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◇◆◇アジアの舞踊、おりふしの想い 『舞踊文化E.T.C』掲載より◇◆◇
私が評議員を務める一般財団法人黛民族舞踊文化財団の機関誌『舞踊文化E.T.C』(初回のみ『民族舞踊文化』)にアジアの舞踊機関等への視察を通しての随想を寄稿しています。
黛民族舞踊文化財団は、「我が国の民族舞踊を舞台芸術として確立し、その普及向上を図るとともに国際文化交流を目的として、昭和61年3月文部大臣から設立を許可された法人」で、創設者の故・黛節子先生は大変情熱的で実行力のある芸術家でいらっしゃいました。黛先生の舞踊への熱き想いを偲びつつ・・・。

◆アジアの舞踊、おりふしの想い~アジアの〈扇〉~
今回は、私が出会ったアジア各国の舞踊の〈扇〉に着目した。日本の〈扇〉との違いは〈扇〉の神秘性だけではない。「何かになぞらえる(見立てる)」用法が多いのも日本の〈扇〉の特色だ。それでは、アジア各国の〈扇〉の形態(写真)、用法について紹介しよう。

・韓国舞踊の〈扇〉(ブッチェ)
〇「閑良舞(ハルリャンム )」
文人の姿の閑良が片手に〈扇〉を持って踊る動作が余裕たっぷりに感じられ、その中で即興的にリードする興が目立つ民俗舞踊。
用法:〈扇〉は手の延長として要を握ったまま、〈扇〉をサッと開いたり閉じたりして動きにメリハリを付けている。


〇「扇の舞(ブチェチュム)」金白峰振付
巫俗舞踊の中で〈扇〉を持って踊る舞を応用した、現代の創作舞踊。舞踊手たちは、女性の曲線美を活かした華麗な衣裳と羽で装飾した〈扇〉を持ち、京畿民俗音楽風の軽快な伴奏に合わせて踊る。
用法:両手に握った2枚の〈扇〉を利用して煽いだり、群舞で波打つ様子、花びらの震える様子等の多様な動作に高低を付けて極まったりする。跳んだり跳ねたりする際に見せる〈扇〉の開閉がリズミカルである。

〇「テガムノリ(Daegam-nori)」李梅芳振付
京幾道の巫女舞の要素を取り入れた創作舞踊。韓国のシャーマニズムでは古くから巫女自らが神を迎え入れ(請神)、神と戯れ(娯神)、神を送り出す(送神)神事である“クッ”を行ってきた。この創作舞踊にも、巫女が神懸り状態に入り、歌や踊りに興じる姿がよく表されている。
用法:日本の巫女舞の〈扇〉と似た扱いだが、日本では〈扇〉は左手、鈴は右手に持つのと異なり、韓国の巫女舞は〈扇〉は右手、鈴は左手に持つ。跳んだり跳ねたり、回ったりの神懸り状態に合わせて〈扇〉も躍動する。

・カンボジア舞踊の〈扇〉(セインshàn)
〇「モコー(Makor)」
リアム・エイソー(鬼の王)とモニ・メッカラー(水の女神)の戦いが水の女神の勝利に終わり、天男天女が天界を神話の大蛇のように歓びながら練り歩き、〈扇〉の舞で繁栄と平和を祈願するというもの。(カンボジア古典舞踊家の山中ひとみ氏からご教示をいただいた。)
用法:メロディーに合わせ、手首を使って2枚の〈扇〉をくねり回したり、煽いだりするのが特徴的である。〈扇〉を握り持ちや逆持ちにしたり、抱え持ったり、胸や顔脇に当てたりする装飾的な動きが多い。終盤は隊列になって〈扇〉を腰に当てて大蛇の様子を表している。

・インドネシア・バリ舞踊の〈扇〉(キパスkipas)
〇ジョゲ・ピンギタン(Joged Pingitan)「プパクシアン(Pepaksian)」(本誌№25参照)
「プパクシアン」の語幹は「パクシ」で「鳥」という意味で、「プパクシアン」は「鳥の踊り」。ラッサム王の物語からガルーダの場面を取り出した踊りだと推測されている。
用法:小さな〈扇〉を握り持った右手は肘を曲げて固定したかのように、胸脇で手首を使って回す。小刻みに刻むリズムとは対照的に腕はゆったりと煽いだりして動かすが、時たまリズムに合わせて極まる。

・中国舞踊の〈扇〉(扇子 シャンズ)
〇北方の漢民族の民間舞踊
解説:中国山東省地方の踊りで、〈扇〉と手巾を持って踊るのが特徴。美しく華麗な娘の踊りを表わす。扇面の布は伸びていて、布の部分は進化してだんだん長くなった〈扇〉もある。
用法:〈扇〉を肩に当てたり、頭上に上げたりして、扇面の布をヒラヒラさせながら、リズミカルに踊る。


以上、アジアの〈扇〉は華奢で、用法も開く・閉じる・煽ぐ・回すなどの動きが特徴的である。それに対し、日本の〈扇〉は狂言や日本舞踊で「何かになぞらえる(見立てる)」用法が多い。それは、中国で考案された2枚の扇紙を張った製作法が日本へ逆輸入され、その構造を発展させた、極めて堅固な造りであるのも一因するのだろう。

(『舞踊文化ETC』№29、黛民族舞踊文化財団、令和2年6月12日)

◇アジアの舞踊、おりふしの想い~中国・伝媒大学&日本大学芸術学部~
・中国伝媒大学との文化交流
 本学芸術学部木村政司学部長からご指名を戴き、筆者は中国伝媒大学との交換教員として2018年11月13日から11月19日の7日間、北京に滞在した。私にとって、今後、中国との文化交流に大きな華が咲くだろうという予感を抱いて、いざ北京へと出発した。
 中国の国家テレビCCTVに豊富な人材を出している中国伝媒大学(前名 北京広播学院)と本学部との交流は、実は前芸術学部長でいらした放送学科の野田慶人教授のご尽力による。数十年に渡る交流の中で交換教員として派遣されたのは映像系の教員がほとんどで、演劇学科からは私で2人目。今回の派遣者は私と放送学科兼高聖雄教授。同時期に中国側からは張樹庭副学長、張鴻声大学院長はじめ6名の訪日代表団と2名の交換教員を本学部で受け入れた。
 私たちの滞在先は中国伝媒大学が経営する国際交流センター(ホテル)。初日はその中のレストランで演劇影視学院主催歓迎会が行われたが、少人数ということもあり少々殺風景。翌日はキャンパス内にある国際レストランで国際交流合作処主催歓迎会が催された。こちらも少人数だったが、親日家の王文瀟副処長と張佩佩項目主管に出会え、暖かな雰囲気で迎えられた。考えてみれば、今、訪日団と交換教員が芸術学部なのだから、少人数になるのはもっともなことだった。その後に就任後間もない廖祥忠学長に表敬訪問をさせていただいた(URL:http://www.cuc.edu.cn/zcyw/11702.html)。

・演劇影視学院での講義
 私たちはそれぞれが2コマの授業を担当した。私は「伝統芸能と最先端技術との融合」というテーマで、(1)日本舞踊(歌舞伎舞踊)の3D化、(2)日本舞踊の〈巧みの技〉の継承支援、という講義を行った。(1)は教育用コンテンツとして作成した「供奴」のCGで熟達度の差による足拍子の違いを聞き分けた。(2)は人間国宝の舞踊モーションデータを解析し独自に開発した継承支援システムで可視化して〈腰〉の安定性に着目した。 受講生は大学1~2年生で約35人。授業では、「供奴」足拍子の私の実演、扇のワークショップ、学生による雲南省の民族舞踊の披露…、ほとんどの学生が熱心に学んでくれた。驚いたのは授業が終わってからだ。男女の学生が別々に質問してきた。要点は「機械で人の技が継承できるのか?」という。もちろん「技は心と共に人から人へと継承されるもの」。18、9歳の若い学生の授業だったのであえて表面的にしか話さなかったが、学生の優秀さには感嘆した。
 この授業は、日本語学科4年生で通訳の汪佳蓉さんのお陰で成功した。彼女がご自分のパソコンを貸してくださり、何から何までお世話いただいた。もう一人、兼高教授担当の通訳は同じ日本語学科4年生の楊爽さん。二人とも日本の女子大学に留学経験があり、偶然にもそこで日本舞踊を習ったそうだ。とても親日家なのである。

・正乙祠戯楼で越劇鑑賞
 滞在中、盟友・中国戯曲学院元教授の蘇東花さんと面会した。京劇を観る伝統的な劇場を教えてもらい、蘇さんのお薦めで私は正乙祠戯楼に行くことにした。正乙祠戯楼は「中国の劇場の生きた化石」と呼ばれる、最古の木造室内劇場である。あいにくとその日は京劇公演はなく、上海越劇院による「紅楼夢」が上演されていた。越劇は女性だけの劇団で、演目は中国国民に愛されている古典文学『紅楼夢』の古戯楼版であった。チケット代は思いもよらず高額の880・680・480・280元。 私は通訳と480元のチケット2枚を手配し、夜7時30分開演に間に合うようタクシーで乗りつけた。降りた場所は真っ暗の胡同の界隈で露路の奥に劇場があるらしいが、「北京の古い劇場は路地の奥にある」という通訳の言葉に渾沌とした思いが交錯した。開場時は閑散としていたのだが、約180席の客席は、大部分が地元の老若男女で満席になった。劇場の構造をフル活用した演出は客との近さを強調し、〈黛玉葬花〉の紗幕を使ったシーンも麗しかった。

