輔振付「奴道成寺」。
 紙数がないので言い尽くすことは難しいが、たとえばバレエなどの世界とは異なり、同じクラシックでも日本舞踊は“道”の精神に導かれて歩む舞台芸術だということ。他の分野に憧れて興行性を狙った、安易な妥協はかえって“道”の妨げになるのではないか・・・。筆者は日本舞踊の良き舞台を観る度、つくづく思うのである。
(『日本照明家協会雑誌』№497、平成23年11月1日)

□壽輔 傘寿の会「我が舞の道」の豪華絢爛さ 紋寿郎 卒寿の「木賊刈」にみる無心の境地
 今春、日本舞踊初の大掛かりなエンターテインメントとしての公演が行われた。「花柳流四世宗家家元花柳壽輔 傘寿の会 我が舞の道」(3月31日、東京国際フォーラム ホールA)である。振付は壽輔自身、演出に「ベルサイユのばら」「風と共に去りぬ」で有名な宝塚歌劇団特別顧問の植田紳爾を迎え、美術に朝倉摂、照明に沢田祐二など各界の錚々たるスタッフ。当日は5000人もの観客で会場は埋め尽くされ、公演タイトルで象徴されるように一人の人生の縮図が一夜の夢幻(ゆめまぼろし)となって再現された。
 とはいうものの、未曾有の大震災に見舞われた直後であって復興支援チャリティ公演として開催されたが、「本日の公演を中止すべきか否か慎重に考えました結果、かかる時にこそひとときの夢のある舞台をご覧頂き力付けたいと云う事が、舞台に関わる人間の使命かと存じます。」(配布の挨拶状より抜粋)と・・・、主催者の心中を察するに余りあるものがある。それは本公演に限らず、多くの舞台関係者が直面した最大の心の痛みとなった。
 序幕は「祝典交響曲 鶴亀」(山田耕筰作曲、湯浅卓雄指揮)。幕が開くと、総勢100名を超える東京藝術大学出身の女子東音会とオーケストラの壮観たるバックにハッと息を呑む。長唄交響曲は今日でも瑞々しく、壽輔の王、そして二人の孫による鶴と亀(花柳ツル・芳次郎)に若手男性群舞が加わり、未来を寿ぐかの如く晴れやかであった。続く、「ザ・カブキ」(モーリス・ベジャール振付、黛敏郎作曲)は討入と本懐の場面を抜粋して上演。本作は東京バレエ団(佐々木忠次総監督)のレパートリーで、初演に際し壽輔にとっては振付に携わった芳次郎時代の思い出のあるもの。祈りと切腹の最期のシーンは折しも鎮魂と受け止めた。「耳無し芳一」も幕開きの林英哲の太鼓の響きが韓国伝統舞踊の僧舞(スンム)の太鼓が奏でる鼓動に通じ、舞台中央に琵琶を抱えた芳一(壽輔)が静かに座す。坂東玉三郎扮する平家の女人はオーラの輝きを放ち、幻想的な舞台となった。ガラリと気分を変え、「お座敷灯篭」では新橋・浅草・神楽坂の芸者衆50名が三浦布美子の唄、本條秀太郎の三味線で俗曲のお座敷舞踊を粋に披露。最後に坂田藤十郎念願の軍歌メドレーの再演は、藤十郎自らが士気高らかに扇子を振った。図らずもかな、前半の番組は“鎮魂の祈り”と“復興の生命力”とに重なり、それが多くの観客の心に届いたに違いない。
 後半の「傘寿春秋」(ダットミュージックオーケストラ演奏)では、宝塚歌劇団の名曲と花馬車カブキ・東宝歌舞伎の長谷川一夫お気に入りのレパートリーをメドレー形式で10曲披露。総合司会は鳳蘭。淡島千景・朝丘雪路らのタカラジェンヌのOG・現役20数名と、壽輔と共に東宝歌舞伎で活躍した林与一や長谷川稀世が出演。野村四郎の謡による壽輔らの「飛翔無限」で始まり、「さくら」「藤娘」「かむろ」(稀世・ツル)「あやめ」(淡島・壽輔)「波しぶき」(女性群舞)「花芒」(林・朝丘)「石橋」(花柳基・芳次郎)、そして二人合わせて160歳の「深川」マンボ(藤十郎・壽輔)で息の合ったところをみせ、最後に全員でフィナーレ。胸躍るショウタイムは和の魅力が満載であった。
 5月には、今年卒寿を迎える藤間紋寿郎が大勢の一門を率いて「第三十六回 藤紋会公演」(5月5日、国立劇場大劇場)を開催した。三世家元の藤間勘右衞門(七世松本幸四郎)から四世(二世尾上松緑)、五世(初世尾上辰之助)、六世(現・尾上松緑)の四代にわたって“をどりの道”に勤しみ、今は大師匠という名に恥じない日本舞踊界の長老である。その矍鑠たるや、昔の名人気質の踊り手や舞い手に相通じる精神的な強さを持ち合わせているのであろう。90歳の「木賊刈」(杉昌郎構成、藤間紋寿郎振付、長倉稠美術、五明隆夫照明)は無の境地に至り、多くの人にとって心の琴線に触れた舞台となった。
 長唄の「木賊刈」と言えば、二世花柳壽輔(壽應)が花柳舞踊研究会第7回公演(昭和2年5月、朝日講堂)で昔の変化舞踊をリメークし、「二人椀久」と同じように音楽的にも洗練されている。近年は二世花柳壽楽が晩年に好んで踊り、その名演も知られている。今回の「木賊刈」は、かつて紋寿郎自身が振りを付け、四世勘右衞門(二世松緑)によって上演されたものの蘇演になるという。花柳流の「木賊刈」とはまた異なった、藤間流の行き方にも興味を覚えた。平たく言えば、柔の「木賊刈」に対する剛の「木賊刈」である。
 もともと「木賊刈」は能の「木賊」に拠る。筋そのものは謡曲から離れ、長唄では信濃の山で木賊を刈る老翁の心境を描くものとなり、秋の夜の静けさから爺と婆の昔話を懐古し、再び現実に戻って終わるという展開。東音宮田哲男の唄につれ、紋寿郎は本行の格調を崩さず複雑な老境を自然体でみせ、長唄と踊りが自ずから解け合っていった(三味線は今藤政太郎)。舞台下手奥から木賊を分け出た翁は途中で月を仰ぐ。その月への想いは、月を友とする翁の心を投影し、#浮世語りとなりにけり」の段切へと持続する。「木賊刈」自体、平凡な日々の営みに真の幸せがあるという人間普遍の心理を描いた名曲で、かくも長き人生を過ごしてきたのだなあ、という実感が説得力を持って伝わってきた。
 プログラムに「今回は 私の振付作品を中心に番組を組み 日本舞踊の楽しさをご覧いただけます様こころがけました」とある通り、「木賊刈」のあと京都祇園東の芸妓・舞妓によるはんなりとした「京の彩り」を配し、また桐竹勘十郎の文楽人形と娘・藤間紋との共演による「千鳥」(織田紘二補綴・演出、鶴澤燕三作曲)、藤間紋一郎の「瓢箪」(月原千都子作詞、四世清元梅吉作曲)をはじめとする一門が師匠の長寿を暖かく見守った。
(『日本照明家協会雑誌』№493、平成23年7月1日)

■真っ赤な情熱がほとばしる「橘芳慧の会」 燻した金の芸境を迎えた「藤間藤太郎の会」
 実力といい、気力といい、今や日本舞踊を牽引する女性舞踊家のうちの2人、藤間藤太郎と橘芳慧のリサイタルが昨秋開催された。2人のリサイタルは自分自身の世界観を打ち出していることで印象に残った。おかしな現象だが、まず何と言っても2人のプログラムの色彩がそれぞれの個性を象徴していた。プログラムというのは観客に鑑賞の手助けをするには欠かせないものであり、舞踊家のセンスさえも窺うことのできる代物。ここ数年、芳慧の会のプログラムには赤系が基調にあしらわれ、藤太郎の会には必ず金箔や金色が施されていた。今回はプログラム全体の色が、芳慧の会は真っ赤、藤太郎の会は燻しの金という究極の色づかいが目を惹き、それぞれ気迫に満ちた舞台を展開した。
 「橘芳慧の会」(11月19日、国立劇場小劇場)の真っ赤は芳慧の日本舞踊へのほとばしる情熱をまるで表しているかのようだ。今回は「都風流」(橘裕代振付、中嶋八郎美術、沢田祐二照明)、「鳥刺し」(橘抱舟振付)、「七福神」(中嶋八郎美術、沢田祐二照明)の三演目を上演。当日筆者は所用のため、流儀の橘五香の一つに制定されている「都風流」は見られず、「鳥刺し」から見る。
 「鳥刺し」は、以前、国立劇場の素踊りの会(平成13年3月)にて初見。#シタリ心太ではなけれども」で踊り手自身がところてん突きで突き出された心太になるというユニークな振りに圧倒された。芳慧の父・初代宗家橘抱舟の振付はリアルな表現と戯画的なタッチでわかりやすく楽しめるもの。それに、定評のある芳慧の抜群の技術と的確な表現力が加わった舞台となった。狙いをつけて鳥を捕ろうとする#ためつすがめつ」の緊張感から#鳥はどこかえ随徳寺」の落胆ぶり、#酒の酔い」から#四条五条の夕涼み」の美酒に酔った風情から、その後の#芸妓太鼓」の世話の表現への切り替えなどメリハリの効いた一番であった。
 「鳥刺し」が父、「都風流」が母(二代目宗家橘裕代)の振付であったので、「七福神」は芳慧自身の構成となろうか、通常は一人立ちで踊る演目を今回は門弟5人と踊った(橘寿法・美穂・芳裕・幸慧・慧蓉)。8分程という短い曲をどのように群舞仕立てにするのか、幕が開くまで興味を抱かせたが、ノリの速さを活かした群舞が溌剌とした流儀の中堅・若手の良さを引き出していた。幕開きは正面に囃子が並び、芯に芳慧が座し、背後に門弟五人が弓なりに座す。古典の振りを基本に芳慧が踊り、#三年足立ち給わねば」で全員が踊り出すというように交互に踊りを掛け渡していく面白さを味わった。#水無月半ばは」辺りで全員が移動しながら祇園祭の山鉾を表していたのが圧巻。
 「藤間藤太郎の会」(11月28日、国立劇場小劇場)の燻した金色はこれまでの藤太郎の光輝と豊潤さの演技が燻しの芸境に差し掛かったことを暗示させた。演目は「江戸風流」(藤間藤太郎振付、後藤芳世美術、五明隆夫照明)、「金谷丹前」(藤間藤太郎振付、後藤芳世美術、五明隆夫照明)、「時雨西行」(後藤芳世美術、五明隆夫照明)の三番。
 中でも「金谷丹前」が意表をついた演出であった。大体は遊女のもとに通う丹前風の武士の扮装で踊るのを、今回は遊女での扮装で通い詰める男につれなくする遊女の心と姿を描いた。おぼろ月夜に桜がハラハラと散る風情で幕が開き、#散るを惜しまぬ」で正面へ出て桜の枝に短冊を付ける。吉原仲之町と『源氏物語』とではまるで時代も背景も違うが、朧月夜の君を髣髴とさせる女の艶やかな色香が漂う。勝山風の鬘、紫鹿子の着付に紫と白の市松模様の返し、臙脂の前結びの帯も華やかだ。#思うていりゃこそ」のクドキ風の件をたっぷりと踊り、十五夜の月を出して#しゃならしゃならと」で一幅の絵のように極って終った。
 「時雨西行」の江口の君では、鬘はげんこつ、金の箔置きの返しに白地に孔雀の羽根の着付、黒の前帯に小豆色に金箔の紅葉の紗掛け。男心をくすぐる吉原の遊女とはまた違った、一途さと神々しさを持つ江口の遊女らしさの扮装。西行法師は尾上菊之丞。後半、#見れば不思議や」でセリ下げになり、#現じ給い」と掛けを脱いで普賢菩薩となってセリ上がる。遊女と菩薩の演じ分けにセリを効果的に使い、スペクタクル性に富んだ演出であった。
 今回の企画にみる、吉原の遊女と江口の遊女の対比にみる女人像の描出と、遊女と菩薩の演じ分けに仕掛けたスペクタクル性は、いずれも藤太郎の会の魅力とも言えよう。以前の「河を渡る女」でみせた飛鳥川と日高川をテーマに母物と娘物の二部作の上演、前回の「葛の葉」でみせた子別れの段と道行の段の壮観さは記憶に新しい。藤間流の大師匠藤間麗樹の母のもとで古典舞踊の道を歩んできた藤太郎ならではの舞台である。
 さて、日本舞踊が低調だと言われて久しい。その傾向は筆者が斯界に身を置いてから、毎年言われ続けているように思う。ことに平成10年、武原はん、吾妻徳穂、藤間藤子という日本舞踊を代表する女性舞踊家が1年に3人とも世を去ったのは大きな出来事であった。3人とも個性豊かで日本舞踊において自分の世界を追究し、それぞれが雪、花、月の季節に身罷ったのも象徴的であった。それから12年余、時代や社会は変わろうとも日本舞踊の伝統は未来へと息づいて欲しいと願うばかりである。
(『日本照明家協会雑誌』№489、平成23年3月1日)

□江戸文化の真髄、「東京発・伝統WA感動」              
 一昨年より、東京都と公益財団法人東京都歴史文化財団は東京からの文化の創造発信を強化する取り組みとして「東京文化発信プロジェクト」を立ち上げた。今年は3年目にあたる。世界の主要都市と競い合える芸術文化の創造発信FESTIVAL、芸術文化を通じた子供たちの育成KIDS、東京における多様な地域の文化拠点の形成ARTPOINTの3つの柱からなるうち、FESTIVALの中の「東京発・伝統WA感動」を取り上げる。
 そもそも筆者と「東京発・伝統WA感動」との出会いは今年が初めてではない。昨年は、芸術文化振興会(国立劇場)との共催「東都八景四季賑」を観た。四季折々の江戸の名所を日本舞踊の演目を配して廻るという企画であった。猿若町市村座の春は「七福神」に始まり、王子飛鳥山の「丁稚」、夏は浅草の「三社祭」、深川の「水売」、秋は神田の「神田祭」、吉原の「俄獅子」、冬は本郷の「櫓のお七」、また来る春で隅田川の「乗合船」。出演者も充実して楽しい舞台であった。ほかに邦楽コンサート、落語、民俗芸能があり、どれも価格を抑えた質のよい公演の提供が好評であったのは後から知った。
 そこで、今年はいくつかの企画のうち、「芸の真髄シリーズ 清元延寿太夫 清元梅吉「清元」~清き流れ ひと元に~」(8月24日、国立劇場大劇場)、「能と邦楽 隅田の四季」(8月31日、東京芸術劇場中ホール)、「俚奏楽」(9月4日、国立劇場大劇場)を観た。
 「清元延寿太夫 清元梅吉「清元」~清き流れ ひと元に~」はNHKエンタープライズ芸の真髄制作委員会が主催する芸の真髄シリーズ第四回。江戸の邦楽清元節は文化11年(1814)に誕生し、江戸の粋な文化を支えてきた。大正末期、二つの流派に分かれ、今日に及んでいる。この企画は、88年間途絶えていた両派の交流を復活させた画期的な公演としてマスメディアからも関心が寄せられた。序幕は総勢54名の演奏陣による「四季三葉草」。4段に組まれた雛壇は壮観そのもので、長年の歳月の隔たりを感じさせない息のあった演奏が繰り広げられた。次の清元の名曲「隅田川」は謡曲「隅田川」をもとにした高尚な曲風で知られる。今回の演奏では途中、山台の毛氈を引抜き、屏風を中割にし、上からパネルを下ろして暗雲立ちこめる照明に変わる工夫が素浄瑠璃の舞台に劇的な感動を促した。最後は、片岡仁左衛門の「お祭り」で華やかに盛り上げて、粋な清元の世界で締め括った。
 清元ファンが大勢客席を占めていた前公演にくらべ、「能と邦楽 隅田の四季」は中高年層の都民が集い、賑わった公演であった。第一部は邦楽で長唄「風流船揃」、端唄集「大川情歌」、邦楽組曲「川-KAWA」(織田紘二作詞、萩岡松韻音楽監修他)。新作の「川-KAWA」が丁寧な作曲とともに背景も楽しめた。「花吹雪・花見舟」「夕立・両国の」「虫すだく・秋の夜は」「雪が降る・雪の晨」「あけぼの」をテーマに春夏秋冬の江戸の風情を音で描いていく。ヒュルヒュルと三味線の撥の技巧に合わせ花火が上がると「玉屋!」の掛け声。遊び心の演出は現代人と邦楽との距離を短くするであろう。第二部は観世流の能「隅田川」(シテ 梅若玄祥)がたっぷりと上演された。
 「俚奏楽」では、創始者本條秀太郎の曲を盛りだくさんに集めた。中でも舞踊「女人角田~たゆとふ~」(織田紘二構成、橘芳慧振付、高木どうみょう照明)が女人らの悲哀を隅田川に洗い流すかのごとく、清涼感さえ感じさせた新作であった。第一景は「明治一代女」のお梅、第二景は「隅田川」の班女の前、第三景は「籠釣瓶花街酔醒」の八ツ橋、第四景は「三人吉三廓初買」のお嬢吉三を、ワキ役を絡め、五人の女性舞踊家(尾上紫、橘芳慧、花柳貴代人、藤間恵都子、水木佑歌)が踊り分けていく。また、市川亀治郎が「瀬音」と題して「残る月影~松風~」(猿若清方作詞)「露のいのち」(秋元松代作詞)を女方と立役の舞踊を上品で風雅に踊り(共に尾上青楓振付、高田新司美術、高木どうみょう照明)、最後は花柳寿南海が「春の宵夢」(目代清作詞、長倉稠美術、花柳寿南海振付)を軽妙洒脱に踊って幕を閉じた(以上、本條秀太郎作曲)。
 「東京文化発信プロジェクト」は今年もまた10月に、東京大茶会を浜離宮恩賜庭園で開催した。外人客が着物姿の女性をカメラに写してほくそ笑んでいる様子があちらこちらで見られた。筆者も大茶会で秋の半日を過ごし、隅田川に走る水上バスを利用し、日の出桟橋へと帰途についた。思いがけなく「乗合船」に乗り合わせることができた!と、このプロジェクトの企画で今日に息づく江戸の文化を偲ぶよすがを得た。
(『日本照明家協会雑誌』№485、平成22年11月1日)

■独創性ゆたかな日本舞踊、多彩な創作:寿南海・茂香・菊之丞etc.