・四合院造りの梅蘭芳記念館
 私は今度の出張で京劇についてもっと知りたいと思っていた。そこで、2006年の訪中の時には実現しなかった梅蘭芳記念館を訪ねることにした。京劇の名女方・梅蘭芳が晩年に過ごした邸宅は伝統的な四合院造り。アメリカ、ソ連、そして日本への巡業や歌舞伎との交流を証明する沢山の写真が東・西廂坊に展示されていた。中庭の正房前には左右対象に木が植えられ、正房の回廊には天女の絵、東・西廂坊の回廊にも四君子(蘭・竹・菊・梅)の絵が掲げられていた。麗しい女方そのものを表す佇まいから梅蘭芳の匂うような芸が浮かんだ。
 私と通訳は梅蘭芳記念館を訪ねる前に恭王府を見学してきた。恭王府は乾隆帝に寵愛された悪名高い和?(わしん)の広大な私邸でお抱えの京劇団の舞台を楽しんだ大戯楼も建てられているという。梅蘭芳記念館は恭王府から近かったので古い街並みを歩いてに行った。その通り沿いに大劇場や小劇場があった。まだまだ興味の尽きない京劇の世界である。

・国際交流合作処主催送別会
 最終日は日曜にもかかわらず、王副処長と張さんが火鍋店で送別会をしてくださった。お鍋の辛さも忘れるほどの熱い・篤い会合だった。王副処長は明朝早く、廖学長と数ヶ月の海外訪問へ出発するという。そのパワフルさに脱帽!
 明朝、私たちも6時にホテルを出発しなければならない。まだ夜が明けないうち、汪さんと楊さんはキャンパス内の寮からやってきた。空港へ向かうタクシーのなかで彼女たちはメッセージカードを下さった。とてもきれいな文字でカードには、“…日本人は人間関係を円滑に「芸術」と言えるほどの工夫がされたんだと感じた…丸茂先生のおっしゃっていた通り、文化というものは機械ではなく、人でしかちゃんと伝わらないものだから、私も日本の「思いやり」文化、「気を使う」文化を守り、世界へ伝えたい…”(汪)と書かれてあった。何と実りの大きな出張であったろうか。
 最後に、出張にあたっては本学部の樋口肇庶務課長と伊藤翼課員(当時)に行き届いた準備をしていただいた。ここに感謝申し上げたい。
    (『舞踊文化ETC』№28、黛民族舞踊文化財団、令和元年5月1日)



◆アジアの舞踊、おりふしの想い
     ~ORCNANA国際シンポジウムから「アジアの巫女舞-日本-」~ 
今年の正月二~三日、新しく迎えた年を寿ぎ、狂言師・野村萬斎が東京の真ん中、大手町の東京国際フォーラムで昨年に引き続き、「FORMⅡ」を開催した。真鍋大度の映像とのコラボレーションによる「三番叟」の上演だが、若者や外国人の観客も多いことから、三番叟の理解を深めるため、様々な映像を用いたイントロダクションに始まった。大阪・今宮戎神社の十日戎の笹に吉兆を結ぶ福娘、奈良・春日大社の神楽を舞う御巫(みかんこ)…など鮮明な映像が次々に映し出されるので興味が惹かれたが、ナレーションの「古代より舞は神と共にあった」という説明が妙に説得力があり、私は強いインパクトを受けた。腹の底から発声される、萬斎の滑舌の良い口跡が何と神々しかったことか……。
 そうなのだ! シンプルな説明だが、「古代より舞は神と共にあった」のである。そんな思いから、ORCNANA国際シンポジウム「アジアの舞踊:結ぶ伝統、いまを解く」(’Asian Dances:Link of Tradition and Solution of the Present’)も始まった。シンポジウム自体は2日間にわたり、盛りだくさんのプログラム内容だったが、前号で紹介したとおり、〝伝統舞踊の原点″として巫女舞に光りをあてた。第1日目は前号で取り上げた、韓国、台湾、インドを事例にした「アジアの巫女舞」であった。第2日目は日本の巫女舞を取り上げたほか、「巫女舞~旋回・跳躍・憑依の所作~」のタイトルでシンポジウムも併催した。今回はそれらを紹介するとしよう(2006年8月5日上演。演目の解説部分はORCNANA国際シンポジウムのプログラムを参考にした。なお、芳名・肩書は当時のものである)。

・日本舞踊/創作「巫女譜(こうなぎのうた)」【監修:三隅治雄】 芦川よし子(日本舞踊家)
Original Nihon Buyo:"Kounagino-uta"
Yoshiko Ashikawa (dancer of Nihon Buyo)
 巫女は、神に仕える女性として〝遊び″つまり鎮魂をし、笹や鈴・扇など神仏を招き寄せる採り物を手に持って歌舞をした。中世には今様や小歌などの歌謡が流行し、「よくよくめでたく舞ふものは 巫(かうなぎ) 小楢葉 車の筒とかや…」(『梁塵秘抄』330)とあるように、旋回や拍子を特徴とする舞をよくした。やがて、巫女の一部は漂泊する歩き巫女になり、港津・街道など水辺や交通の要衝に定着し次第に遊女化していく。
 この舞踊は、現代邦楽「巫女譜」(作曲:肥後一郎、歌・筝:友渕のりえ)に芦川よし子(現・花柳貴比)が振りを付け、第6回「芦川よし子の踊りを観る会」(2006年3月13日、於:赤坂黛アートサロン)で初演発表した作品。〈巫咒〉〈歩き巫女〉〈遊び女〉〈祈り・女人成仏〉の4部構成からなるが、本会では初演の時より短縮して上演された。
 日本舞踊における女性芸能の歴史と表現、さらに新たな作品の創造を追究してきた演者が、その模索の中で注目したのが巫女の存在であった。巫女の清浄なイメージから白の衣裳を基調とし、中世における彼女たちの変遷や心情を主題に昇華させた世界が表出された。

・能「巻絹」抄【監修:野村四郎】青木涼子(ロンドン大学SOAS校博士課程)
Noh:"Makiginu"(The Rolls of Silk)
Ryoko Aoki(School of Oriental and African Studies, University of London)
 能「巻絹」の作者は不明。素材は『沙石集』巻五にある、後嵯峨天皇の熊野御幸に付き添った伊勢国の夫人が音無川の梅花を見て和歌を詠み栄誉にあずかった、という歌徳説話。
 能「巻絹」では、都の男が勅命で巻絹を熊野権現に納めに来たが期日が過ぎていたため縄をかけられたところ、音無天神が乗り移っている巫女は、昨日男が手向けた和歌を喜び縄を解き、和歌の徳を述べ(クセ)、祝詞を捧げ(ノット)、神楽を奏する(神楽)うちに再び神懸りした様子で物狂いとなるが、しばらくして神は離れ去る、という内容である。
 「巻絹」抄では、ノットから神楽、キリの部分を上演した。キリでは、初めゆっくりと舞っていくが、だんだんとクルイの舞になっていき、神に憑かれた巫女が激しく動き、最後に憑き物が落ち本性に戻る。正常に近い常態から、神が憑いて、また上がっていく過程をすべて見せるのが「巻絹」の面白さで、神託と狂乱という2種類の演技要素を見せることができるのも「巻絹」の大きな特色である。本能でのシテの扮装は前折烏帽子をかぶり、大口に水衣を着、木綿襷をかけ、手に幣を持つ。本会では略式の形を取るため、紋付袴の出で立ちとなったが、演出においてはなるべく能に近づけた形で披露された。

 これら「巫女譜」「巻絹」抄の2演目は〝伝統舞踊の原点″の中で上演されたものであったが、じつは次のセッション〝伝統舞踊の縦軸″の中で、現・重要無形文化財保持者(人間国宝)の五世井上八千代師に特別のご出演を賜って上演された「倭文」もまた、巫女舞の事例として用意したプログラムであった。天孫降臨から始まり、天照大神の岩戸開きの神話を中心に繰り広げ、静けき御代を寿いだ御祝儀物である。「倭文」を舞う八千代の舞はまさに「古代より舞は神と共にあった」を表す至芸であったと言えよう。

・特別奏演/京舞「倭文」井上八千代(京舞井上流五世家元・(社)日本舞踊協会理事)
Special demonstration of Nihon Buyo
Kyo-mai:"Yamatobumi", or a traditionai dance in Kyoto
Yachiyo Inoue(Iemoto of the Inoue school of Kyo-mai,Director of the Japanese Dance Association)
 『歌系図』(天保2年刊)に拠ると、「大和文(倭文)」は京都の津山検校富一の作曲。作詞者は不明。原曲は井上流で舞う「倭文」より歌詞が長い。井上流では三下り#天照神の」から振りが付けられており、#神楽を奏し」の手事では能管で神楽を吹くが、「式三番」の三番叟の型をうまく取り入れ、鈴ノ段らしい動きをみせている。
 天照大神が天の岩屋戸におこもりになられたため常闇になったので神々がその出御を祈ったが、その前で神懸りして舞う天鈿女命の舞に興味を惹かれた天照大神が岩屋戸を出て再び天地が明るくなった、という岩戸開きの神話の中で、猿女君の先祖である天鈿女命の故事が巫女舞(神楽)の始原態をみせている。
 京舞井上流の大切な演目で、鈴と扇子を持った着流しの一人舞。祇園の始業式に舞うために三世井上八千代(片山春子)が振りを付けたとされ、今日も祇園の始業式には家元が「倭文」を舞うしきたりとなっている。井上流の創流には近衛家との関係をなくしては語れなく、堂上公家との接触により白拍子舞も井上流の舞の中におのずと吸収された。このように井上流が巫女的性格をもつ白拍子の舞の風を取り入れたり、京都祇園に育った女の舞としてあることからも、「倭文」は祇園の始業式に舞われる演目としてふさわしい。

 シンポジウム「巫女舞~旋回・跳躍・憑依の所作~」(Symposium:Asian shaman dances turn around or not )では、インドネシアの事例として河合徳枝氏(国際科学振興財団主任研究員)が「バリ島のトランス誘起性の舞踊について」、中国・ロシアの事例として星野紘氏(東京文化財研究所名誉研究員)が「神懸りと芸」、韓国の事例として神永光規氏(日本大学芸術学部教授)が「韓国の巫俗儀式と恨(ハン)の解放」、日本の事例として田中英機氏(実践女子大学文学部教授)が「祝女(ノロ)のシャーマニズム」をそれぞれの碩学の立場から深遠なテーマについて報告を行った。全体討論では田中氏が名司会ぶりで采配を取り、各報告者による意見のあと、「巫女舞に接近することによって、伝統の在りようということを考えていければと思います。」と次のセッション〝継承への取り組み″へと見事につなげて終わった。
(『舞踊文化ETC』№27、黛民族舞踊文化財団、平成30年5月1日)