 今季の日本舞踊公演は、久々にベテランから新人までが独創的な創作を立て続けて発表した。ながい冬ごもりから、ようやく春めき、新緑の季節になり、万緑の夏を予感させた。日本舞踊本来の創造精神が戻ってきたことが好ましい。
 花柳寿南海振付「いつくしま」(5月29日、国立大劇場)は、日本人好みの源平の合戦をテーマにした国立劇場主催公演「舞踊 源平絵巻」の序幕を飾った。清盛役の橘芳慧を芯に各流の中堅・若手女流舞踊家十名による素踊り群舞は日本舞踊創作の一つの醍醐味を呈した。計算され尽くした群舞構成と踊り手たちの統制のとれた迫力は圧巻で、瀬戸内の波、神主や船の数々、夜の百八灯籠、戦いの様子等々を表し、齢八十五となる寿南海の創作意欲はいまだ枯れることのないことをあらしめた。近年の素踊り群舞の秀作であろう。
 寿南海と並称される花柳流の創作舞踊家の一人、花柳茂香は「ひとり花」(えんの会、6月16日、国立小劇場)を純度の高い作品に仕上げた。鳥の子屏風をループ状に飾り二曲に折った金屏風半双の前に立ち、茂香は野の果ての桜となる。香取仙之助の原詩をもとに、繚乱と咲きにおうさま、燦然と輝く陽に染まるさま、鴉の翼で夕焼け空に花びらの散るさま、寂寞のなかで錦繍の謡をうたうさまを、静謐さとダイナミズムとの対比で茂香調を堅持した(鶴澤清治作曲・演奏、碇山喬康美術、高木どうみょう照明)。
 えんの会の花柳あらた・西川祐子・花柳かなで振付「三様 その(二)」は囃子とのインプロビゼーションによる作品。三人の細緻な演出と無機質な表情や動きが独特の世界を構築しつつある。が、もう少し三人の心を通わせる風情があってもよいのではないか。いずれにしても、茂香の“芸術を創る”という孤高の精神を継承し、三人の調和による独自の世界が築かれることを期待したい。
 中堅では、花柳園喜輔の構成・振付による「天地に・・・」(拓の会別会、6月5日、国立小劇場)が、オーソドックスな手法の中にも個性が光り、整然とした活力ある創作群舞となった。黒紋付・袴による六名の若手男性舞踊家が大黒幕を背景に無音から始まり藤舎呂船作曲の囃子を音楽に、宇宙の中の地球、人の誕生、人間社会の平和と戦争、自然の征服と破壊を描き、人類と自然との共生を願って終わるという展開(北寄﨑嵩照明)。ただテーマを鑑み、惜しまれる点は男性舞踊家で統一したことと、囃子方の男女による編成が創造面に活かされなかったこと。演出面を整理し、さらなる練り上げを望みたい。
 西﨑峰の「雪月花 黄泉道行」(西﨑流創作舞踊公演、6月13日、国立小劇場)も独特な世界観を表出していた。初演(平成15年)の演出を変え、今回は諸国行脚の僧(花柳寿楽)が出会った不思議な道行を物語るという設定。先行の能の手法に則った行き方を踏襲したことで夢幻性を明確に打ち出した。若い男(峰)と老女(吾妻徳彌)の亡霊の道行で始まる。僧が里人に問うと、紗幕が上がり、しだれ桜の椀久もどきの回想シーンとなる。二十歳で死んだ男が四十年後に恋しい女を迎えに来て黄泉の国へと二人で旅立つという話。舞台上手・下手のセリを効果的に使い、雪の降りしきる中、終盤に盆を回して仏教思想の輪廻を暗示させた(有賀二郎美術、北寄﨑嵩照明)。袋付の町人姿の峰は美しく、また徳彌の老女役に工夫がみられ、ことに四十年の歳月を数歩の歩みで見事に表し得たのは「赤猪子」の演技を髣髴させた。峰が自ら構成・振付に意欲を見せる姿勢を見守りたい。
 33回を迎えた尾上菊之丞の冬夏会(6月19日、国立小劇場)は<音>をテーマにした企画(松野潤装置、北寄﨑嵩照明)。谷川俊太郎の詩をもとに振り付けた「みみをすます」は七つのユニット様のオブジェの前で基本的には菊之丞が具象的、二人の女性(尾上紫・尾上京)が抽象的に運ぶ。足で歩くという人間の行為の様態を音のレベルで表現し、#きのこ雲」で異様なグリーンのライトと静けさでクライマックスに達すると菊之丞の想いが託され、やがて平穏な世界を取り戻した小川のせせらぎで静かに終わるという展開。自らの思想を追究し、かつての宮沢賢治作「梟祈願」に続く創作路線として完成させた。
 「舟と琴」は『古事記』にある仁徳天皇と枯野という舟の話がもと。秀逸な作曲(今藤政太郎)に魂からの波動を琴の音に響かせるという意図の振付。菊之丞と尾上青楓の連れ舞は波長が合い、青楓が琴を奏でる振りのあと三味線と箏の合奏となったところは響き渡る琴の音の満ち足りた気分を醸した。初演(平成15年)は菊之丞・青楓・京の三人立であった。今回の二人立では、物語上、主従の関係、音楽との関わりという点で先頃発表された青楓の「梅雨将軍信長」と同工異曲の感がなくもない。一人はミューズのような女性であってもよかったのでは、と思う。
 今季は舞踊創作に長年活動してきた舞踊家による創作によい作品が揃った。“新しいものを創る”ということは容易いことではない。創作とは「芸術を独創的につくり出すこと」。それをかけがえのない人生の目標として歩み、新たな世界を切り開いていく姿勢は舞台の成果に反映される。これからあとに続く、創作に挑む舞踊家たち。ぜひそうあって欲しい。
(『日本照明家協会雑誌』№481、平成22年7月1日)

□伝統と現代との地平線、輝く三人のホープ:勘右衞門・典幸・青楓
 低調気味といわれる日本舞踊界だが、昨年は二人のホープの活躍に光るものがあった。一人は藤間勘右衞門、もう一人は花柳典幸。勘右衞門は日本舞踊協会花柳壽應賞を、典幸は文化庁芸術祭新人賞をそれぞれ受賞するという評価が舞台成果の優秀さを表している。実際二人の舞台には、対照的な個性だが、大らかさと行儀の良さ、それに加えて天性の花があった。どれも伝統ある日本舞踊には大事なことだが、三拍子の揃うことは滅多にない。
 藤間勘右衞門は歌舞伎俳優尾上松緑の藤間流家元としての名跡であるから、その存在感は圧倒的だ。今回は勘右衞門が長年心待ちにしてきた、祖父の代表作「達陀」を流儀の男性舞踊家らの総指揮をとって見事に上演した(第四回勘右衞門の会、7月25~26日、於:国立劇場大劇場、25日所見)。昭和42年2月、歌舞伎座で藤間勘齋振付(二代目尾上松緑)で初演され、勘齋自身が名僧集慶を演じた。「達陀」とは東大寺二月堂修二会の二七日の法会の終幕を飾る火の行。二月堂を背景にした登廊から回廊へと舞台はスペクタクルに転換し(守屋多々志美術監督)、常燈に新しく点火する大役の堂童子、忘我の境地で宝号を唱える練行衆、松明を抱え先導する童子ら総勢50人余りが五体投地の礼拝、「南無観、南無観」の唱和、過去帳読上げなど春を告げるお水取りの様子を舞踊化。青衣の女人役の吾妻徳彌が極寒の北の局に薄紅の色香を添えた。ほかに新古演劇十種「茨木」の原典でもある長唄「綱館」を藤間紋寿郎の教示を得て素踊りで演じ、芸格の大きさをも印象づけた。早世した父五世藤間勘右衞門から大藤間の統率者となった勘右衞門の、現代に生きる家元としての心意気が舞台の成果へつながった。
 花柳典幸は、昨年、兄錦之輔が三世花柳寿楽を襲名したため、兄弟二人の勉強会であったのを今回初めて一人のリサイタルを開くことになった(花柳典幸の会、11月3日、於:国立劇場小劇場)。「幻椀久」は現家元の花柳壽輔が五世花柳芳次郎時代に振り付けて初演したもの。今回は墨絵の松を描いた紗幕七、八枚を舞台一面に垂らし、立体感のある抒情的な舞台を呈していた(朝倉摂美術)。暗転のなか波音を効かせて幕が開き、後向きに佇んだ椀久のシルエットを映し、虚ろな趣で紗幕から出る。その美しさは凛々しくもあり切なくもある。「ヤヤ松じゃ、松じゃ」で幻の太夫を連れてきて#君は花かや」辺りで賑やかさが増し、#そも我ながらあさましや」で掛けをかぶって太夫の面影を抱いて寝る。そして、#どれが露やら涙やら」のあと徐々に狂わしくなり、物狂いは最高潮に達する。現代的な美術と演出とが典幸の芸風によく溶け合っていた。「静と知盛」は、花柳流ではほとんど上演されることのない演目だそうだが、花柳流らしい繊細で巧緻な演技で静と知盛を踊り分けた。芸の修練の結果、近年、技量をあげ、華やかさが増してきたのは多くの人が認めるところ。日本舞踊界のホープとして、ますます輝いて欲しい一人。
 さて、続いて今年はもう一人のホープ、尾上青楓の活躍でスタートを切った(第3回「尾上青楓」日本舞踊公演、1月14日、於:国立劇場小劇場)。二作とも青楓が日本舞踊の作品として創ることを強く望んだ題材で、義太夫「清経」は能「清経」を元に、舞踊劇の「梅雨将軍信長」は新田次郎の小説を原作とする。ともに武将物というのは父尾上菊之丞の創作路線に沿ったもの。
 「梅雨将軍信長」は一部セリフで運ぶという試みと計算された構成が現代的であった。信長役は菊之丞、青楓は桶狭間の戦いで信長を勝利を収めさせた平手左京亮を演じた。家来衆のなかでは尾上菊一郎が老将の味わいがあってよい。黒一色の舞台、前半は梅雨のさなかの城郭の一角。かの有名な「人間わずか五十年」の言葉のあと物見窓から洩れる月光が信長を効果的に照らした(北寄﨑嵩照明)。途中、鼓を打って大気の流れを知ろうとする左京亮と信長の出会いを劇的に描く。後半は豪雨の桶狭間の戦い。正面に垂らした紗幕に不穏な空模様を映し出す。尾上流男性舞踊家と舞踊集団菊の会の群舞が圧巻で大太鼓と締太鼓がけたたましくもなく土砂降りの様子を効果的に盛り上げていた(高橋嘉市音響・効果)。次回は大劇場での再演をぜひ望む。
 いっぽう「清経」では青楓は悲壮感の漂う清経の霊を演じ、北の方に歌舞伎俳優尾上菊之助を迎えて能取物としての品格を備えた新作になった。
 昨年9月、典幸と青楓は国立劇場主催公演「東都八景四季賑」で人気曲「三社祭」を競演した(9月19日、於:国立劇場大劇場)。しかも六代目尾上菊五郎の振りを移しての上演であった。考えてみれば、典幸の祖父二世花柳壽楽は六代目が校長を務める日本俳優学校に学び、青楓の尾上流は六代目が門弟尾上琴次郎に初世尾上菊之丞を名乗らせて創流。そして、勘右衞門の祖父二代目尾上松緑は七代目松本幸四郎の三男だったが六代目の門弟となり後に父から藤間流の家元を継いだ。不世出の名優と言われる六代目。なかでも特に九代目市川団十郎に仕込まれた踊りを生涯の芸の特色とし、伝統に裏付けられた現代に生きる芸や演出を舞台で提供し続けた。彼の薫陶を受けた人々の孫の世代にもその精神は健全に受け継がれていることを実感させてくれた三人のホープたちである。
(『日本照明家協会雑誌』№477、平成22年3月1日)

■“舞踊への情熱”“不屈の精神” 黛民族舞踊団と舞踊集団菊の会
 わが国には舞踊団組織とする舞踊団体が多いとは言えないが、戦前・戦中の初代西崎緑や花柳徳兵衛はそれぞれ全国各地の慰問公演を原型とし、戦後、舞踊団を結成して活動した。初代緑は「黄塵」「日輪」など、徳兵衛は「慟哭」「壇ノ浦」などの秀れた大作を発表して舞踊史上に立派な功績を残すに至った。両者とも古典舞踊から出て、民俗舞踊を基盤にし民衆を主体にした群舞作品を創り上げたという特色が挙げられよう。
 民族や民俗の舞踊にはその民族の魂や土の匂いが漲り溢れ、初代緑や徳兵衛以降も民族・民俗舞踊のたくましさに魅せられた舞踊家が輩出している。それらの中で藤間流(勘右衞門派)で異彩を放つ存在であった藤間節子が改名した故・黛節子は黛民族舞踊団を、尾上流の尾上菊乃里は本名の畑道代で舞踊集団菊の会を立ち上げた。この二人の統率者には共通した点がある。それは“舞踊への情熱”と“不屈の精神”をもつカリスマ性である。
 さて六月には、黛民族舞踊団(芸術監督 大野晃)の「アジア民族舞踊交流会2009」(7月8~13日、筆者は13日の学習院創立百周年記念会館にて所見)と、舞踊集団菊の会のアトリエ公演「日本のおどり-涼風に舞う-」(7月18・19日、18日15:00所見、於:菊の会スタジオ)が開催され、それぞれ民族・民俗舞踊を披露し、観客は舞台と一体となって楽しんでいた。
 「アジア民族舞踊交流会2009」では中国雲南省玉渓市花灯劇団と韓国金梅子テジョン市立舞踊団を招へいし、東アジア三国の色彩豊かな舞踊を繰り広げた。当日は学習院生涯学習センターの受講生等が多数参加し、公演に先駆けた諏訪春雄学習院大学名誉教授と各団員代表らによるシンポジウムでは、諏訪教授が日本の踊りは中国・韓国の踊りと見比べると大地を踏みしめるようだと説明された。日本の「傘おどり」から始まり、中国の「鬧花灯」ではピンク色の扇子に長い布を付けた晒のような小道具を手にした玉渓地方の楽しい祭り風俗と続き、韓国も農楽をアレンジした「オウルリム」ではサムルノリの打楽器の響きに合わせて共存の精神を表現するなど20曲近くを上演した。日本の作品は黛節子が各地の民俗芸能を取材し高い芸術性を加味して創作したもので、今回は「あいや節」「越中おわら節」「祝い舞」「伊予万才」「黒島口説」他を上演。それらはアジアン・ダンスと渡り合えるパワフルさを備えた振付・構成・演出に独自性がうかがえる。団員は黛琉美・黛智英・黛莉香らかつて節子の薫陶を受けたメンバーが中心。
 黛節子は生前に黛民族舞踊文化財団(現・理事長 犬丸直)を設立したのも進歩的であった。その衣鉢を継ぎ、東アジア三国の民族舞踊にみる共通性を実演で解明し、今日も地道な活動を続けているのは評価されるべきであろう。また、節子は学術的な論拠に基づき、歌舞伎舞踊の源流をたずねた実践家でもあった。沖縄舞踊とのテクニックの共通性を探り、沖縄舞踊もレパートリーに取り入れたが、今回の「黒島口説」は代表作。かつまた阿国歌舞伎時代の踊りの復元を試みた「小原木踊り」「しのはら踊り」も名高い。今回は阿国のかぶき踊以前のややこ踊を復元した「ややこ踊り」を再演し、奇抜さが楽しめた。
 「日本のおどり-涼風に舞う-」では第一部ではいわゆる日本舞踊を、第二部で民族舞踊誌『海はるか日本を躍る』(作・演出 三隅治雄)を上演した。構成・振付は畑道代で、出演は畑が育てた佐竹永光・原聡・鶴岡泰重・宮沢りか・土屋明日香ら総勢16名。ほかにも溌剌とした大勢の団員を抱えている。菊の会の特徴は日本人の心の豊かさを大切にして日本の風情を謳い上げた作品を創作し、団員らの一糸乱れぬ統制の取れた踊りに定評がある。男性陣の「祝太鼓」から始まり、津軽三味線に合わせた漁師の生業を描いた「嵐の序曲」、女性陣の「秋田舟方節」、男性陣の「御祝い」・・・とスピーディーな転換で11曲を上演。昨年は新作の踊り風土記『雪の華』(三隅治雄作、畑道代構成・振付)を発表し、映像を効果的に用いて北陸の風土を美しく幻想的に描いた舞台が好評であったばかり。