◆アジアの舞踊、おりふしの想い~ORCNANA国際シンポジウムから「アジアの巫女舞」~
 Asia-Pacific Performing Arts Netowork(APPAN)主催国際フェスティバル&シンポジウムに私が参加してから、APPANの中心メンバーなどアジアの方々を日本へ招聘し国際シンポジウムを開催したのはその3年後であった(ORCNANA国際シンポジウム「アジアの舞踊:結ぶ伝統、いまを解く」(Asian Dances:Link of Tradition and Solution of the Present、2006年8月5~6日、日本大学芸術学部江古田校舎中講堂)。
 開催にあたり私が委員長となり、国際シンポジウム実行委員会を立ち上げ、本学教員のほか国際交流基金ニューデリー事務所長の深沢陽氏、実践女子大学田中英機教授らにもご参画いただき、APPAN役員のシャンタ・S・シン会長(インド)、イ・スンオク事務局長(韓国)、アニー・グレグ女史(オーストラリア・タスダンス芸術ディレクター)、ダニー・ユン氏(香港現代芸術センター代表)、そして実演家の林顕源氏(国立台湾戯曲専科学校歌仔戯科長)、シャーミラ・ビスワス女史(インド舞踊家)の、リシュケシュで寝食を共にしたメンバーほか、また日本からは特別講演に花柳寿南海師、特別奏演に五世井上八千代師など実演家・研究者・文化政策者をお招きすることができた(すべて肩書は当時)。
 開催の趣旨は、源流を同じくするアジアの舞踊が普遍性を持ちながら伝統をいかに展開させてきたか、その魅力に触れると同時に私たちはそれらを今後どのように繰り広げていけばよいのか、その方法や視点を探ることにあった。まず“伝統舞踊の横軸”として「ネットワーク構築について考える」を主題に6ヵ国におけるネットワーク化の現状・課題について、“伝統舞踊の縦軸”として「継承についての取り組み」を主題に3ヵ国の文化政策について、“伝統舞踊の原点”として「巫女舞」に光をあて、日本及びアジアの巫女舞や巫女を題材にした舞踊を紹介した上で、シンポジウムでは巫女舞の特色と所作について5ヵ国の基調報告を行った。
 本稿は「アジアの巫女舞」のうち海外の事例に絞って紹介する(8月5日上演。演目の解説部分はORCNANA国際シンポジウムのプログラムを参考にした)。

・韓国舞踊/創作「テガムノリ」 【振付:李梅芳】李炫周(韓国舞踊家)
Korean creative dance:"Daegam-nori"
Hyeon-Ju Lee (Korean dancer)
 韓国の人間文化財である李梅芳(「僧舞」「サルプリ」の重要無形文化財芸能保有者)が京畿道の巫女舞の要素を取り入れて創作した舞踊。幼少期を半島南部の木浦で過ごした彼の、その時の印象に基づいている。初演は1999年(1954年とも)で、その後、主に彼のソロで踊られてきた。演者の李炫周は李梅芳の愛娘で父から直接伝授された。
 韓国のシャーマニズム世界では古くから、巫女が神を迎え入れ(請神)、神と戯れ(娯神)、神を送り出す(送神)神事であるクッを行ってきた。この創作舞踊にも、巫女が神懸り状態に入り、歌や踊りに興じる姿がよく表されている。
 「テガムノリ」の特徴はめまぐるしく変わる感情の変化。音楽やリズムの変化に伴い、舞踊も「跳ぶ」「はねる」「回る」「抑える」「ためる」といった様々な表情を見せる。音楽的な感情の変化と、踊りの型の変化が見事に一致した作品となっている。
 1999年、私が故・目代清教授と国際交流基金の日本文化紹介で韓国へ二度目に訪問した際に李梅芳師をご紹介いただいた。以来、本学演劇学科との親交を深め、李梅芳師の特別講義を実現させて師の「サルプリ」をご披露いただいたこともある。そのご縁で炫周さんの来日となった。師は実に情けに厚い方でいらっしゃったが、風の便りによると数年前に身罷られたという。合掌。

・歌仔戯「牽亡陣」 林顕源(国立台湾戯曲専科学校)
Taiwanese opera:"Qian-Wong-Zhen"
Shean-Yuan Lin (National Taiwan Junior College of Performing Art)
 「牽亡陣」は台湾の伝統的な葬送儀礼であり、初期の歌仔戯(台湾オペラ)や台湾の詩から取られた舞台芸術の様式を用いている。内容は死者の魂を慰め西方浄土へ導くというものであり、霊魂と向き合い、自身に依り憑かせ語り演じるという点において巫女の特色との共通点が見出せる。
 形式は流派によって様々であるが、おおまかな一連の流れは、請神(死者の魂を導くため神々を呼ぶ)、調営(魂を守るための隊を指揮する)、勧亡(亡霊を慰安する)、過関(36の門を通る)、遊十殿(地獄にある10の宮殿を通る)、謝神(神に感謝する)、送神(神を送り帰す)。登場人物は4人(法師・老女・若い女性・少女)、全体で40分以上の公演となるためシンポジウムは抜粋しての上演であった。
 演者の林顕源さんとはインド・リシュケシュでご一緒であったのを機に、2005年に開催された戯曲芸術国際研討会(国際オペラフォーラム)と台湾戯曲専科学校創立六周年式典に私を招聘して下さった。幼少時に学校に入学し、若くして歌仔戯科長に就任された優等生。歌仔戯の女形としても活躍されている人気俳優でもあられる。

・オディッシ/原型「オリッサのマハリ」シャーミラ・ビスワス(インド舞踊家)
Origin of Odissi:"The Maharis of Orissa"
Sharmila Biswas (Indian dancer)
 マハリはオリッサの寺院において神々の前で祭礼の重要な部分を歌い舞う女性のこと。人間の五感を支配するとされ、すべてを神に捧げる存在として寺院での儀式に参加する。
 まず、マハリが朝の儀式の一部として毎日演じる舞踊は、マハリの中でも純粋な舞踊技術に熟練したバハルガウニと呼ばれるグループに特有のもの。引き続いて、チャンダンジャトラと呼ばれる神の化身が輿に乗って現れ、その傍らでマハリたちが行列になって踊る。最後にチャンダンジャトラの終わりを告げる舞踊を演じる。マダンモハンはナレンドラプシュカルと呼ばれる湖で舟乗りに出かけ、湖上の島で休息を取る。その周りでマハリが歌い舞うのである。夜遅くになると、マハリの一人が寺院から出てきて神を呼び戻す。「皆は疲れ、もう家路に着く頃合いである」という内容の歌を歌うが、これはマハリの中でもビタルガウニと呼ばれるグループが行う。このグループは表現的な舞で大変敬われ、神の真の妻と呼ばれている。
 6世紀には存在していたマハリが、当時、存命なのは2人(確か90歳代の高齢であったと私は記憶している)だけになっていたため、ビスワスさんは2人のマハリの協力で、彼女たちの精神と生活様式を研究し、舞踊の動きや歌などを学び、マハリの伝統を伝える舞踊を創作した。リシュケシュではそれを披露され、私は「オディッシ」の原型とも言える「マハリの舞踊」を日本に紹介したいと願っていたのがシンポジウムで叶ったわけだ。
 多様な姿を見せながら、それぞれが交差しつつ広がるアジアの舞踊。じつに充実したパフォーマンスが繰り広げられたORCNANA国際シンポジウムの第1日目第1セッションであった。第2日目第3セッションでは、日本の巫女舞として能(仕舞)「巻絹」、創作舞踊「巫女譜」、京舞「倭文」(特別奏演)を上演した。さて、このお話の続きは次回に……。(以上、照明は北寄﨑嵩氏、美術は沼田憲平本学教授、舞台監督は千早正美本学教授)
(『舞踊文化E.T.C』№26、黛民族舞踊文化財団、平成29年5月1日)



◇アジアの舞踊、おりふしの想い~APPAN国際フェスティバル&シンポジウム~
 今回は、私がアジア各国の舞踊と初めて出会ったAsia-Pacific Performing Arts Netowork(APPAN)第5回国際フェスティバル&シンポジウムへの想いを綴ろう。それは2003年1月25~27日、インドのヨガの聖地リシュケシュで開催された。リシュケシュと言っても会場はかなり山奥、ヒマラヤ山脈を見渡したガンジス川上流に建つ大富豪のサマーハウスの広大な庭だった(自家発電が壊れ、冬なのにお湯が出ないという悲惨な状況下を過ごした)。そこで三日三晩、朝から晩まで「聖と俗~アジアのパフォーマンス・アーツにおける男性/女性の役」を大テーマにレクチャー、デモンストレーション、パフォーマンスと盛りだくさんのアジアの舞踊が公開された。私はAPPANの委員でもあったが国際交流基金日本文化紹介として派遣され、APPANの要望に応えテーマはGEISYA DANCEで日本の芸者の社会的機能と日本舞踊との関わりについて講演した(『季刊 舞踊研究』№105 pp9-11に詳しい)。
 APPANは1998年の国楽院主催の東洋音楽国際会議で司会を務められたイ・スンオク女史が韓国ユネスコの傘下として立ち上げた組織で、伝統的な舞踊並びに伝統を基にした現代の舞踊が中心であることが特色だった。海外経験の乏しい私が韓国の次にインドに訪問することになったのには複雑な経緯があったが、それはさておき、多彩なプログラムから選りすぐりの舞踊を、貴重な写真とともに紹介しよう。なお写真撮影は、私がリシュケシュへの同行を依頼し快くお引き受け頂いたバレエ評論家の桜井多佳子さんである。