 畑の追い求めるのは日本の情緒と言えるだろう。こんなエピソードがある。筆者が韓国滞在中にソウル大学校李愛珠教授(49歳で「僧舞」の人間文化財認定)の授業見学の折、北朝鮮の舞踊家ホン・ジュンファを描いた「踊りと熱情」と黒沢明監督作品「夢」の狐の嫁入シーンを比較し、速い踊りとして北朝鮮の舞踊、遅い踊りとして日本の舞踊を例に出して学生達に説明していた。後で知ったことだが、この狐の嫁入のシーンこそ畑道代振付。つまり、韓国舞踊家李愛珠は日本の情緒を畑作品で感じ取っていたのであった。
 故・黛節子が激情的な情熱家であったならば、畑道代は沈静的な情熱家と言えるのかもしれない。節子は財団設立の際に「・・・私は踊りが好きだったのです。しかしそのうちに、いわゆる日本舞踊だけではあきたらなくなりました。これでいいのか? どうしたら生きた踊りが踊れるのか? 自虐と疑問の連続でした。丁度そのとき、日本青年館で催された民俗芸能(略)を見る機会を得ました。民俗芸能の持つ発散度の高さ、体の使い方から表現するテクニックの面白さ、意表をつく表現、私はすっかり魅せられ民俗芸能の勉強に突っ走りました。私は民俗芸能を素材とした民族舞踊家(・・・・・)になろうとその時決意したのです。・・・」(『民族舞踊文化』№1より)。事実、二人の舞踊家にみる不撓不屈な精神が多くの人々の心を惹きつけるまでの舞台活動を支えてきたのだと言えよう。
(『日本照明家協会雑誌』№471、平成21年9月1日)

□日本舞踊:伝承の深奥・新鮮・洗練 「峠の万歳」「二人椀久」「赤猪子」
 韓流人気テレビ番組「ファン・ジニ」が最終回を迎えた。私にとって最終回が納得のいくものだったのは、女楽の行首を決定する競演で主人公のミョンウォル(ファン・ジニ)が「感銘を与えられる舞こそが最高の舞」と考え、民衆の踊りの極意を会得し披露したが、審査の結果ライバルのプヨンが次の行首の座を勝ち得たからであった。私は、全編を通して女楽の行首メヒャンこそ名妓としての器量を備えた人格だと芸道に対する心構えに共感を覚え、またその競演で地方教坊の行首の一人がミョンウォルの行状に対し「格式を破り、伝統まで破るのか!」と嘆いたセリフに得心した。
 というのも、現代の伝統離れは日本舞踊の将来の不安を掻き立てている。私自身も日本舞踊や照明、美術等の専門家を志す若い学生を抱えているが(ここでは照明も美術も日本舞踊に限定して)、その大勢が時代の趨勢に流され「自由」の意味をはき違え、学生たちの日本舞踊の基本や伝統・格式を学ぶことに背を向ける傾向に悩まされているからだ。だが、「ファン・ジニ」の女性ファンはメヒャンの生き方に感銘を受けているのが現実だ。(日本舞踊家としてプロならば)格式や伝統のなかで感銘を与えるのが、「日本舞踊が日本舞踊であること」の存在価値だと私は考えている。
 前置きが長くなったが、1月から3月にかけては日本舞踊協会公演、国立劇場主催素踊りの会、個人リサイタル等と日本舞踊界にとってメジャーな舞台が揃う時期でもある。それらの中で、今回は「伝承」をキーワードにした三作品を取り上げる。
 まず、日本舞踊協会公演(2月14~16日、於:国立大劇場)では藤間紋寿郎・藤間豊之助の「峠の万歳」と吾妻徳彌・尾上青楓の「二人椀久」が舞台成果も秀逸ながら、「伝承」について一本筋の通ったものと評価した。
 「峠の万歳」は渥美清太郎作詞、三世清元梅吉作曲の昭和の新作だが、古典にも匹敵する名作の一つ。渥美は歌舞伎の博学で知られ、三世梅吉後の二世寿兵衛は清元三味線の名人。何せ芝居で言えばドラマツルギーが巧みだ。正月にコンビを組んで門付を共にした三河万歳の太夫と才蔵が、正月が過ぎたので別れに際し、二人は酒を酌み交わし踊りや万歳の芸で名残を惜しみ、峠の分かれ道を別々に故郷へ帰っていく、という内容。哀愁は帰り際に才蔵が太夫の耳に届けと鼓を打ち鳴らすシーンで最高潮に達する。「峠の万歳」は各流派で上演をしているが、今回は初演の振付者であり演者であった初世藤間寿右衛門の教えを受けた藤間紋寿郎(太夫)と藤間豊之助(才蔵)が初演の振付意図を汲んでの上演であった。得てして別れの演技だけが目立ってしまう「峠の万歳」だが、平たく言えば今回はやり過ぎず、舞踊で二人の別れを描いた初演の名振付を的確に見せた。ことに#三河へ」で太夫が中啓で地面に「三河」の字をしんみりと書くのを観て、私は「ここに初演の心がある!」と悟った。太夫は故郷の家族が恋しいのだ。稼いだ金を早く家族のもとへ届け一足遅い正月を一緒に過ごしたいのだ。さすが大藤間の中で築地系という一系統を築いた初世寿右衛門の奥深い振付であり、その意図を見事に伝承した紋寿郎・豊之助の芸であった。
 「二人椀久」の初演は古いが、今日の「二人椀久」は昭和二十年代後半に初世尾上菊之丞が新橋芸妓と復活上演後、アヅマカブキの渡米プレビュー公演で傾城松山を吾妻徳穂に替え(松山の振付は藤間万三哉)、流行したのが魁になっている。今回は初演の初世菊之丞振付で、スター性のある吾妻徳彌と尾上青楓が伝統は常に新しいという瑞々しさを漂わせて好演した。徳彌の松山が名妓の貫禄を備え確実な存在感を示したのが立派で、椀久の青楓は花形的な魅力に加え、近頃は古典に真摯に取り組む姿勢を好ましく思う。
 その徳彌はリサイタル「徳彌の會」(3月28日、於:国立小劇場))では、祖母・吾妻徳穂の代表作「赤猪子」(有吉佐和子作・演出、二世野澤喜左衛門作曲、徳穂振付)を竹本住大夫の浄瑠璃で再演した。もう十年以上前になるが、中村富十郎を雄略帝に迎えた徳彌初役の「赤猪子」は都合がつかずに見そびれていたのを口惜しく思っていたのだが、今回の雄略帝は吾妻流と縁のある坂東流の当主・坂東三津五郎。これまでの徳彌と三津五郎との名舞台は私の脳裏に焼き付けており、今回は二人が年老いた役を余裕の演技で臨んだことに芸格の大きさを印象づけた。ことに赤猪子には臈長けた美しさがあり、また八十年前の回想から#機織姫の織る絹は積り積りて八十年に百取とこそなりにける」で扇を巧みに使った機織の振りから次第に今に戻るという演出が鮮やか。舞台照明で言えば、歌舞伎座付の池田智哉の照明には無色に近い色にもその伝統と格式をいつも感じさせてくれる。
 ところで、その会に私と同行された東大寺修二会の権威である研究者が「笑いに日本舞踊では型があるのですか?」と質問された。それは、伝承として千二百五十余年の伝統を守るお水取りの研究者のことばであった。笑いに関心を惹きつけるだけ徳彌の技術は優れていたが、作者の意図は赤猪子の「笑い」であり、その表現に本作の生命が宿っていよう。また、伝統と格式を守る名門女子校で教鞭を執る先生が「赤猪子」を鑑賞し「生徒たちはみな赤猪子の話を『古事記』で知っている」と感想を伝えてこられた。日本舞踊のテーマは古典に根ざすものが多いので高い知識や教養を持つ人々に支持される基盤を保つことが大事で、その根幹が守られれば日本舞踊の伝統も未来につながろうと私は確信している。
(『日本照明家協会雑誌』№467、平成21年5月1日)

■ベテラン二人が描く女人の生涯 西崎緑の藤壺、西川左近の淀君
 日本舞踊は歴史や文学・伝説のなかのさまざまな人間を描いてきている。それも男性よりも女性に焦点を当てた作品のほうが圧倒的に多く、その描く手法はまちまちである。「まちまち」というのは「個々が自由に」という意味ではなく、日本舞踊は伝統の世界なので、流派や系統が築いた主義・精神に沿って創作されるのがより好ましいと考えるからだ。
 今回は、秋に上演された公演のなかから、流派の特色を活かして創作され、良い成果をおさめた二公演を取り上げる。
 まず、源氏物語千年紀にちなみ二代目西崎緑が創作発表した「恋・藤壺」(平成20年10月4・5日、於:湯島聖堂、4日所見)。
 二代目緑の師は初代西崎緑。初代は昭和初期に新舞踊運動を推進した女流舞踊家のひとりで、当時の新進舞踊家には各自が歩もうとする芸術への強い信念がみられた。初代は、舞踊団を結成し日本全国を巡演する傍ら、自らはラジオやテレビに出演するなどの国民的舞踊家であった。「踊りのお(ヽ)の字も知らない大衆の方がたに、踊りを親しませよう」(花柳壽楽『日本舞踊』)とたいへんな努力をされたという。
 その初代の遺志を継いで二代目緑も舞踊団を率いて公演活動を行っている。二代目が選ぶ創作のテーマは魅力的なものが多い。私との最初の出会いは「ジャンヌ・ダルク」(昭和59年、国立小劇場)。英仏の百年戦争でフランスを勝利に導いたオレルアンの少女の物語で、村の田植え踊りから始まり、ジャンヌの処刑を暗示して男装したジャンヌがセリ上って出陣する姿は性を倒錯した甘美な魅惑に満ちていた。また代表作は「八百比丘尼」(平成1年初演、芝増上寺境内)。人魚の肉を食べて不死を手に入れた若狭小浜の八百姫の伝説で、舞踏集団とのコラボレーションは仏教説話の不気味さを漂わせ、雪降るなか輿に乗り、紫衣をまとった尼僧の姿は鮮烈な印象を残した。同じく増上寺境内で能「卒塔婆小町」をベースに小野小町の百年の思い出を回想した「阿弥陀来迎」(平成14年)では、舞楽「胡蝶」「迦陵頻」の舞踊化はあたかも極楽浄土の具現のようであった。そういう活動において、二代目は自身の歩む道として野外公演に取り組み、すでに二十五年の歳月が流れた。
 この秋に上演された「恋・藤壺」では二代目は藤壺と桐壺更衣・光源氏の三役を演じ分けた。帝から寵愛を受けた桐壺更衣が他の女人の嫉妬で命を落とし、残された源氏の君は後に入内した藤壺に初恋を抱く。宮中の雅やかさを円舞曲に乗せた女官と貴公子達のモダンでコミカルなダンスシーンに置き換え、「春鶯囀」を舞う源氏のまばゆさ、雷鳴の轟く中での藤壺と源氏の背徳の契り、そして藤壺の落飾、と場面は展開する。つまり、“輝く日の宮”と呼ばれた藤壺の人生を追った作品で、場面ごとに帝役(市川段四郎)のナレーションが入るのでわかりやすく筋が運ばれる。月光の下まばゆいばかりの美しさにいつしか観衆は源氏物語の世界へと誘われていき、初代の信念が今に生きていると感じた。
 もういっぽうは第十二回西川左近の会(平成20年10月15日、於:国立小劇場)で、この回は左近の父である二代西川鯉三郎の名作選。
 鯉三郎は名優六代目尾上菊五郎の門弟であった時、「鏡獅子」の胡蝶に抜擢されたほどの踊りの才を持っていた。六代目の芸風が投影されて人物の心理描写まで表現できる名人で、「常にお客様にお楽しみいただくこと」(プログラムより)を心がけ、洗練を極めた様々な作品を創り続け、「初めがあって、終わりのないのが芸の道」というのが鯉三郎の日頃の言葉であった。
 その芸の虫のような性格を受け継いだのが左近であり、芸に熱心な様子は「西川左近の会」「鯉風会」の姿勢によく表れている。私にとって忘れられない作品は「舞妓二代」(昭和52年)。新作舞踊劇として完成度の高い作品で、養母役の鯉三郎と舞妓役の左近の演技力に圧倒された。作者は平岩弓枝で左近のために良い作品を書き続けている。今秋のリサイタルの「おちゃちゃ御料人-酔うて候-」も平岩の作であるが、鯉三郎のために書いたたった一つの作品だそうだ。淀君が昔を回想しながら子ども時代からの生涯を描いた新作舞踊で、#酔うて候」の歌詞を効果的に繰り返し挿入し、歴史に翻弄された女人のはかなさと酔態の夢幻性を自ずと表出していく構成は巧みである。作者は「鯉三郎先生の左近さんへの最後の贈物の一つ」と気がついたほど左近にふさわしい作品と言える。
 今秋のリサイタルはほかに「北州」と「鯉三郎小唄振り名作選」。「北州」は一般的な振付に加え、かつて坪内逍遙が推奨した名古屋西川流独自の名古屋振りが所々に入り、芸所名古屋の豊かな情緒と左近のきめ細かい演技による芳醇な味わいの「北州」に堪能した。左近の古典における技量はことに娘形に定評があり、「鷺娘」(昭和52年)、「娘道成寺」(平成11年)も心技一体の名演であった。と思うや否や、一昨年の「関寺小町」(平成16年)では小町の老境を自然な風情の中に明瞭に演じ、すでに老女物の芸域に迫っていた。
「鯉三郎小唄振り名作選」は、何と言っても鯉三郎の十八番の一つ「春宵吹寄ばなし」の路線のもの。一昨年に踊った左近の「春宵吹寄ばなし」では役による足使いの仕分けが見事であったのが印象に残る。今でも上演が繰り返される鯉三郎振付の「月」や「旅」などの名品の数々。鯉三郎風の作品が女流の左近風となって今に生きていることが嬉しい。
(『日本照明家協会雑誌』№463、平成21年1月1日)

□ウロコで象徴される女の情念と執心 地唄舞「葵の上」・組踊「執心鐘入」
 △が延々と続く幾何学的な文様の「ウロコ」・・・。能を原典とする道成寺物では衣裳に必ず鱗紋を付ける決まりがある。また能の「葵上」の着付にも大胆に鱗紋を用いることもあるところから、本行物の地唄舞「葵の上」もそれを踏襲する。△が上下、左右へ連続した鱗紋は鮮烈な印象を与えるデザインで、あたかも「外面似菩薩、内面如夜叉」と言われる女性の、その燃えさかる情念や執心を象徴するかのような激しい魅力を発揮するのだ。
 日本の舞踊は女性の嫉妬を取り上げたテーマが好まれる。西洋のバレエが純愛をテーマにしたのと対照的なのは、そこには仏教、キリスト教という洋の東西が育んできた宗教的な背景の違いが色濃く反映されているからに他ならない。
 地唄舞「葵の上」は『源氏物語』第九帖の葵の巻に取材したもの。賀茂祭の日、光源氏の正妻葵の上との車争いで負けた六条御息所(前東宮妃で源氏の恋人)が生霊となって葵の上を苦しめるという内容で、地歌には謡曲にはない#縺れ縺れてな」の件を挿入し、御息所の女心を情緒纏綿に謳い上げた名作ゆえ、これまで多くの舞い手が上演を重ねてきた。 そういう「葵の上」だが、近頃、とても品の良い情趣を感じた「葵の上」を観た(山村流舞扇会第一部、5月18日、於:国立文楽劇場)。舞い手はすでに中堅の域に入ったとも言える山村若。文化文政の頃に活躍した上方の振付師山村友五郎を流祖とする山村流の六世宗家で、近年、一段の進境を示している。三世宗家山村若伝承とされる振りがまたよかった。三世宗家は六世宗家の高祖母にあたる。当時、大阪の舞は山村しかなく、どこへ行っても山村。「山村流の舞は品がええし、能から出たもんであるし・・・」、それで“いとさん”“とうさん”には山村流を習わしたということだった(『上方の舞に命を』)。つまり、「葵の上」にはその当時を想像させる、はんなりした舞の味わいがあった。