・タイ古典舞踊劇のルーツ「ノーラー」
 Presentation of Cross-Gender form, Nora, by Ajarn Chin Chimphong(Thiland)
 日本でノーラーが本格的に公開されたのは2006年12月に開催された国立民族博物館主催公演「天空のつばさ~南タイの伝統芸能 ノーラー~」だというから、私がノーラーの本物を見たのはそれに先駆けて、ということになる。タイの古典舞踊劇と言えば主にラーマキエン(タイ版『ラーマーヤナ』)を題材にしたラコーンを思い浮かべるが、タイで最も古い舞踊劇であるノーラーは日本ではほとんど知られていない。カラフルなビーズの衣装を身にまとった、有名な男性ダンサーによる舞踊は正直言って奇妙な印象を受けたのだが、本来はこのようにすべて男性によって演じられたもの。ノーラーの原典はストン王子と鳥族のマノーラ姫の民話で、ノーラーは筋よりも踊りの動きとセリフに重点が置かれるという。それは半人半鳥の形による女性と男性の混ざった踊りで音楽が流れるように踊っていた。
 ノーラーはタイ南部が発祥だが、そこにはインド人居留区があったそうで、その源流はインドとされている。国際交流基金ニューデリー事務所(深沢陽所長)は通訳にルパリ・バジパイさんを付けて下さったが、彼女は賢明な女性だったのでノーラーを見ながら私の耳元でいろいろと感想をつぶやいた。「音楽はインドの田舎(ジャングル)に住んでいる民族の音楽に似ている」「蓮が重要というのは蓮がパールヴァティさんの席だから」「横たわった姿勢はヴィシュヌさんのポーズ」など。ノーラーの伝説はインド神話の踏襲ではないとされているのだが、インド人ルパリの直感をひとつ信じてみたい。

・カンボジアの古典舞踊「ラバン・ボラン」
 Performance of Rabam Boran dance by Ouk Chunmith(Cambodia)
 カンボジア舞踊家の山中ひとみさんの解説によると、カンボジアの古典舞踊の主な題材はリアムケー(カンボジア版『ラーマーヤナ』)やアプサラス(天女)で「王や夜叉を含む男役も女性が務め、男女の組踊りでも女性が男役を担うが、例外的に猿と仙人の役は男性が務める」とある。後年、プノンペンでカンボジア舞踊の稽古を視察した時、猿役専門の女師匠が若い女性にきっちりと技を伝授していた、その光景を思い出す。以前は、猿役も含め、すべての役を女性が演じていたのである。
 リシュケシュで見たラバン・ボランの演目は、写真のダンサー2人の型や手の動きを頼りに調べたところでは「テップ・マノローム(天上界の踊り)」という踊りではないだろうか。この写真は本衣装ではないと思うが、男役(天男)は女性が担い、筒状の脚衣をはき、女役に比べ足は外輪が強調されており、日本舞踊に喩えれば素踊りの立役にも通じる不思議な魅力を漂わせている。後年知ることになるのだが、この男役のダンサーは何とカンボジアのウック・ソチャット文化芸術大臣(本誌№21 p4写真参照)のご令嬢であった。

・幻のバリ古典舞踊「ジョゲ・ピンギタン」
 Performance of Joged Pingitan by Ida Ayu Made Diastini(Bali)
 インドネシアのバリ島のレゴン舞踊は、その優美さで多くの観光客を魅了するが、リシュケシュで披露されたのはレゴンより古くに成立した古典舞踊のジョゲ・ピンギタンであった。ジョゲ・ピンギタンは19世紀後半に王様の娯楽として生まれ、後宮の女性たちによって踊られてきた。現在ではバトゥアン村とスバリ村が伝える2つのスタイルがあり、スバリ村では5演目を伝承しているらしい。そのうちの1つに現地の関係者が「鳥の踊り」と呼ぶ「プパクシアン」がある。私が初日に見たものは「鳥の踊り」と説明されていた。ダンサーはイダ・アユさんで、キパスという小ぶりの扇子を巧みに扱いながら、レゴンよりも古典的で力強い動きが印象的。また翌日に披露されたジョゲ・ピンギタンの違う演目(「クンバン・ギラン」だったと思うが)は魅惑的なものだった。
 さて、タイ、カンボジア、バリの舞踊はインドのマニプリ舞踊に似ているという説明があった。クリシュナ神話を題材としたマニプリはインド北東部のマニプール州の蒙古系の民族舞踊である。現在は男踊り(ターンダヴァ)と女踊り(ラースヤ)で構成されているが、本来は女性の群舞だった。女性の踊りにみる、なよやかな手の動きやゆったりした音楽がまさに東洋的。リシュケシュではマニプリの上演はなかったのだが、マニプール州から来た、タング・タという男性2人による激しい伝統剣術はスリル満点であった。

 毎朝、サマーハウスのテンプル(リンガが祀られている)で僧侶から額にティカが施された。最終日、そのリンガの脇でアルズナレシュワル(ARDHANARISHVARA)の踊りが披露された。アルズナレシュワルとは右半身がシヴァ、左半身がパールヴァティという男女の身体が合体した形だが、それは、シヴァ神とその妻のパールヴァティが踊っているうちにあまりの楽しさに身体が合体したという伝説に基づくもの。
 その晩、土砂降りの大雨に見舞われ、翌朝は九死に一生を得た思いでリシュケシュの街中へ戻った。翌日はデリーの街を案内され、私たち3人はフライト待ちでさらに1泊、アーグラーへ。霧に包まれたタージ・マハルは遠くて近い。リシュケシュで出会ったアジアの舞踊のように…。
(『舞踊文化E.T.C』№25、黛民族舞踊文化財団、平成28年5月1日)


◆アジアの舞踊、おりふしの想い~韓国・龍仁大学校&日本大学芸術学部~
 私が本学海外派遣研究員として渡韓してから、はや15年が経つ。月並みな言葉だが、まさしく今“光陰矢のごとし”の心境…。2000年2月28日に日本を離れ、3月に入ると国楽院や舞踊院の建つ牛耳山(ウミョンサン)一帯が、小さな黄色い花を枝に密に連ねたケナリ(連翹)で埋め尽くされた光景を思い出す。ゲストハウスと舞踊院・国楽院の行き帰り、その黄色の鮮やかさは私に夢や希望を与えてくれた。ケナリは、日本人が春に愛でる桜に代わって、韓国人に春の訪れを感じさせる花。日本では桜前線が北上し開花予想も出されるその頃、「日本人だから桜が恋しいでしょ」とソウルから車で約1時間の韓国民俗村まで花見に誘って下さった心配りのある韓国の方々。さて、この韓国民俗村のある京畿道龍仁(ヨンイン)市に今回紹介する龍仁大学校がある。
 本学芸術学部の平成25年度事業計画のうち、海外交流の活性化の一つに龍仁大学校との交流推進が挙げられた。その交流推進のために派遣された一行の一員として、私は2013年9月に龍仁大学校文化芸術大学を訪問した。一行のメンバーはほかに山内良一事務長、佐藤一哉経理長、演劇学科小林直弥准教授(現・教授)。龍仁大学校で迎え入れたのは、文化財学科裵宰浩教授(文化芸術大学長兼)、朴智善教授ほかの教職員の方々。
 訪問に先立つ前年の5月末、龍仁大学校文化芸術大学御一行が本学芸術学部へ来訪し、ミーティングが行われた。「龍仁大学校文化芸術大学」とは日本風に言えば「龍仁大学文化芸術学部」で舞踊、絵画、ミュージカル・演劇、国楽、映画映像、文化財、メディアデザイン、文化コンテンツの8学科から成っている。写真、映画、美術、音楽、文芸、演劇、放送、デザインの8学科を有する本学芸術学部と組織的な共通をみるところから今後の交流の可能性-教員の交換や学生の授業参加、異文化体験など-について活発な意見が交わされた。それによって、11月中旬には本学芸術学部の宮澤誠一学部次長と木村政司海外交流担当(現・学部次長)が龍仁大学校の視察を行った。その翌年の6月中旬、龍仁大学校創立60周年式典に野田慶人芸術学部長が参列され、その約3ヶ月後に私たち一行の訪問となった。実は、私と小林教授が派遣された背景には野田学部長の特別な計らいがあった。龍仁大学校の朴仙卿副総長(現・総長)のご専門が伝統的な美術史であるところから、野田学部長の「まず伝統的な日本舞踊の教員との交流」でスタートを切る方針に従い、私と小林教授に白羽の矢が立ったのである。
 本学部の樋口肇庶務課長と小林太一課員(当時)が交渉の窓口となり、行き届いた準備によって9月2日夕方に私たちは羽田を出発し、キンポ空港で許旭映画映像学科教授とキン・ゴンウォン教学課長の出迎えを受けた。翌日、龍仁大学校へ。午前中に裵教授の案内で朴総長を表敬訪問し、続いて舞踊学科・演劇学科の学生を対象に筆者は特別講義「日本舞踊について」を行った。パワーポイントで画像を豊富に用いながら日本舞踊の概念・歴史・制度・技法などを解説、講義の最後には佐藤経理長が本学部の授業や学生の様子をビデオ映像で紹介した。通訳は朴教授。女史は京都国立博物館で文化財修復の研修をした経歴を持った方で私とすぐに打ち解けることができた。昼食は朴総長が本格的な韓定食のレストランへご招待して下さり、ユン・カンジン演劇学科教授、ナム・スジョン舞踊学科教授らも加わって会食。午後は再びキャンパスに戻り、小林教授がワークショップ「扇の技法」を行ったが、学生たちの熱心に練習をする表情が印象的。続いて、その場所で本学部日舞コースが振付上演した創作舞踊(「ひととせ-花鳥風月抄」「光・影」)のビデオを上映した。そうして、終了後にはキャンパス内(演劇学科や文化財学科)を視察する、というように1日で何と盛りだくさんのスケジュールをこなしたことであったろう。
 2日目は龍仁周辺の文化観光が用意された。「利川(イチョン)の陶器を…」という私の希望に応えて利川世界陶磁センター(セラピア)を案内して下さった。ただそこは私の希望を叶える場所ではなく、15年まえに訪れた高麗青磁の或る窯元を私は再訪したかったのである。龍仁大学校の若い教学課員が必死に探して下さり、さらに車で奥へと入り、世昌金世龍名匠の工房へとたどり着いた。15年前、農家のような庭先に展示室があり、そのなかにズラリと並べられた高麗青磁のそれこそ息を飲むほどの美しさに感嘆した。日本では目にしたことのない、艶麗な青磁の質感と精緻な菊花の透かし彫りを特徴とする高麗青磁。今はSECOMでセキュリティされた豪奢な建物も増築されていたが、名匠の気さくな人柄は以前と同じ。その後、滞在先のホテルのある水原(スウォン)へ帰り、ユネスコ世界遺産の華城(ファソン)を裵教授の教え子である博物館員の案内で見学。15年前は広い野原に立って華西門や華虹門、城壁を眺めてきただけだったのが、今は城郭内は見事に市街地化され、猛暑のなか一巡りするのは容易でない広さに圧倒された。前号で取り上げた国楽院主催の国際学術会議「東洋と西洋の古楽譜と舞譜」の項で少し触れたが、韓国には優秀な記録文化の歴史があって、華城は『華城城役儀軌(ソンヨギグェ)』に基づいて復原された実績が認められ、ユネスコ世界遺産に登録された。『華城城役儀軌』は華城の築造に関する経緯や制度・儀式などすべてを網羅し、なかに城郭の設計過程、実際に建てられた建物の形態、規格と特徴などが記録されているという。翌日、龍仁大学校からの大歓迎を受けた私たちは名残惜しみつつ日本への帰途に立った。
 その3ヶ月後の12月中旬、裵教授、朴教授ら4名が本学芸術学部を訪問された。裵教授が「文化財の保存・韓国と日本」の特別講義をされ、本学部の先生方や学生たちと親交を深めた。翌日、一行はサントリー美術館で「平等院鳳凰堂平成修理完成記念 天上の舞 飛天の美」を鑑賞し、浅草寺などを観光した。このようにして両学部の交流は、両国の伝統文化を軸にお互いの学術や芸術を理解しあうというスタンスで始まった…。
(『舞踊文化E.T.C』№24、黛民族舞踊文化財団、平成27年5月1日)