 金茶の座敷飾りで上手奥に几帳を立て、その前に小袖を斜めに置く。幕開きは板付で照明は芯と小袖に当てる。#憂き人の」で足拍子を強く踏んで小袖をキッと見、#葛の葉の」で扇子(鬼扇)で小袖を強くさす。御息所の強さをみせた後、#縺れ縺れてな」では二枚扇(銀)で曲使いとなる。謡「いいや~打てば」は女声にせず、そのままの声で迫力を増す。#葉末の露と~うらしめしや」でシオリの型を二度みせ、#なおなお思いの」で開いた扇を逆持ちにして踏み込み。#打ち乗せ隠れ行かんとぞ」で後見座で被衣をかぶり、#さめてはかなく消えにけり」と被衣を腰巻にしてキッと極って終わる、という展開。演出は今日では常套的となったが、女心の心地よいメリハリが舞全体をはんなりと包んでいた。
 この第一部は「源氏千年紀」にちなんだ企画。六世宗家若の振付・演による「新浮舟」では#その浮舟の行方さえ」から返して右手甲へのせた扇子を波立たせ、水の流れと浮舟の心情を表現するという新しく考案した扇の手が活かされ、終盤は地歌の名曲「雪」に似た振りで、髪を下ろし拝んで終わった。もう一作は、四世宗家山村若振付の「夕顔」(光源氏=山村侑、夕顔=山村光)。時代はまったく違うが、『舞曲扇林』の「六態鏡」に挙げられた舞の上手、玉川主膳の「夕がほ」を彷彿とさせる素朴な味わいがあった。
 片や道成寺物はわが国最大の伝説、安珍清姫の道成寺伝説に取材したもの。石川県立音楽堂は五周年事業として主催した「道成寺の舞踊」(平成18年3月19日)が大好評であったため、それに引き続いて今年7月に「道成寺の舞踊」(7月20日、13:00・16:00開演、13:00の部所見、音楽堂邦楽ホール)の第二回目を公演した。今回は北陸の地・金沢に沖縄芸能の組踊「執心鐘入」を上演したのが大きな収穫であったと言える。
 玉城朝薫の創作「執心鐘入」は現存する組踊のうち唯一の恋慕物。首里王府御奉公を主張する美少年中城若松との愛の尊さを強調する宿の女の執心を描き、後に若松は末吉寺の鐘の中に匿われ、追ってきた宿の女は鬼女になるという内容。
 若松(東江裕吉)の道行に始まり、宿の女(宮城能鳳)がしっとりと登場し問答になる。この間、優美な干瀬節(演奏は城間徳太郎ほか)にのせて静謐な時が流れ、能鳳の女形は美しく、内攻的な感情の表出が実に秀逸であった。若松が鐘に隠れたあと、女は足を外輪に豹変。ギバの如く足を投げ出し座って花笠の蔭で化粧を変え、眉間と頬に朱印を付けた女は花笠を投げ捨て鐘をめがけて走る。その後、座主たちが読経を始めると鐘の中から般若面の鬼女が髪を振り乱して上半身を押し出し、いずれ祈り伏せられる、という展開。
 「道成寺の舞踊」では、ほかに地唄舞「古道成寺」と長唄/舞踊「紀州道成寺」が上演された。「古道成寺」は故・吉村雄輝の名振付として知られるだけに、今回は演者独自の衣裳・振付・型をみせたのは甚だ遺憾だったが、「紀州道成寺」は四世花柳壽輔の芳次郎時代からの四十年振りの再演。能にはない#仇し身の」の件が雅趣に富み、演奏(東音宮田哲男・今藤政太郎他)も華やか。蛇体は般若面をつけ、身体からは女の哀れさが滲み出ていたのがいい。
 女の情念と執心の象徴「ウロコ」はいつの時代も人々を芸能の虜にしてきた。皮肉にも、いつしかその「ウロコ」は女性が厄よけとして身に付けるようになった。それは芸能と習俗の不可思議さであるが、「ウロコ」は私たち遠い祖先から引き継いだ、女の哀しみの結晶なのかもしれない。
(『日本照明家協会雑誌』№459、平成20年9月1日)

■interesting[興味ある]な面白さ 尾上菊之丞・青楓の「連獅子」「供奴」
 今年も恒例の日本舞踊協会公演が開催された(平成20年2月15~17日、於:国立劇場大劇場)。雑誌『演藝画報』昭和10年5月号に足立朗々の「をどりの春 日本舞踊協会五周年公演」という記事が掲載されている。第一次日本舞踊協会が発足して5年のことで、隆盛の気運を醸してきたなか日本舞踊協会の貢献度も期待され、その功績も称賛されてのことであった。当時より一流の地方(演奏)で一流の舞踊の名手が顔を揃えた豪華版で、その時は当時の波多海蔵会長の名に因んだ新曲「海蔵宝珠」を藤間・坂東・花柳の三流が別々に振付して競演したのが呼び物であった。それ以来、途中第二次世界大戦を挟み、戦後第二次日本舞踊協会として再建され今日に及んでいる。
 先日、或る洋舞系の評論家から「都民芸術フェスティバルの協会公演は面白いの?」と揶揄気味に尋ねられた。私は即座に「面白いですわ!」と答えた。その面白さというのは世阿弥のいう“面白き”であり、funny[おかしい]でもなければ、entertaining[娯楽的]でもない。interesting[興味ある]な面白さであり、筆者は伝統芸能のこの種の面白さを理解できる日本人であることに“誇り”を持ちたい。
 なかでも面白かったのは「小袖曽我」。花柳流の伝承演目を藤間流の家元・藤間勘右衞門が五郎役となり、しかも能取物であるから歌舞伎荒事の五郎ではなく抑えて演じていた。母満江役の藤間紫のハラはさすがであったが、それらは花柳流の演目をきっちりとした形で他流の舞踊家に移した四世花柳壽輔の功績でもあろう。またそれとは逆に二世西川扇藏振付「羽根の禿」を当代の西川扇藏がお家芸として初心に返って踊ったのが円やかで品の良い大きな舞台であった。再演物では藤間紋寿郎の「易行燈」、橘芳慧の「大河の一滴」がさらに芸や技術に磨きがかけられており、そして花柳寿南海の「風」は先頃亡くなった駒井義之氏を偲んで「色即是空、空即是色」と今藤政太郎が演奏したのが印象深かった。
 そのように様々な趣向や企画を凝らした四十二番組中、今回、尾上菊之丞と尾上青楓の「連獅子」が特筆に価しよう。尾上流と言えば、初世尾上菊之丞の上品でややモダンな素踊りの振付作品に定評があり、「石橋」などは他流の舞踊家も好んで上演する秀作となっている。今回、同じ石橋物でも古典の「連獅子」を素踊りで演じたが、金屏風の前でそれに見劣りのしない品格のある舞台であった。#休らいぬ」の合方では親獅子(狂言師)は仔獅子(狂言師)を案じるハラが充分みえ、#水に映れる」では花道の仔獅子の様子がよく、#面影を」で本舞台の親獅子と息がピッタリ合っていた。その後、二人は花道に入り乱序のあと獅子の精になってからは足遣いを工夫して獅子の勇猛さを、足踏みで獅子の豪快さを強調していた。#獅子団乱旋」では扇子を持って<角取リ><鸚鵡返シ>で振りの面白さを満喫させていた。最後の極リでは親の手獅子と仔の手獅子の振り方に相違がみられ、工夫が随所に表れた舞台であった。近頃、歌舞伎若手の「連獅子」「鏡獅子」を観たが、毛振りになると血気盛んに振り回していたのを危惧していた矢先、伝統芸能の行儀の良さが守られているのを見て安堵した。
 その青楓が、亀井広忠・田中傳左衛門・田中傳次郎三兄弟の「獅子虎傳阿吽堂 vol.4」(3月27日、於:世田谷パブリックシアター)にゲスト出演した。考えてみれば、能の囃子方と歌舞伎の囃子方のジョイントでもあり、狂言師・茂山逸平の「三番三」や素囃子「獅子~髪洗い~」に歌舞伎囃子方が出演したりするなど、きわめて斬新な企画であることは言うまでもない。これは世田谷パブリックシアターの芸術監督・野村萬斎企画の邦楽コンサートで、これからの時代、先述した日本舞踊協会公演のように伝統の垣根のなかで行われる公演だけではおさまらず、若者を中心に垣根を破って新しい試みに挑戦していく公演がますます盛んになっていくものと思う。前者の公演では「観客が身内だけ」とよく非難されるが、これがまた大事でもある。観る者の目が厳しく、審美眼が鋭くなければ伝統芸能の真のinteresting[興味ある]は未来につながっていかない。かと言って、それだけでは観客の裾野は広がらない。裾野を広げるためには後者のような企画も必要であろう。しかし、その面白さはentertaining[娯楽的]なものとなろう。