◇アジアの舞踊、おりふしの想い~韓国・国楽院&高麗大学校~
 今回は『舞踊文化E.T.C』№20の話の続きである。私が韓国との交流を深めてきたのは国立国楽院の東洋音楽国際会議に出席したのがきっかけで、再び国楽院から招聘を受け発表の準備に取り組んでいる報告で№20の話を結んだ。
 その原稿を書いている最中は予想さえしなかった出来事が、その後日本を襲った。3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震である。私が国楽院の招聘で訪韓したのは4月6日。まだ日本全体が大きな衝撃と深い哀しみに包まれ、海外からも支援の手が差し伸べられると共に海外メディアで東北地方の人々の秩序正しさが賞賛の的となった頃でもあった。国際会議の席では国楽院長朴一薫先生が挨拶の冒頭で「最近、大地震の被害と苦しみを受けた隣国日本の参加者の皆さんへ真心より慰労と激励をこの場を通じて伝えます。」と哀悼の意を表された。また、私のソウル長期滞在前から知遇を得ているソウル大学校の黄俊淵教授の「ニッポン、がんばれ!」という生の声のぬくもりを今でも覚えている。
 さて、そういう思い出もあり、今回はその国楽院の国際会議と昨春に招聘を受けた高麗大学校韓国語文教育研究所主催の国際会議について紹介しよう。

・国立国楽院開院60周年記念国際学術会議「東洋と西洋の古楽譜と舞譜」
              [2011年4月7-8日、於:国立国楽院大会議室]
 国楽院は韓国最高の音楽機関で開院は1951年。それから60周年を記念した国際学術会議「東洋と西洋の古楽譜と舞譜」が2011年4月に開催された。しかし、国楽院の歴史は新羅時代の「音声署」に始まり、高麗時代の「大楽署」、朝鮮時代の「掌楽院」、近代の「李王職雅楽部」と続いてきた国立音楽機関の伝統を引き継いだものとされ、“国楽”(“楽”とは音楽と舞踊を合わせた概念)には韓国の歴史と息づかいが含まれているという考えが大事である。
 朴院長の挨拶は「この音楽機関の歴史は私たちの先祖が残した楽譜と舞譜があって、なお一層、光り輝いてみえる。私たちの国には朝鮮王朝実録、承政院日記、八幡大蔵教板などユネスコ世界記録遺産に指定された優秀な記録文化がある。古楽譜と舞譜の価値も遅れをとらないとみる。今日の国際学術会議の意義は、長く人類と共にあった音楽と舞踊の記録遺産について研究と討論とをすることにある。わが国をはじめとする東洋と西洋の音楽と舞踊の基本的研究を通じて伝統公演芸術の補助及び伝承にみる記録の重要性をもう一度、再考する契機となることを期待する。」という主旨であった。
 日本と違って韓国は、王朝の興亡や日本のみならず他民族の侵入により、伝統文化の断絶を繰り返した。宮中呈才の中で最も古い舞踊の一つとされる「処容舞」も朝鮮時代後期に伝承が途絶え、李王職雅楽部の時代に『楽学軌範』に基づいて再現されたものであるなど、“記録”に関しての重要性は日本人以上に切実な思いがあるに違いない。
 初日には基調講演として、漢陽大学校名誉教授コン・オジョン氏の「韓国伝統音楽の一般的特徴と記譜法の歴史」、ドイツ・ハンブルク大学教授クリスチャン・カデン氏の「記譜法、形態、機能、認知的原理」の二演題。初日の研究課題は音楽、まず黄教授が『時用郷楽譜』(李朝時代の歌曲集)の「城隍ハン」と「雑処容」の楽曲の比較分析を発表された。黄教授は韓国音楽研究の第一人者で、その研究業績は日本でも知られている。
 2日目は午前中が音楽。ここで神戸大学の寺内直子教授による『明治選定譜』についての発表があった。午後の研究課題は舞踊で、私は「日本舞踊譜について-幕末期成立の『妓楽踏舞譜』を中心に-」を発表した。『妓楽踏舞譜』は日本舞踊譜において系統的に整理された最初の舞踊譜に位置づけられている。私は、『妓楽踏舞譜』の各々の術語の動作、その術語が江戸の歌舞伎・日本舞踊で広く使われていたか、術語に付された符号の根拠は何か、の考察を中心に日本舞踊譜の現況(歴史・種類)と舞踊譜活用の事例や争点(伝承・復元・解釈の問題)について言及した(拙著『おどりの譜』国書刊行会、2002)。
 実はこの国際会議に私を推薦して下さったのが朴一薫夫人の金英淑先生。私との初めての出会いは東洋音楽国際会議で、それ以来、とても親切にして下さった。当時、朴院長は国楽院国楽研究室長、金先生は仁川広域市立舞踊団芸術監督。忘れもしないのは私がソウルに住んでまだ二週間も経っていない3月10日、釈奠大祭の佾舞を見学に成均館大学校まで思い切って一人で足を運んだ時のこと。踊るのは国楽高等学校の生徒でその指導に当たっていらした金先生と再会し、言葉が通じないけれども、一緒に食事をし、黙って私を車で送って下さった。現在は佾舞保存会会長でもあり、金先生の論文「現行佾舞考」はORCNANA資料集「宮廷舞踊 佾舞-中国・韓国-」(2009)に再録させて戴いている。

・高麗大学校韓国語文教育研究所第2回国際学術会議「中・高校演劇教育の現況と展望」
          [2013年5月31日、於:高麗大学校CDL国際会議ホール]
 韓国語文教育研究所の国際会議に私を推薦して下さったのは前実践女子大学教授の田中英機先生であった。ORCNANAプロジェクトで日本舞踊教育の調査研究を実施した際に委員長をお引き受け戴いた。その経緯から、日本舞踊教育についての発表の場を私に与えて下さったのである。私の演題は「日本中高古典演劇教育の現況と展望-日本舞踊教育について-」で、なぜ古典演劇教育が日本舞踊教育に置き換えられるのか、学校教育における日本舞踊周辺領域の近年の動向、ORCNANAアンケート調査結果による日本舞踊教育の現況、日本舞踊教育実施校への聞き取り調査、日本舞踊教育の展望について発表した。
 偶然にもこの時の座長が中央大学校教授の朴銓烈先生であった。韓国語文教育研究所所長の田耕旭先生と親友だという。朴先生は一昨年日本演劇学会がソウルで開催した際に基調講演「韓国演劇史における『演戯』の意味と研究領域の拡大」をなさった韓国演劇史と門付け研究の第一人者で、人類学的に日韓の比較研究をされた高著『門付けの構造』(1989)がある。ソウル長期滞在中に私を厚遇して下さり、ことに韓国で好評を博した『青山別曲』という創作舞踊に私が強く心を揺さぶられることになったのは、朴先生から詳しくご示教を受けたからにほかならない(『季刊 舞踊研究』№93に詳細を掲載)。
 この国際会議では50分間の予定で人間文化財による鳳山タルチュムの公演がたっぷりと行われた。鳳山タルチュムと言えば、昔、黄先生が私なら役立ててくれるだろうと金白峰先生の手になる分厚い舞譜を私に贈って下さった。数年前、NANAプロジェクト終了の際に私が持っていても宝の持ち腐れになると思い、韓国文化院に寄贈させて戴いている。その舞譜は今回観た鳳山タルチュムと同じボリューム感を呈したものだった。
(『舞踊文化E.T.C』№23、黛民族舞踊文化財団、平成26年5月8日)


◇アジアの舞踊、おりふしの想い~韓国舞踊「太平舞」と「扇の舞」~
 さてまた、今回は韓国の話に戻ろう。近代韓国伝統舞踊の父・韓成俊についてと、その娘・韓英淑(第27号僧舞第1代保有者)の弟子・李愛珠女史(第27号僧舞第2代保有者)については前々号で触れた。「僧舞」は僧侶の舞踊を芸術的な独舞として整えた代表的な民俗舞踊で、三大伝統舞踊の一つ。ほかに「サルプリ舞」と「太平舞」がある。
 今回はその「太平舞」と人気舞踊の「扇の舞」について、その舞踊をそれぞれ正統に継承される梁性玉女史と金末愛女史との出会いを交えながら、私の想いを綴りたい。
 両女史と正式に面会したのは、勤務先の日本大学の海外派遣でソウルに滞在した折に舞踊教育機関の視察を行った時だった。私と同い年の梁性玉女史は慶熙大学出身で韓国芸術綜合学校伝統芸術院教授、金末愛女史は慶熙大学校舞踊学部教授。どうもお二人は後輩・先輩の関係のようでもあった。

・民俗舞踊「太平舞」(テピョンム)の衣裳の型
 韓国の巫女(ムーダン)の踊りには「ワンコリ(王の舞)」や「テガム(大監)ノリ」というものがあり、その「ワンコリ」を韓成俊が形式的に古典に忠実になるように直したものが「太平舞」である。華麗な衣裳に身を包み、複雑な拍子が流れるにつれ、腕は静かに上げつつも足が多様な動作を操り、裾を翻しながら踊る姿。その秘めたるものの奥にスペイン舞踊の持つ情熱と一脈相通ずるものを感じさせる舞でもある。
 この舞踊は韓英淑、そして姜善泳に受け継がれて1988年重要無形文化財第92号太平舞に指定された。梁性玉女史は重要無形文化財第92号太平舞伝修助教の認定を受けている。
 ここに「太平舞」の衣裳についての興味深い写真が5葉ある。韓英淑の写真は百済の宮廷衣裳、姜善泳と梁性玉の写真は新羅の宮廷衣裳だという。韓成俊はワンコリを「朝鮮の王が踊られたとして出来た昔の踊り」と定義し、新羅時代の処容伝説や祭政一致時代の司祭が王だった当時の王たちが踊っていた記録と関連づけている。ということで、新羅の宮廷衣裳を着るのが本来のようだが、日帝時代はそれを着るのが許されず、百済の宮廷衣裳に替えて踊ったのだと誰に教わったか忘れてしまったが、以前聞いたことがある。
 韓国は他民族の侵入による荒廃のみならず、王朝の興亡が繰り返されてきた。その中で日本の古代文化に大きな恩恵をもたらせてくれたのが百済である。百済の都・扶余(泗沘)に流れる白馬江(錦江)を舟に乗って川下りをしたことがある。川の流れは悠久の昔から変わらず、この川から人や物が運ばれ、池造り・鍛冶・機織り・酒造りの技術も『千字文』や『論語』などの漢学も日本へと渡ってきたのだろう。それら百済の文化は香り高く、人々は戦いというものは好まず、束の間の平和な日々を白馬江に舟を並べて宴を開き、鼓や琴の楽器を奏で歌い舞ったという。その絶壁に「落花巌」と名付けられた名所があるが、それは唐と新羅の連合軍に負け、王宮に仕えていた大勢の女官が身を投じて百済と共に散っていった場所である。この戦いでは倭国の援兵が百済の再起をかけて戦ったことからも、日本と百済の絆の強さが知られよう。「太平舞」の衣裳の二つの型には、このような古代の日韓の交流史を背景にした関係が隠されているのだろう、と私は勝手に推測している。
 ところが・・・、である。ORCNANAプロジェクト主催の日韓シンポジウムで公開した梁性玉先生の教え子による「太平舞」では、はじめ新羅の衣裳で出て、途中百済の衣裳に変わるものだった。私は今も書いてきたように「太平舞」の二つの衣裳のことを聞いていたので、この演出に現代の息吹を感じたのだった。

・創作舞踊「扇の舞」(ブッチェチュム)の源流と創造
 「扇の舞」と言えば、まだ私が若い頃、リトルエンジェルスが来日公演した舞台の話題をおぼろげに覚えている。羽根で縁取られた扇を両手に持ち、端正な顔立ちの少女たちが微笑んだ花の輪のような形・・・。それ以来、「扇の舞」は古典美を大衆的に表現した、代表的な韓国舞踊として日本人の私たちに印象づけたに違いない。
 韓国に行った時、「扇の舞」は伝統舞踊ではないのですよ、と教えられたことがある。巫女の舞踊の中で扇を持って踊る舞を応用した、現代の創作舞踊である。金白峰(崔承喜の義妹)が、1954年に独舞の「扇の舞」を初演し、1968年のメキシコオリンピックの際に群舞に構成し直し、大勢の人が踊るようになったもの。これは崔承喜の「巫女舞」を見て、そこから創作されたという。
 海外研修以前のことになるが、ソウルのホテルで行われた「扇の舞」の講習会を見学し、慶熙大学名誉教授でもある金白峰先生と会食させていただき、いろいろなお話を伺う機会に恵まれたことは幸運であった。
 半年ほど後に本学の海外研修では韓国の各舞踊教育機関の視察を実施したが、本学と正式な交流校の慶熙大学芸術学部にある舞踊科で初めて金末愛先生とお会いした。その際、舞踊学部を立ち上げる準備をしていると話されていたが、数年前にORCNANAプロジェクトで招聘した時にはすでに舞踊学部の所属となっていた。日本には“舞踊学科”さえ皆無の状況であるのに、韓国では舞踊学科は50以上もあり、実に羨ましい限りだ。しかしながら、慶熙大学の舞踊は韓国舞踊が非常に強いのが特徴であるという点では、40数年の歴史を誇る、本学芸術学部演劇学科日舞コースとの共通性を持っている。
 さて、「扇の舞」は金白峰先生の代表的なレパートリーであるので、それを永遠のものとして残していくのが慶熙大学舞踊学部の課題であるという。そして、「扇の舞」の源流のものも保存しつつ発展させていく。つまり、師匠から教えてもらったこの舞を弟子として守って、それにかつ自分なりの独創性を加えて、少しずつ変化させていきたい、と金末愛先生は語る。日韓シンポジウムでは金末愛先生の教え子によって「扇の舞」が優美に披露された。

 2009年1月、芸術学部で開催したORCNANA日韓シンポジウム「舞踊の教育システム」へお二人をお招きし、<韓国芸術綜合学校伝統芸術院の舞踊教育-「太平舞」の伝習->、<慶熙大学校舞踊学部の舞踊教育-「扇の舞」の再構成->というテーマでレクチャーデモンストレーションを公開した。シンポジウムの要旨と韓国舞踊の動画はORCNANAのホームページ(http://www.orc-nana.jp)
の「NANAの活動」から入り、「公開講座・シンポジウム・フォーラム」「韓国舞踊紹介」をご参照いただきたい。また日韓シンポジウム時の写真は『民族舞踊文化』№21の6頁に掲載されている。
   (『舞踊文化E.T.C』№22、黛民族舞踊文化財団、平成25年5月7日)

◆アジアの舞踊、おりふしの想い~カンボジア・王宮の舞姫への追憶~
 私が2008年12月にカンボジアへ訪問したことは以前にも話をしてきたが(『民族舞踊文化』№21・『舞踊文化E.T.C』№19)、今回は、なぜ私がカンボジアの宮廷舞踊に関心を抱いたのか、視察当時のカンボジアの舞踊状況は如何か、また宮廷舞踊の踊り手を母に持たれたオム・ユヴァンナー教授(Prof. Om Yuvanna)の昔話を交え、カンボジアへの想いを綴りたい。
 日本ではカンボジアの芸術情報が極めて少ないため、この訪問にあたり、当時ユネスコ・プノンペン事務所長でいらした神内照夫氏とカンボジア古典舞踊家の山中ひとみさんのお二方に並々ならぬご尽力とご教示を賜ったことに感謝と御礼を申し上げる。

・古典舞踊記録プロジェクトのこと-『アジアセンターニュース』№16(2000年11月発行)
 私がカンボジアの宮廷舞踊の動向に関心を抱いたのは今から一昔も前のこと。国際交流基金アジアセンターの機関誌に報告されたロバート・ターンブル氏による「カンボジアの古典舞踊記録プロジェクト」を読んでのことだった。概略は、
  
「クメール・ルージュ政権下にアンコール王朝文化が一挙に破壊され、1981年の舞台芸術の調査結果で「舞踊家のわずか10パーセントしか生き残っていないという事実に直面した」という事態が明らかになった。その後、ロックフェラー財団の助成を受けたニューヨークのアジアン・カルチュラル・カウンシルが「長老による指導プログラム」を実施し、年老いた舞踊家たちから口伝えの奥義を披露してもらった。が、成果を記録する記述方法に統一と正確さを欠いていたため、複雑な作業を要する調査と記録に重点を置いたプロジェクトが国際交流基金アジアセンターの助成で17ヵ月以上にわたって実現され、王宮の古典舞踊のレパートリーである65作品のうち約半分が1997年までに蘇った。」

というものだが、折しも、新聞紙上で日本画の巨匠・平山郁夫氏がカンボジアのアンコールワット遺跡の保護・救済活動に取り組んでいるという記事を目にし、片や気付かぬうちに失われてしまう無形のものの儚さに私はつい無念さを覚えたのだった・・・。
 そういう想いがようやく叶って、NANAプロジェクトで2008年にはカンボジア訪問に漕ぎ着けたわけである。

・「アジアの国の人たちが今何を求めているのか」-神内照夫氏からの御助言
 神内照夫氏とは2004年6月にタイのバンコクで開催されたユネスコ/アッパン人形劇フェスティバル&シンポジウム(UNESCO/APPAN Festival and Symposium of Puppetry)で初めてお会いした。その時に神内氏から「アジアの国の人たちが今何を求めているのかを知り、その手助けをしてあげることが大事だ」という意見を伺ったのが、私がアジアに向き合う姿勢のその後の方向付けとなった。私流に解釈すれば“私たちの考えや手法を押しつけてはいけない”ということで、とかく先進国の人間には忘れがちな姿勢を戒めたものと私は受け止めた。その一言が印象的だったため、NANAプロジェクトでカンボジアを視察先に決めた際、神内氏にまずご相談し、そのなかで次のような情報を戴いた。