 さて、獅子虎傳阿吽堂では青楓は素踊りで「供奴」を踊った。その前に、英哲風雲の会による「天請来雨」の太鼓の演奏があった。この企画も伝統楽器の囃子の会に和太鼓の奏者が入るのは破格中の破格のこと。若者文化はこれほどまで垣根が取り払われている現実にも目を向ける必要があろう。筆者は和太鼓の壮大な演奏のあとの「供奴」は舞台がかすんでしまうのではなかろうかと懸念していたが、そこは伝統芸の重さというのであろうか、それは杞憂にすぎなかった。青楓ははじめのレクチャーで現代青年である自分は中村富十郎張りの「供奴」には及ばないと意味合いのことを釈明していたように歌舞伎舞踊「供奴」としてみれば課題を残す出来ではあったが、観客の多くはカッコ良い青楓の「供奴」を堪能していた。それよりも筆者は、10日ほど前、国立劇場主催公演「素踊りの会」(3月16日、於:小劇場)で観た菊之丞の「供奴」の振りや技術は、今回の通常の「供奴」の振りを変えていたことにinteresting[興味ある]な面白さを覚えたのであった。しかも、この点にこそ尾上流の正統な行き方が示されているのだと言えよう。
(『日本照明家協会雑誌』№455、平成20年5月1日)

□魂の生の叫び・駒井作品最後の二題 扇藏の「飛鳥斑鳩」、寿南海の「風」
 「ふりはもんくに有」という有名な言葉がある。これは、宝暦期の『佐渡嶋日記』-しよさの秘伝-に書かれた文章の一句である。歌舞伎舞踊の根本的な性格を表す言葉であり、それは歌舞伎舞踊を根幹とする日本舞踊にとっても精髄となる。同じ舞踊芸術のバレエやダンスと比べてみればその意味は自ずと明らかなことだ。西洋舞踊の振付家たちが筋のない抽象的なものと物語性の濃いものとをせめぎ合いながら今日にノンバーバルな芸術を築いているのに対し、日本舞踊はその初めから「文句」つまり歌詞に支配された舞踊である。
 「文句」に自己の魂を吹き込んで作品創りをしてきた人に舞踊作家・駒井義之がいる。しかも『佐渡嶋日記』が「もんくの生なき時は、品をもつてす。又もんくなく、ふしにてのはす時は、ひやうしにのる」と続けるように、あえて文句で踊りのすべてを語らず、一曲のなかに振付と音楽と空間の絶妙なる調和を生み出すコツを心得ていた作風だ。思えば、その「もんくの生なき時」にこそ自己の魂を吹き込んでいたに違いない。最後の作品となった「飛鳥斑鳩」と「風」にはこの作家の魂の、生の叫びが響く傑出した舞台であった。
 「飛鳥斑鳩」(駒井義之作・演出、今藤政太郎作曲、堅田喜三久作調、西川扇藏振付、西川箕乃助・西川扇二郎・西川扇与一振付補、有賀二郎美術、高木どうみょう照明、高橋嘉市音響)は西川扇藏リサイタル(9月21日、於:国立大劇場)、「風」(駒井義之作・演出、今藤政太郎作曲、奥田祐作曲、望月左武郎作調、二世米川敏子箏手付、花柳寿南海振付、有賀二郎美術、北寄崎嵩照明)は花柳寿南海舞踊の會(10月3日、於:国立小劇場)で、それぞれ新作発表された。
 「飛鳥斑鳩」は“道徳を踊る”という教訓を舞踊化した点で新境地を拓いた作品に位置付けられよう。構成は、第一景・神佛擾乱、第二景・甘樫歌垣、第三景・憲法発布、第四景・讃曼陀羅からなる壮大なドラマで、眼目は“和を以て貴しとす”を謳った十七条憲法の件。駒井作品にはもう一つ、三十数年前に初演・再演を重ねた聖徳太子を描いた超大作「斑鳩の宮」(駒井義之作、寺崎嘉浩演出、三枝孝栄作曲、藤間豊之助振付、有賀二郎美術、斉藤政雄照明)がある。その時は「太子を舞踊化するのに(略)業績にポイントを与えた教訓劇は作る気になれず、さりとて古代大和朝廷にあった政争劇にも興味なかった。私は聖徳太子の人間愛と古代王朝の悲劇によるロマンを、私の聖徳太子観として書きあげてみたかった」と若かりし作家は気炎を吐いている。ここに一人の作家の思想発展の過程と日本舞踊創作の動向の推移をみることができよう。
 三十数年前が聖徳太子から随の大使まで衣裳付で古代ロマンの歴史ものであったのが、今回は素踊りで民間の若い男女(西川箕乃助・西川扇千代)の存在をエッセンスにし、古代思想の宇宙観を堂々と創り上げた。もちろん心(しん)はのちの聖徳太子の厩戸皇子(西川扇藏)で、#守らせ給いき」で大セリで上がった皇子の聖徳太子稚児像そのものの気高さに筆者は目が眩んだ。十七条憲法は根底に「勧進帳」の山伏問答がある。条文で綴った文句を作曲がうまく助け、教訓を力学的かつ幾何学な構図で示す振付手法が新鮮であった。飛天(西川扇生・西川祐子)とともに皇子が踊る終盤、蓮華の花びらがゆらゆらと天空から大様に散るさまは「唯仏是真 世間虚仮」の世界を見事に再現していた。
 「風」は「土」「水」「火」に続く第四作で、序章・風の流れ、第二章・風神雷神、第三章・風の盆、第四章・凧合戦、第五章・風紋、終章・風の道の六章に分かれ、自然の現象を背景に人間生活や風物行事を描きながら、それらの持つ人間としての思考や内在する哲理を説いたもの。浮遊感あふれる作曲が天・地・人の宇宙の万物を「風」を主体に描写することに成功し、オムニバス形式の駒井作品の粋(すい)となった。そしてそれは、振付・美術・照明に遊び心が加わり、たとえば風の盆の「風」の字の揺らぎ、凧合戦の「凧」の造形と振付等々、戦後現代の人にもわかるように装飾も採り入れて魅せる素踊りを創り続けた寿南海芸術の粋ともなった。今回は「人間生活や風物行事」の描写に中堅若手(花柳翫一・花柳笹公・花柳秀衛)を巧みに起用し、寿南海自身は空(くう)となって「人間としての思考や哲理」を表現していたのがこれまでの連作と趣が変わっていた要因かもしれない。
 なかでも圧巻は風紋。舞台背面に砂丘が忽然と現れ、陰翳ある照明にたたずむの女(花柳寿南海)の心の襞を投影していく。美術は風紋が刻々と変わる中国敦煌の砂漠をイメージとして創られたが、作家の心にもタクラマカン砂漠に埋もれた幻の桜蘭帝国に想いはあったはずだ。作・作曲・美術・照明・振付・上演がじつに心地よい調和を生み出して創出された「風」は、観ている者に言葉では表現することのできない芸の極地を感じさせた。それは世阿弥のいう“妙花風”とでもたとえられようか。
 日本舞踊の「文句」あるスタイルに固執し、さまざまな作品を舞台へと送り続けてきたひとりの作家は「風」の上演が終わって20日足らずで身まかった。自らの命を削るように作品に生命を託し、一陣の風となって消えていった・・・。寿南海作品の第五作目となるはずの「空(くう)」をやり残したが、この二作に通じる通奏低音には「天」と「空」
の思想が流れており、自らの魂の昇華を荘厳に飾ったのであろう。
(『日本照明家協会雑誌』№451、平成20年1月1日)
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