「カンボジアの伝統芸術を保護・継承する目的で人間国宝制度設立プロジェクトを2年前から行なっており、ユネスコ韓国基金を通じてカンボジアの文化芸術省を支援している。
カンボジアは驚くほどのスピードで経済発展をしているが、まだ長年の国内紛争の影響が残っており、特に芸術家・文化人にとっては良い環境ではない。
そうして神内氏のご紹介で文化芸術省を訪問し、文化芸術大臣のウック・ソチャット氏(Mr.Ouk Socheat)に古典舞踊記録プロジェクトについて伺った際、「これまでに少しずつ整備してやっている。1つは調査して、2つめは無くならないように守る、3つめはアレンジする。」「次世代を担う子どもたちに、本にしたり、ビデオに収めていくなどして、今まであった文化が無くならないようにして発展させていきたい。」という方針を伺うことができた。」

・圧政時代を生き延びた古典舞踊家の一人-オム・ユヴァンナー教授の聞き書き
 王立プノンペン芸術大学付属芸術学校古典舞踊科を日本人として初めて卒業し、現在カンボジア古典舞踊家として活躍されている山中ひとみさんのご紹介で、彼女の恩師のオム・ユヴァンナー教授宅を訪問し、山中さんへの個人レッスンの様子を再現していただいた後、カンボジア舞踊が王宮で伝承されていた頃についてインタビューをした。往昔、王宮で舞踊が行われていた頃の思い出を、次のように語られた。

「王宮のチャンチャヤー(CHANCHHAYA:月見台)や、ポーチャニー(PHOCHANY:迎賓館)で踊りを稽古したり、披露したりしていた。昔、母(宮廷舞踊の踊り手)が踊りの稽古をしていた時は王宮内に住んでいたが、私は王宮の中に住まず外から通った。
子どもの頃、年取った先生に習ったが、母がちょこちょこ覗き見て厳しく教えられた。肩を下げるとか、顎を上げる、とか皮が剥けるほど厳しい稽古で、腰の上下運動を2~3時間もやらされたり、「夜叉の足」(丸茂注:箱立ちになり片足を上げ下げする)を朝から夕方までやらされたことをよく覚えている。
1953年独立後は先生と踊り子、その家族を含めを含め300人ぐらいがいた。猿役の先生は男性で男子の生徒は少なかった。」

文化芸術省を訪問させていただいた折、ソチャット大臣が「カンボジアの芸能がユネスコの無形文化遺産に登録された時、一緒に居合わせたが、神内さんが自国のことのように喜んで下さった。神内さんにはいつまでもカンボジアにいていただきたい」とおっしゃっていた。カンボジアの宮廷舞踊がユネスコから2003年に、スバエク・トム(影絵芝居)が2008年に「人類の口承及び無形遺産の傑作」として宣言された蔭には、民族の壁を越えて一人の日本人の存在があったことを忘れてはならない。神内氏は、2010年11月にユネスコを定年退職され、現在はカンボジア政府の顧問官に就任されていらっしゃるそうだ。アジアで出会った素晴らしい日本人の一人である。
(『舞踊文化E.T.C』№21、黛民族舞踊文化財団、平成24年4月27日)


◇アジアの舞踊、おりふしの想い~韓国・国楽院&ソウル大学校~
 私の海外渡航の経験は遅い年齢であった。その初めが既にお話したが、1998年9月の韓国ソウルで開催された国立国楽院主催東洋音楽国際会議に招聘を受けてのことである。以来、ソウルへは10回を越えて訪問や招聘を受け、また主な伝統舞踊家や音楽学研究者を日本へお招きして今日に至っている。ことに国楽院は私の訪韓直後の9月末、当時の金大中大統領が国賓として日本を訪問された際に三宅坂・国立劇場で記念公演を行ったほどの韓国の伝統音楽・舞踊の国家機関である。今回は国楽院とその国際会議でご一緒だったソウル大学校の李愛珠教授について、各々の国際会議を通しての想い出を綴ってみよう。

・東洋舞踊の舞踊精神と近代伝統舞踊の父・韓成俊-国楽院主催東洋音楽国際会議
                     [1998年9月2-3日、於:国楽院牛耳堂]
 第3回東洋音楽国際会議のテーマは「東洋舞踊の舞踊精神」であった。かつて国楽院がヨーロッパ公演をした時の記者会見で「動かないのにどうしてそれが舞踊なのか」という質問を受けたのが動機で、東洋の舞踊はその自然な身体の動きや静止した中に精神的な拠り所を求めるということを確認するために本テーマが設定されたらしい。私はもちろん、「日本舞踊の舞踊精神-"道"と"遊び"と"祝い"-」の演題で発表した。
 ところで、この国際会議の招聘状に「韓成俊に敬意を表し、政府公認の文化形態に基づいて国際会議を開催する」という旨があり、会議当日は氏に関する冊子も配布された。一体、韓成俊(ハン・ソンジュン)とはどういう人なのだろうか。その「韓成俊の舞踊に関する韓国舞踊の精神」について発表したのが李愛珠教授であった。李先生は韓成俊(1874-1941)の娘・韓英淑(1925-1989)に舞踊の薫陶を受け、師に続き四十代で僧舞の人間文化財に指定された韓国舞踊の名手。彼女によれば、韓成俊は日本の植民地時代に創氏改名を拒否し民族意識を貫き、極貧の中で生命力と生活の動きに基づく創作によって韓国の伝統舞踊に近代性・未来性を備えることを目指したという。その発表の際に僅かではあるが、彼女が上半身だけを動かせて見せたサルプリ舞の実演は"恨(ハン)"という韓民族の心が見事に凝縮されていたようであった。
 さて、私の論評は国楽院芸術監督で鶴蓮花台合設舞で人間文化財に指定されている李興九氏であった。氏は私の論文から日韓の伝統舞踊の根底に流れている精神があまりにも韓国と類似点の多いのに驚いたというが、実際、私が日本舞踊の映像を紹介すると今度はそれ以上に様式の違いに驚かれていたことが懐かしく思い起こされる(日帝時代の終焉後、日韓は文化交流が断絶し日本舞踊についての公式な発表はこの時が初めてのようだった)。
 このように、人と人とのつながり、アジアの舞踊の心や形、そして組織や現状等、この会議で得たものは計り知れない。その後も、金大中大統領の訪日に伴って来日された国楽院の韓明熙院長には私の勤務する日本大学芸術学部で特別講義「韓国の伝統舞踊と音楽」をお願いできたのも幸いであったし、2001年9月、教科書問題で日韓の交流が冷え切った最中に本学では国楽院より特別な許可が下り楽器と衣裳の借用ができた。そして、滞りなく「韓の国 楽・歌・舞の流れ展」を開催し、美しい宮中舞踊の衣裳と日本初として正楽の楽器や韓成俊の功績を紹介することができた。今振り返ると、伝統舞踊や音楽を通して培ってきた隣国・韓国との篤い友情の証にほかならない。

・李愛珠教授とトンジャ・ナンジトゥ女史-ソウル大学校主催東北アジア舞踊国際学術会議                  [2009年11月12日、於:ソウル大学校閨章閣]
 国楽院の国際会議で初めてお会いした時、李愛珠先生には、言わば反日だからこそ韓国舞踊の魂が宿っているのだ、と私は直感した。そして、この素晴らしい舞踊家・李愛珠とお近づきいただけるか少し不安であったが、会食の折に日本人の私に細やかな気配りをして下さり、すぐ仲良しになった。
 その1年半後、私が半年間、韓国芸術綜合学校舞踊院で教鞭を執った折、2度程お目にかかったが、そうこうするうちに遂に2002年7月に東京で再会。日本女子体育大学で彼女を招聘し「日・韓 舞踊教育シンポジウム」を開催する計画があり、当時舞踊学会会長でいらした若松美黄先生のお取り計らいで李先生のご縁により私も参加することになった。当日、私との再会に驚きと喜びを示された李先生の姿が思い出される。
 李先生とは十年近く、このような淡々とした交際であったが、一昨年春に突然、彼女から国際会議の招聘を受けた。東北アジアの舞踊の共通点と相違点に関するテーマで私に日本舞踊について発表していただけないかという話であった。そこで私は、日本舞踊の概論として概念・起源・歴史・継承形態・技法・身体表現・動作解析について発表してきた。
 李先生、実は舞踊家としては天下一品だが、実務能力には長けているとは言えないようで、国際会議当日は学生たちのイベントと重なっており、会議の準備はてんやわんや、学生たちも会議を中座するなど嵐のような一日であった。でも、学生たちのイベントでの舞踊指導を遅くに終えて、ホテルで待機している私たちに食事をもてなして下さるなど滞在中に精一杯の真心で接して下さった。その国際会議で私と一緒に招聘を受けた方が八十歳のモンゴル国立文化芸術大学教授のトンジャ・ナンジトゥ女史。NANAプロジェクトが計測した日韓の伝統舞踊のモーション・データに大きな関心を示され、モンゴルにもモーションキャプチャを用いた動作解析を啓発でき、有意義な交流となった。

 この4月、私は再び、国楽院の開院60周年記念学術会議として開かれる「古楽譜・古舞譜国際会議」に出席することになっている。果たして、またどのような出会いが待っているか・・・。心躍らせて、今発表の準備に取り組んでいる。
 1998年の国際会議以降、向こうで知遇を得た多くの韓国の友人や若者が交渉(通訳)で私の訪韓を今も支えて下さっている。いっぽうでまた、そこで出会ったアジア各国の方々ともつながりができ、アジアの伝統舞踊を通して一つの輪になっていることを実感する。
(『舞踊文化E.T.C』№20、黛民族舞踊文化財団、平成23年6月3日)


◆アジアの舞踊、おりふしの想い~カンボジア&マレーシア~
 前回では私とアジアの舞踊との出会いと文部科学省オープン・リサーチ・センター整備事業の選定を受けた日本大学芸術学部NANAプロジェクトの舞踊教育機関の視察について紹介した。NANAプロジェクトは今年3月をもって終了したのだが、最後に訪問した国はマレーシアであった。プロジェクトの5年間で訪問したアジアの国は5ヶ国。いま振り返ってみると、カンボジアとかマレーシアの芸術を取り巻く環境や実態は日本ではあまり知られていない。そこで今回は、カンボジアとマレーシアを訪問した折の雑感を綴ろう。

・「水で稲を刈るのはたいへんだが稲がないよりましだ」-カンボジア王立プノンペン芸術大学付属芸術学校
 2008年12月25日午前、解放記念日(1月7日)に開催される独立30周年記念式典のための練習を見学した。場所は私が宿泊していたプノンペンのホテル近くのピーポワ劇場。式典に出演する古典舞踊の学生は言わば二軍ともいうべきメンバー。シェムリアップのアンコール遺跡ではアプサラダンス・ショーが観光名物で、それに出演する選抜メンバーが一軍である。その日の練習は大勢の輪踊りで中心にサーカスの学生、前列に古典舞踊の学生、外輪には民俗舞踊の学生、男子はイーケー劇やバサック劇などの学生を集めている。
 練習に立ち会っていたパオ・ティアン(Mr.Por Teang)芸術学校長に学校の概要についてお伺いしたところ、学科は舞踊(古典舞踊・民俗舞踊・カオル)、演劇(イーケー劇・バサック劇・現代劇)、音楽(古典音楽・現代音楽・アヤイ・チャペイ)、サーカス、造形芸術に分かれていて、生徒数は約1,180人で学生寮はなく自宅から通ってくるという。
 その日の午後は車で30分ほどデコボコ道を走ってバンサヤーにある芸術学校を訪ねた。ここもプノンペン市内だが、まったく無味乾燥な地に私が失望したのは前号で報告した通り。授業は午前が実技で午後は座学のはずだが、その日はクリスマスのため学生もまばらで授業はほとんど行われていない。案内役のバサック劇の先生は「外国では芸術家はお金持ちがやるがカンボジアでは貧しい人がやる。先生は教えたくとも給料が安く車のガソリン代がないから学校に来られない」等々、実際に抱える問題の多くを熱心に語ってくれた。
 前日、文化芸術省を訪問した際に「水で稲を刈るのはたいへんだが稲がないよりましだ」とフン・セン首相の言葉を教えていただいた。その言葉には、「どんなにたいへんであっても次世代を担う子どもたちに指導者が一生懸命がんばっていかねばならない。今まであった文化を無くさないようにして発展させていきたい」という意味があるそうだ。

・「伝統を持ちつつも前へ進む」-マレーシア国立芸術文化遺産大学
 国際交流基金の「文化人招へい」プログラムで来日されたマレーシア国立芸術文化遺産大学(ASWARA)のモハメド・ガウス・ビン・ナスルディン学長(Prof.Mohamed Ghouse Bin Nasuruddin)が昨年7月に日大芸術学部で特別講義をされ、NANAプロジェクトとも意見交換をしたことから、今年3月2日にASWARAを訪問した。
 ASWARAは現在ヘリテッジの教育課程がなく、学生たちの創作活動を中心に舞踊、演劇、音楽、映像、クリエイティブ・ライティング、造形の6学部がある。こちらのキャッチフレーズはカンボジアのような切実さはなく、「伝統を持ちつつも前へ進む」。「温故知新」と相通じる精神がみられるが、欧米化された日本では伝統文化という特定の分野でこそ重んじられる言葉が、マレーシアでは国立の芸術大学の教育方針であることに日本の文化的な差を感ぜざるを得ない。親日で知られるマレーシアなので、クリエイティブ・ライティングの中では歌舞伎や近松などの日本の古典を扱っているという。
 見学は舞踊の授業を主に企画され、民族舞踊の授業ではリズミカルなマレーの民族音楽に合わせて歩き方の練習をしていた。これはイナン・ダンスと呼ばれる宮廷の召使いの踊りでノリが早い。コンテンポラリー・ダンスでは、ドイツ政府が設立した国際文化交流機関であるゲーテ・インスティチュートから派遣されたドイツ人の先生による授業(イメージ創作)、インド伝統舞踊の先生による授業(伝統を現代にどのように活かすか)、香港の演劇学校卒業の若い先生による授業(側転の練習)の3つを見学。コンテンポラリーの受講生は伝統的な舞踊より人数が多いのは日本もマレーシアも若者の事情は同じようだ。
 その後、マヨンという宮廷舞踊と大衆マレー音楽を鑑賞しながら、用意された昼食を戴いた。マヨンは男役も女性が演じ、道化役だけ男性が演じる。最初は儀式の挨拶から始まり、物語は大体、旅で王子様に出会うという内容で道化によってその状況が説明されるというもの。

 偶然にもASWARAに日大大学院博士課程に在籍していたマレーシアの留学生が専任として着任していた。彼女はマヨンと狂言との共通性を研究し実践に移したいという抱負を語ってくれた。
 まだまだ知られていないアジアの舞踊・・・、日本へ来て勉強をした留学生やアジアへ留学した日本の若者たちによって、何れアジアの舞踊、いや音楽も演劇もそれらの全容がつまびらかになるのはそう先のことではなかろうと予測したマレーシアの旅であった。
(『舞踊文化E.T.C』№19、黛民族舞踊文化財団、平成22年5月12日)


◇アジアに花咲く“舞踊”の教育システム
 私とアジアの舞踊との出会いは1998年に韓国国立国楽院が主催した国際シンポジウムに参加し、日本舞踊の精神について発表したことに始まる。この出会いは私には衝撃的で、アジアの舞踊に共通する精神性を認識したばかりでなく、お互いの交流を深める絶好の機会となった。
 その後、私は2000年度前半を勤務先の海外派遣研究員としてソウルで過ごし、その間韓国芸術綜合学校の舞踊院で教鞭を執る傍ら、韓国内の主な舞踊教育機関の視察を行い、アジアの舞踊教育への関心を募らせた。今日の私のアジアの舞踊に関する基本的な考えはこれらの経験が拠り所になっている。
 そして今、私はNANAプロジェクトを立ち上げ研究活動を続けている。このNANAとは日本大学の「NU Art」と日本舞踊とアジアの舞踊の「Nichibu & Asian dance」の頭文字。2005年度に文部科学省オープン・リサーチ・センター整備事業の選定を受け、研究テーマは日本舞踊の教育システム(Education & Training)の基盤研究に置くが、国際化の今日に合わせアジアを視野に入れている。
 ここでは、NANAプロジェクトの視察で実際にこの目で見てきた、アジアの教育システムの側面について一部を紹介したい。

・伝承危惧の芸能を教育の中に-台湾戯曲専科学校
 台湾戯曲専科学校は京劇科・綜芸舞蹈(雑伎)科・伝統音楽科・歌仔戯科・劇場芸術科・客家戯科に分かれているが、中でも民間の芸人が高齢化のため技芸の伝承が危機にある客家戯(客家民族に伝わる茶摘みの情景を題材にした伝統芸能。茶摘み歌にレパートリーも多くある。)を正規の教育に組み入れた客家戯科の設置に私は注目している。日本でも今後、学校教育に日本の伝統舞踊を取り入れて振興や継承を図っていかねばならない方法を考えることが必要になるかもしれないが、客家戯に対する台湾の施策はアジアで見つけたその好例となろう。[2005年5月視察]

・指導者と舞台人に分けられた教育-中国戯曲学院
 中国戯曲学院は表演系・導演(演出)系・音楽・戯文系・舞美系の各学科他から成っている。その中の表演系は京劇の指導者を目指す学生と俳優を目指す学生とにクラスを分けている。とりわけ俳優を目指す学生の授業は「秋江」の花旦役とか「戦金山」の武旦役とか演目ごとにクラスがあり、1クラスは選び抜かれた3名だけ。男女とも容姿が端麗で技術も優秀だが、最終的には1名に絞られる。日本舞踊でも師匠になるための教育や舞踊家になるための教育など目的に見合った指導法が好ましいと私も思うのだが、卒業後に舞台人として活躍できる点では中国は日本より一歩進んでいよう。[2006年9月視察]

・王立と民間との舞踊教育の違い-王立プノンペン芸術学校とクメール芸術アカデミー
 7,8年前にカンボジアの古典舞踊の復興に日本が積極的に関わっているという記事を読んでからカンボジアの舞踊に関心を抱いていたところ、ようやく昨年、視察が実現した。王立プノンペン芸術大学付属学校は舞踊・演劇・音楽・サーカスなど10の学科に分かれている。10年程前までは王宮の近くにあったが、現在は6㎞離れただけの僻地にも等しい悪条件の地に移転していた。報道で報じられるカンボジアそのものの貧しさ・・・・・。王立の学校が舞踊を育む環境とは言えないのとは対照的に、クメール芸術アカデミーというNGOでは宮廷舞踊の優雅さを失わない舞踊教育が実践されていた。[2008年12月]

 さて今年1月末、NANAプロジェクトでは日韓シンポジウム「舞踊の教育システム:伝統の再編-活用-浸透」を開催した。9年前、私がソウル滞在の折に視察した慶煕大学校の金末愛教授、韓国芸術綜合学校伝統芸術院の梁性玉教授を招聘した。奇遇にも、黛節子先生が1988年に訪韓された折に面会された慶煕大学校の金白峰先生(現・名誉教授)の後継者が金末愛さん、韓国舞踊協会理事長の姜善泳先生(現・人間文化財)の後継者が梁性玉さんである。
 一体、私をアジアに駆り立てるものはどこからくるのだろうか? 私は20歳の頃に黛先生の舞踊への探求心に憧れ、琉球舞踊や民俗舞踊をお教えいただいたことがある。きっと黛先生の舞踊にかける情熱が私とアジアの舞踊との邂逅を導いて下さったのかもしれない。
(『民族舞踊文化』№21、黛民族舞踊文化財団、平成21年5月11日)

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